ヘファイステイオンとクラテロス
  〜マケドニアの将軍たち(3)〜



ヘファイステイオンはアレクサンドロスに賛同して同じように風習を変え、クラテロスは父祖の風習を守っている のを見たので、アレクサンドロスは東方人に対しては前者により、ギリシア人・マケドニア人に対しては後者によ って事を処した。概して前者を最も愛し、後者を最も尊敬し、ヘファイステイオンはアレクサンドロスの友、クラ テロスは王の友と考えていたばかりでなく、いつもそう呼んでいた。
(プルタルコス「アレクサンドロス伝」(筑摩文庫版)より)

アレクサンドロス大王が東征を続ける過程で、東方との協調路線を打ち出していったことは知られている。それに対する マケドニア人、ギリシア人の対応はまちまちであったが、アレクサンドロスの側近の中でも対応が上記のように分かれて いた。上の記述に現れるヘファイステイオンとクラテロスは東征中のアレクサンドロスの側近として非常に重用された人々 であるが、両者に対するアレクサンドロスの対応も異なっていたという。

  • ヘファイステイオン
  • ヘファイステイオンはアレクサンドロス大王と同年生まれのマケドニア人貴族であり、幼いときよりアレクサンドロスと 共に育てられ、東征にも従軍した。彼は容姿や背丈ではアレクサンドロスより上だったという。アレクサンドロスとヘファイ ステイオンは幼き頃から親しい友人であったといわれ、その親密さ故にしばしば両者の間には同性愛的な関係も想定される。確かにヘファイステイオンが前 324年に急死したときにアレクサンドロスが見せた常軌を逸した悲嘆からは、両者の間 には親密な関係が当時存在していたことは確かである。しかし、通説で言われているように初期の頃から両者は 親密だったという点について、これを疑う説もある。

    それによると、フィリッポス2世存命中にアレクサンドロスの友人達 が国外追放に処せられたとき、ヘファイステイオンは全くその名が見られないことなどから、実は幼い頃からの親友ではなかったの ではないかと考えられるというわけである。ただし、この時に追放されたネアルコスやプトレマイオスらはアレクサンドロスの同年 代よりやや上の人々であり、彼らはアレクサンドロスの親友と言うよりもむしろ相談役のようなものとする説もある。また、他に アレクサンドロスの親友といわれているものたちの中で追放されていないものもいる。こうしたことをかんがえると、この件を以て ヘファイステイオンを親友でなかったとする事は少々無理があると思われるので、両者の関係は幼年期以来の親友として見ても問題は無い とおもわれる。

    アレクサンドロスの東征開始当初は、イリオン訪問の際にアレクサンドロスとともにパトロクロスの墓に花を供えたという逸話や、 イッソスの戦いの後に捕虜にしたペルシア王家族との会見に同席したという逸話、シドンの王(テュロス王とする史料もある)の 人選を一任されたという逸話が見られる程度のヘファイステイオンであったが、彼が東征軍の作戦行動で目立って活躍するようになるの は東征開始から5年がたった前330年秋のフィロータス事件以降である。フィロータス事件においてヘファイステイオンは陰謀を査問する メンバーに加わり、さらにフィロータス後のヘタイロイ騎兵の指揮権をクレイトスとともにゆだねられている。

    これ以降彼の活動は遠征 の記述にも表れるようになり、ソグディアナ平定作戦や冬営地の糧秣準備を委ねられたほか、カーブル河谷南方を進む先遣隊を率いたり、 インド侵攻の際には架橋、新都市建設、インド平定などをまかされた。その後もマッロイ人平定やカルマニアの別働隊指揮などにも関わ った。そしてスサの集団結婚ではアレクサンドロスが結婚したペルシア王女の妹と結婚したほか、さらにキリアルケスという地位につけ られ、アレクサンドロス帝国の大宰相に位置づけられるに至った。

    ヘファイステイオンは遠征後半になると様々な場面で活躍している様子が見られるが、実際には遠征中盤までマケドニア軍中においては 彼はそこまで評価されていたかと言うと疑問が残る。例えば、フィロータス事件の後にヘタイロイ騎兵の指揮官に任命された とき、同僚としてクレイトスが任命されている。ヘタイロイ騎兵の指揮官の件については、従来 フィロータスが一手に握っていたものを2つに分割して権力の分散をはかったという面も勿論あると思われる。クレイトス一人に 権力を持たせるのは彼がフィリッポス2世以来の家臣であることからアレクサンドロスにとり都合があまり良くなかったであろう。 一方でヘファイステイオン一人に指揮権を与えるのも当時、東征軍の中で特に目立った軍功がない彼を抜擢することで他の将兵の反発を買う可能性が 高かっというところではないか。また後半の活躍も軍を率いて華々しく戦うというよりも、後方支援、兵站維持などどうしても目立ちにくいが重要 な任務にあたっていることがおおい。華々しく戦って戦果をあげるのとまた違う才能を持っていたという所か。

