真の王へ


  • 奮闘する王
  • 前283年に父デメトリオス1世が死ぬと、ゴナタスは自ら艦隊を率いてアジアへ向かい、遺灰を受け取って 帰還した。道中で寄港した都市は彼に花冠を贈り、喪服を着た人々をいっこうに加えつつギリシアへ戻った。 デメトリオスの遺灰はテッサリアに築かれたデメトリアスの町に埋葬されたという。そしてゴナタスはアンテ ィゴノス家の単独王となり、マケドニアの王位を主張し続けた。しかし当時のゴナタスの手許には艦隊とギリ シア各地の「友人たち」、そしてわずかに残された拠点を守る守備隊と指揮官がいるのみであった。そのよう な人々の中には、コリントスを守備する異母兄弟クラテロス(フィラがデメトリオスと再婚する前にもうけた 子)やペイライエウスの守備隊を指揮するヘラクレイデスのように忠実である者もいるが、必ずしも全員がそ うではなかったようである。

    デメトリオスが追われた後のマケドニアはピュロスを放逐したリュシマコスが王となったが、リュシマコス家 の内紛がきっかけでセレウコスとリュシマコスが前281年にコリュペディオンで戦った。戦いはリュシマコスが 敗死し、勝ったセレウコスもマケドニアに向かおうとする途中でプトレマイオス・ケラウノスに殺された。リュ シマコスが戦死し、セレウ コスが殺された当時、マケドニアの王位を窺っていた人物はケラウノス、ゴナタス、 プトレマイオス(リュシマコスの子)がいた。その中ではケラウノスが最も王位に近く、軍の支持を得て王と なったのである。これ に対しゴナタスはマケドニア王になろうとして艦隊を率いてマケドニアを攻撃したがケラ ウノスに敗れた。

    一方ギリシアにおいても様々な問題が生じていた。スパルタ王アレウスを中心にゴナタスに対する軍事行動が 起こされたり(アイトリアに攻められて撤退するが)、アカイア同盟が再結成されてペロポネソス半島の大部分 が彼の支配から離脱したほか、ボイオティアの一部も離脱した。アテナイではデメトリオスが死んだ頃より反 アンティゴノスの活動が強まり、アンティゴノス朝の守備隊が置かれていたムーセイオンの丘はアテナイに奪回 され、ペイライエウスも危うく奪われかけたという。しかしデメトリアスやコリントス等々ゴナタスが拠点 として保持していた地域はこのような動きの中でも彼の手中に残すことに成功した。

  • 「ガリア人」とマケドニア
  • ゴナタスがギリシア本土に置いて様々な問題を抱えていた頃、東地中海世界に混乱を引き起こす一大勢力が北方 より侵入してきた。「ガリア人(ケルト人)」と呼ばれる人々が北方から侵入してきたのである。「ガリア人」 の侵入には3つの流れがあったが(トラキア方面、パイオニア、マケドニア)、そのうちのボルギウスが率いる 一派が前280年の冬頃よりドナウ川流域からマケドニアへ侵入してきた。「ガリア人」はマケドニア北方にいた ダルダノイ人と一緒にマケドニアに侵入して前279年冬にケラウノスを敗死させ、マケドニアを蹂躙した。「ガ リア人」の兵士達とマケドニア軍では戦い方、装備とも異なり、密集隊形をくむマケドニア軍は長剣をふるい 大型の盾を装備した勇猛な「ガリア人」兵士たちに隊形を乱され、敗北したものと思われる。彼らの侵入は マケドニア、ギリシア本土、小アジアに混乱をもたらすこととなった。マケドニアはケラウノスの死後、メレア グロス(ケラウノスの兄弟)やアンティパトロス・エテシアス(カッサンドロスの甥)が王となったり、ガリア 人に対して軍勢を集めて抵抗したソステネスが将軍に任命され権力を握るなど混乱状態に陥っていた。

    混乱状態にあるマケドニアに「ガリア人」のさらなる侵入がみられた。この時に「ガリア人」を率いていたのは ブレンヌスという人物であり、イリュリアの方から東へ進んで上部マケドニアに入った。ブレンヌスによる侵入 は前の侵入よりさらに大規模であり、その数は推定で50000ほどだったという。ソステネスは軍勢を集めて対抗 したが敗北し、ブレンヌス率いる「ガリア人」はマケドニアを荒らした。その後ブレンヌスはギリシア本土、特 にデルフォイの神殿の略奪をかんがえて南下した。しかしそこでアイトリア人に敗北し、ブレンヌスは死亡、他 の人々も北方へと逃げ帰った。その後も「ガリア人」の侵入は断続的に続き、中には小アジアに渡って現地に定 着したものも現れた(彼らが定着した地域はガラティア地方とよばれるようになった)。

