若き日のアンティゴノス・ゴナタス


紀元前276年頃、マケドニア王国の王位にかつての王デメトリオス1世攻城王の子が推戴された。281年にリュシマコス が死んでから長らく不安定な状態が続いたマケドニア王国はこれ以降ようやく安定を取り戻していくことになる。この 時王位についた人物こそ、「王権は光栄ある奉仕」と言う言葉を残したアンティゴノス・ゴナタスであった。

  • アンティゴノス・ゴナタスとその血族
  • アンティゴノス・ゴナタスの生年は定かではないが、恐らく前319年であったとされる。父親は後に「攻囲王」と渾名 されるデメトリオス、母親はマケドニアの将軍アンティパトロスの娘フィラであった。フィラは当初アレクサンドロス 大王の部将の一人クラテロスと結婚した。この結婚はアンティパトロスが東征軍の実力者だったクラテロスとの結びつ きを強めるための政略結婚であった。この結婚でフィラは一児をもうけた。その後クラテロスが戦死して寡婦 となったフィラであったが、再び夫を迎えることとなった。隻眼のアンティゴノスがフィラと自分の息子デメトリオス と結婚させることで自らの勢力をさらに強化しようと考えた結果行われた政略結婚であった。結婚当時デメトリオスは 18歳、フィラは20代半ば〜後半であった。この結婚によりフィラは2児をもうけた。一人はストラトニケ(のちにセレウ コス朝に嫁ぐことになる)、もう一人がアンティゴノス・ゴナタスであった。「ゴナタス」という言葉自体は意味は分 かっていないが、おそらく地名に由来するといわれ、その場所はテッサリアの一都市ゴンノイであったとされる。

    ゴナタスの兄弟姉妹にはのちにセレウコス1世、さらにアンティオコス1世に嫁ぐストラトニケと、フィラがクラテロス との間にもうけていた連れ子のクラテロス、デメトリオスがプトレマイス(エジプト王プトレマイオス1世の娘)の間 に生ませたデメトリオス(後のマケドニア王アンティゴノス3世ドーソーンの父親)がいた。ディアドコイ戦争当時、 彼らは互いの勢力を維持するために政略結婚を盛んに行っていた。そのためゴナタスもある時はセレウコス1世が義理の 兄弟であったり義理の父となることもあれば、プトレマイオス1世は叔父、後に激しく争うプトレマイオス2世はいとこ ということになった。その他、カッサンドロス、ピュロス、リュシマコスは彼の叔父であった。このような複雑な血縁 関係が作られるような政略結婚が繰り返されたが、結婚により関係が安定するとは限らなかった。

  • 若かりし日々
  • 少年期、青年期のアンティゴノス・ゴナタスに関して分かっていることは少ない。そもそもゴナタスが生きた時代は 極度に史料が少ない時代であるが、それは少年期・青年期も例外ではないのである。彼に関して25歳くらいになるまで の頃は確実なことは何も言えないに等しい状態であり、そのため推測を交えて語る部分が多くなりがちである。まず 彼が若い頃の家庭教師としてオリュントスのエウファントスがつけられ、彼はゴナタスのために王国統治論を著した という。またゴナタスはクレアンテス、メネデモス、ビオン、フリウスのティモン、アルケシラウスといった哲学者 と親しく、特にゼノンと親しかったという逸話が残されている。このような逸話は後になってから作られたものである と考えられるが、彼 が哲学を学び始めたのは若い頃のことであり、また時と状況が許す限りは生涯にわたって続け られたという

    その一方で、イプソスの戦い以前の時点では、若い頃の彼がデメトリオス1世を補佐して政治に関わったのかどうか 定かでない。デ メトリオス1世は若い頃からアンティゴノス1世と共に活動し、共同統治者として王位にもついていた 人物である。しかしデメトリオスがゴナタスが自分と同じくらいの年の時に戦争などに参加させたのかどうかは不明である。 ゴナタスの若い頃は父親と共に過ごしたときは多くなかったと考えられる。幼少期を母親と共に過ごすと言うことは ギリシアではふつうのことだが、ゴナタスの場合はデメトリオスが各地で活発に活動していたこともあり青年期まで 母親と過ごしたようである。また、若い頃はアンティゴノス1世の宮廷のあるケライナイで過ごし、そこで教育も受け たと考えられている。