    また、ヘファイスティオンはアレクサンドロスと親密な関係を築く一方で、彼同様にアレクサンドロスの友人であったクラテロスと対立 したり、書記官のエウメネスとはきわめて険悪な仲であったとも言われている。また、ヘファイスティオンとアレクサンドロスが親密 な関係にあることが、アレクサンドロスの母親オリュンピアスの嫉妬心を引き起こし、彼女は直接彼に脅迫まがいの手紙を送りつけて いる。他の武将達や王の母としっくりいっているとは考えにくいヘファイステイオンであるが、アレクサンドロスは彼を大いに気に入り、 非常に親密な関係になっていた。才能に加えて、その親密な関係故に高い地位に取り立てられたところもあるかと思われる。 そして彼の死に対するアレクサンドロスの悲嘆は常軌を逸したものであり、空前の規模の葬儀を行い、彼を半神として祀らせたのみならず、 葬儀が終わるまで全土の聖なる火を消させるという、ペルシアでは王の葬儀で行うような儀礼を行わせたほどであった。 彼にとって得がたい相棒を失う悲しみは深かったということであろう。

  • クラテロス
  • クラテロスは上部マケドニアのオレスティス出身の貴族であり、兄弟のアンフォテロスはマケドニア艦隊の指揮官を務めた 人物である。彼自身東征中はマケドニア密集歩兵部隊の指揮官としてイッソスやガウガメラの合戦に参加していたことが 史料から判明するが、彼自身がマケドニア密集歩兵の1部隊を率いていただけでなく、左翼の歩兵部隊全体の指揮官に任ぜ られていることから、東征軍において遠征開始当初よりかなり重要な存在であったことが窺える。また東征中の彼は歩兵部隊 の指揮のみならず、様々な作戦を同時進行で進める際には一方はアレクサンドロスが指揮を執り、別働隊は彼が指揮を執った 戦いもある。たとえばテュロス包囲戦では左翼艦隊全体を指揮しているほか、マルドイ・タプロイ人掃討作戦でも 彼は一方の全体指揮を任されている。その他、アレクサンドロスが出動している最中には残された部隊の指揮を任されて いたことがバクトリア、ペルシア門、テュロス、ヒュダスペス河などの戦いの場面で見られる。こうしたことから、彼は アレクサンドロスからマケドニア軍の中では、様々な作戦活動を任すに足るだけの力を持つと見なされ、その力をかなり 信用されていた人物だったようである。

    このようにアレクサンドロスの遠征で重要な地位についていた彼は、フィロータス事件およびパルメニオン殺害事件の後 には東征軍全体の副将格の部将として重要な作戦を遂行したり、別働隊を率いて反乱を起こしている現地人を鎮圧する 等の活躍を見せている。そのような人物であるクラテロスはアレクサンドロスからも厚い信頼を寄せられていたようである。 一方で他の部将との対立もあり、フィロータスとその権勢を争い、のちに彼を追い落とす側に回って積極的に動いたようで あるし、その後もアレクサンドロスの親友ヘファイスティオンとも対立していた。そのような対立があったにもかかわらず、 彼はマケドニア軍中で重きをなす存在であり続けた。

    東征軍の中においてクラテロスの立場はマケドニアの伝統を尊重する立場をとり、アレクサンドロスの東方協調路線とは 違う立場にあった。マケドニアの伝統を尊重するクラテロスはマケドニア人将兵の人気が高く、アレクサンドロスに対して も不興を買うことを承知であえて苦言を呈することのできる人物であったという。なお、彼はマケドニアのモザイク画に見られる ライオン狩りの場面においてアレクサンドロスと共にかかれているとしてしばしば取り上げられる人物であり、ライオン狩り において危機に陥ったアレクサンドロスを助けた場面を像にしてデルフォイに奉納したとも言われている(実際の像の奉納は奉納 詩文によれば同名の息子が行ったと言われる)。