    このようにマケドニアやバルカン半島を荒らし回った「ガリア人」であるが、幸運なことにゴナタスの根拠地は 荒らされることなく保持されていた。「ガリア人」がマケドニアやバルカン半島を荒らしている頃、ゴナタスは 前280年よりずっと小アジア方面で軍事活動を展開していた。当時小アジアではビテュニアなどの小王国が反乱 を起こすなど不安定な状態にあった。そしてビテュニア王ニコメデスはゴナタスと組んでアンティオコス1世と対 抗していた。ゴナタスはそのような状況を利用して小アジアに勢力を拡大しようとしたのか、あるいはリュシマ コス死後のトラキアに拠点を築こうとしたのかは定かでないが、ゴナタスの動きがアンティオコスにとり脅威と うつったようである。

    アンティオコスとゴナタスの戦争は詳細は伝わっていないが、恐らく前278年まで続いたとかんがえられている。 前278年にゴ ナタスはアンティオコスの義理の娘フィラ(ゴナタスにとっても姪に当たる)と結婚することや、アン ティオコスがマケドニア王位に対する要求を、ゴナタスが小アジアのリュシマコス領に対する要求を互いに放棄 するという内容で講和を結んだ。こうしてアンティオコスと講和を結んだゴナタスは軍勢を集めてマケ ドニアの王位を窺うようになった。そして前277年にリュシマケイア近郊で今までさんざんマケドニアを苦しめて きた「ガリア人」を破り、さらにカルキディケ半島の重要都市カッサンドレイアを攻略した。そしてマケドニア 国内にいたラ イバル達を追い落とし、ついに前276年にマケドニア王として正式に承認されたのであった。前287 年にデメトリオスがマケドニアを追われてから10年以上の年月を経て、再びアンティゴノス家の王がマケドニア を支配するようになったのである。

  • ピュロスとの戦い
  • このようにしてマケドニア王となったゴナタスであるが、前274年になって彼は再び王座を脅かされた。イタリア 半島南部のギリシア人植民市の要請を受けてローマと戦っていたエペイロス王ピュロスが撃退され、イタリアから 戻ってきたためである。父 デメトリオス存命中よりピュロスはマケドニアからデメトリオスを追い出したのみなら ず、テッサリアやギリシア諸都市のアンティゴノス朝の拠点を脅かしていたが、再びマケドニアを支配下に置こう として攻め込んできたのである。南イリュリアのアオオス峡谷でゴナタスはピュロスに敗れ、さらにマケドニア軍も ピュロス側に付いた。そしてゴナタスからマケドニア西部と中央部が離れ、彼はテッサロニケに逃げ込み沿岸部のみ をかろうじて保持する状態であった。

    マケドニアの大部分を支配下に置いたピュロスは間もなくマケドニアとテッサリアの支配を息子に任せると、 自らはペロポネソス半島へと向かっていった。当時マケドニアにおいてピュロスは「ガリア人」傭兵達の アイガイの王墓略奪を罰しないなどの振る舞いによりマケドニアにおける人気が急落するなど、かなり不安定 な状態に陥っていたが、そのさなかに追放されたスパルタ王クレオニュモスの要請を受けてペロポネソスへと 行ってしまったのである。アンティゴノス朝の支配下にあるギリシア諸都市を開放するという名目で要請を受けた ピュロスがペロポネソ スへ向かった隙をつきゴナタスはマケドニアの大部分を奪回した。そしてゴナタスもペロポ ネソス半島へと向かい、両者の戦いは舞台を変えて続いていった。

    スパルタはピュロスの攻撃に対して頑強に抵抗し、コリントスからの援軍の到来やスパルタ王アレウスの帰還など もありピュロスを撤退させることに成功した。スパルタから撤退したピュロスはアルゴスへ入り、アルゴスで党争 を繰り広げる一方の派閥に肩入れした。そしてもう一方の派閥はゴナタスの加勢を得ていた。そして両者の間で アルゴス市内において市街戦が展開された。そして市街戦のさなかピュロスは不慮の死を遂げ、ゴナタスの王座を 脅かした最後のライバルも姿を消した。このようにしてゴナタスはマケドニアの王座を確保し、支配を安定させる 事に成功した。ま たピュロスとの戦争の後、ペロポネソス諸都市がアンティゴノス側につき、親マケドニア派が 実権を握った。マケドニアへの帰路、ゴナタスはエレトリアやカルキスの守備隊を固めた。こうしてマケドニア からギリシア本土に至る各地に拠点を作り、ギリシアの支配を固めていったのである。


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