    デメトリオスが各地を転戦している間ゴナタスがどこにいたのかは定かでない。前305年のロドス包囲戦争にも参加 していなかったようであるし、前301年のイプソスの戦いにもゴナタスの姿は見られない。ゴナタスよりも1つ若い ピュロスがイプソスの戦いにも参加し、さらにデメトリオス不在時のギリシア支配を任されるなどの活躍を見せて いることと比べるときわめて奇妙である。恐らくこの時期のゴナタスはアテナイに滞在して様々な哲学者のもとで学 んでいた時期だったようである。前301年にイプソスの戦いで敗れたデメトリオスはアテナイから受け入れを拒否され、 コリントス、メガラ、カルキスなどわずかな拠点を残すのみとなった。しかし彼はなお勢力拡大を目指して活動を 続けた。そしてゴナタスが父親と共に政治や軍事に関わるようになるのはこのころのことであったと考えられる。

  • 国王“見習い”として
  • イプソスの戦いでデメトリオスが敗北し、ギリシア本土に残されたわずかな拠点に依って勢力を立て直そ うとする時期はゴナタスにとり、軍事的にも政治的にも様々な経験を積むことができた時期である。イプソスで敗北 して領土の大半を失ったとはいえ、デメトリオスはコリントスやカルキス、メガラを拠点として残していた。この中 では、コリントスがデメトリオスの活動の主要な拠点となり、そこから中央ギリシアやペロポネソスへ進出していった。 おそらくコリン トスにおいてそれまで親子といえほとんど一緒にいたことがなかったデメトリオスとゴナタスは 真に知り合ったのではないかと推測されている。

    イプソス以後、デメトリオスは体制の立て直しを図り、前299年、セレウコスに自分の娘ストラトニケを嫁がせた。 さらに自らはプトレマイオスの娘プトレマイスをめとり、他の王達と同盟関係を作り上げていく。さらに前298年に デメトリオスの勢力が追い出されたアテナイにおいてカッサンドロスと協調するラカレスが権力を握っていた。デメ トリオスはアテナイを包囲し、ペイライエウスへの道をおさえた。アテナイは港のペイライエウスとの連絡を絶たれた こともあり、食糧難に陥った。救援にきたプトレマイオスも退けられ、結局ラカレスはアテナイから逃げ出し、アテナイ はデメトリオスの勢力下に入った。アテナイを支配下に納めた後デメトリオスはいったんはペロポネソス半島へ向かい、 前294年にカッサンドロス家の内紛に乗じてマケドニアの王となる。そしてデメトリオスがマケドニア王となったときに、 ゴナタスは後継者とされた。

    イプソスの戦いからデメトリオスがマケドニアの王となるまでの間、ゴナタスがどのような活動をしていたのかは定か ではない。しかし史料にはデメトリオスが王となったとき、「父親と共に軍務についていた」という記述がみられる ことから、父であるデ メトリオスと行動を共にして軍事や政治の経験を積んでいったと考えられている。前299年 にデメトリオスがフィラ、ストラトニケとともにシリアに向かった際にも彼らと行動を共にした可能性がある。また、 前296/5年に行われたアテナイ包囲にも従軍したのであろう。

    マケドニア王としてのデメトリオスはマケドニアやテッサリアですごし、その他各地に遠征していたが、そのころの ゴナタスは主にギリシアに置いてアンティゴノス朝の勢力拡大を図っていたようである。そして前272年にゴナタス と共にアルゴスで戦っているハルキュオネウスの母親はアテナイのヘタイラ(遊女)であることから、アテナイに 長く滞在していたと考えられている。また、デメトリオスによってボイオティア方面の活動を任され、エペイロス 王ピュロスと戦うためにテッサリアへデメトリオスが向かっている間にボイオティアの反乱を抑えたり、デメトリオス とともにテーバイ包囲を行うなど、様々な経験を積んでいった。そしてデメトリオスが前287年にマケドニア王を追 われ、その後小アジアへと軍勢を引き連れてわたっていく頃もギリシア本土で活動してアンティゴノス朝の勢力を維持 していたようである。デ メトリオスは小アジアに遠征したものの、徐々に追いつめられて前285年にセレウコスにとら えられ、2年間とらわれの生活を送った末に死去した。ゴナタスは父の遺骨を引き取って帰国すると、彼の後をついで、 前283年より マケドニアの王を自称するが、わずかに残された都市と港、各地の「友人」たちのみを基盤とする彼が実際に マケドニアの王となるにはさらに7年の年月を要したのであった。


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