    マケドニアの王や貴族が名誉を競う場である狩猟で危険にさらされた王を助け、 それでいて王からとがめられることもない(先に獲物を捕った近習は罰せられ、王を助けようとしたリュシマコスは叱責された という話がある)という点でも、彼が王にとってかなり重要な存在であったと考えられるが、一方であえて苦言する事も度々 あるという点でヘファイスティオンと違ってかなり目障りな存在だったとも考えられる。前324年にマケドニア人将兵が引き起こした オピス騒擾事件の後、クラテロスは復員兵の指揮官に任命されて一路マケドニアへと帰国することになるが、これはある意味では 体の良い所払いともいえる。東方との協調路線を進めるためにはクラテロスのようなマケドニア中心主義的な考え方はじゃまで あるため、マケドニアに復員兵を連れて帰り、摂政アンティパトロスと交代するということにして追い出したと見ることもできる。

    前323年にアレクサンドロスが死去したときキリキアに滞在していたクラテロスは、バビロンにおける評定で新王フィリッ ポス3世の後見役に任命された。その後彼はアンティパトロスの救援要請に応えるべく、現地でペルシア人軽装兵と騎兵を 編入して戦力を強化した上で本国へと渡り、当時ラミア戦争で苦戦していたアンティパトロスを助けて勝利を収めた。 ラミア戦争終結後、クラテロスはアンティパトロス、ペルディッカスとともに帝国を支える重鎮であり続けた。彼は スサの集団結婚によりオクシュアルテスの娘アマストリネと結婚していたが、前322年に離婚し、アンティパトロスとの 結びつきを強めるために彼の娘フィラと結婚していた。

    そして彼は徐々にペルディッカスと敵対するようになっていった。 そして王位への野心を示したペルディッカスを討つべくアンティパトロス、アンティゴノスと共にクラテロスはアジアへ 向かうが、そこで彼は生涯を終えることになった。当時小アジアはペルディッカスが派遣したエウメネスが彼らに備えて いた。そしてエウメネスは兵士達に戦う相手を伏せておいて戦いを開始し、クラテロスは前321年(あるいは前320年) にエウメネスと戦って戦死した。こうして、東征の期間中際だった活躍を見せたクラテロスは後継者戦争の時代にはそのほん の始まりの段階で舞台から退場する事を余儀なくされたのであった。

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    ヘファイステイオンとクラテロスというアレクサンドロスの信頼厚き2人の部将は、アレクサンドロスの晩年になると、 一方はアレクサンドロスに重用されるようになり、もう一方はやや遠ざけられていくという対照的な歩みを見せた。 どちらも友人として重要な存在であったが、その差を分けたものは両者の発揮した才能の違い、卓越や名誉を重んじ る アレクサンドロスの性格、この2点が関係しているのではないかと思われる。

    クラテロスに関しては、東征軍では左翼 全体の歩兵部隊の指揮を任されたり、途中からは副将格として様々な軍事活動に従事するなどの活躍を見せ、戦闘以外 でもライオン狩りでアレクサンドロスの危機を救い、それを像に残して奉納するなどしているが、こういったことが 「最も尊敬できるもの」というやや遠い存在として扱われれた要因であるように思われる。アレクサンドロスは常に 戦争であれ狩りであれ常に自らが優れていることを示し続けようとする人物であるが、クラテロスはそれを脅かしかね 無い存在であったのではないか。

    一方のヘファイステイオンは華々しい戦功がある訳でないが、後方支援や兵站維持などで活躍し、アレクサンドロスに気に 入られてトントン拍子に出世していった。アレクサンドロスにとってヘファイステイオンは昔から非常に親密な関係 にある(恐らく同性愛的な関係もあったと考えられている)ことや、自らの卓越性を脅かす心配がなく、余計な心配をせずに 接することができる人物だったためではないだろうか(追記2022年8月1日:以前書いてから修正し忘れたままでしたが、 前線で手柄を立てるタイプと言うより、後方支援、兵站維持などそちら方面で才能を発揮するタイプだと思っています。 出てくる話もそういう系統が多いです。その辺、以前の評価は修正が必要かなと思った次第です。若さ故の過ちか(もとの 記事を書いた頃は今より血の気も多かったなと))。 優れている事は認めるが何となく煙たく感じられる者と、余計な心配をすることなく気を許せる者、 そう言ったところが、「王の友」、「アレクサンドロスの友」といった呼び名に現れたのであろう。


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