ネアルコスの探険航海


アレクサンドロス大王が前326年にヒュファシス川から引き返していく時、インダス川のデルタ地帯のパタラから 軍勢を3つに分けた。一つはクラテロスが率いてまずはカンダハルを目指した、そしてアラコタイ人、ドランガイ 人の地を抜け、カルマニアに出る別働隊で、当時イラン東部の諸州にて不穏な動きが見られるという情報が伝えら れていたことが関係するようである。アレクサンドロス大王自身は別の部隊を率いてクラテロスとカルマニアで 合流することにした。残りの部隊はネアルコスを指揮官として海路で進むこととなった。

  • ネアルコスの経歴
  • ネアルコスはクレタ出身であるがアンフィポリスに住むようになった人物である。通説ではネアルコスは即位前 よりアレクサンドロスの友人・側近の一人であったと考えられ、フィリッポスとアレクサンドロスの軋轢に関わ ったためにフィリッポスによって一時国外追放を受けた友人4人のうちの1人であるとされているが、実際には友 人ではなくかなり年長の相談役として据えられたのではないかとも考えられている。

    アレクサンドロスの東征1年目の冬(前334/3)、リュキア、パンピュリア太守に据えられていたが、前329/8年冬 にリュディア太守アサンドロスとともに新たに徴募された傭兵を引率してアレクサンドロスの軍勢と合流した。 そして、アレクサンドロスがヒュファシス川より引き返して前326年秋のインダス水系を南下するにあたって船団 の指揮を任された。そして、彼はインダス川下りの際にすでに船団を指揮した経験があることからアレクサンドロス に指揮官の人選を相談され、最終的に彼自ら引き受ける形で外洋航海に出る艦隊の指揮官となった。こうしてネアル コスは前325年にインダス川河口からペルシア湾奥への沿岸航海へと出発することになるのである。

  • 航海の始まり
  • 前325年9月21日、ネアルコスを指揮官とする艦隊がパタラを出航した。当初は北東の季節風が吹き始める10月に出航 する予定だったようであるがそれよりも早く出航し、西北部の港に移動してそこで24日ほど過ごした後に本格的な航海 を開始した。出航を早めた理由は周辺地域の現地人の間に不穏な動きが見られたためだと言われている。

    出航してからしばらくして停泊したコカラにおいて、ネアルコスはアレクサンドロスが事前に蓄えていった食料を補充 し、それは10日分に相当した。アレクサンドロス率いる部隊はネアルコスの艦隊より先にパタラを出発し、ネアルコス の艦隊を支援すべく沿岸部に井戸を掘り、食料を蓄えようとした。しかしタプロイ山脈に当たったために内陸部を進む ようになり、ネアルコスの艦隊への食糧供給も途絶えていく。そのためネアルコスの艦隊は毎日のように停泊できる場 所に接岸しては水や食料を求めなくてはならなくなった。

    その後ネアルコスの航海は彼自身が公開の記録を残し、アッリアノスが「インド誌」を書くに当たってこれを参照した 事から多くのことがが知られている。そこから窺える航海は沿岸に停泊して食料や水を求め、停泊場所によっては現地 人と戦わねばならない、かなり過酷な航海であった。食料や水を何とか入手しても、ある時は魚くさい羊肉であったり、 またある時は食料に困ったネアルコス達が停泊場所の近くの都市をいわばだまし討ちにする形で何とか食料を手に入れて みたものの、そこにあったものは魚粉がほとんどであったり、といった具合で、兵士達の食糧事情はきわめて悪かった と考えられる。

    しかしこのような困難な状況にありながらも、ネアルコスは沿岸部の航海を進めつつ、立ち寄った地域の観察を記録を 残している。アレクサンドロスが艦隊を送り出したのは沿岸部の地形や都市、自然について調査するという目的もあった ためである。ガドロシア地方の沿岸部に多数見られた「魚食民」と呼ばれる人々の生活の様子に関してはかなり詳しい 記録を残している。「魚食民」とは、文字通り魚を主食とする人々で、地域によって獣の皮や魚の皮を身にまとう者も いれば全裸の者もいることや、動物の骨などを組み合わせて家を造っている様子が書かれ、石器時代同然の生活を送る 者もいれば、灌漑農業や園芸栽培も現れるなど文化も様々であることが「インド誌」の記述などから窺える。またカル マニア地方は魚食民の暮らす地域と比べて豊かで、オリーブが無い事をのぞくと豊かであるという説明がなされている。 また航海の最中に鯨とおぼしき巨大生物に遭遇し、乗組員が慌てるなかでネアルコスが冷静な対応を見せている姿も書 き残されている。

  • アレクサンドロスとの再会
  • このような過酷な航海を続けつつ、ネアルコスはホルムズ海峡の奥まった港に寄港し、そこに停泊した。そして内陸地 へと様子を探りに行ったが、ここで思いも寄らぬ再会を果たすことになった。乗組員の一部がギリシアの服装をして ギリシア語を話す人間と出会い、その人物がアレクサンドロスの宿営地をでて道を失った男であり、アレクサンドロス はそう遠くないところに滞在しているということを知った。そしてその男はネアルコスの許に連れて行かれ、王の宿営地 はネアルコス達がいる場所から5日ほどの場所であり、土地の代官をネアルコスに紹介して王を訪ねて行くにはどうする べきかを相談した。土地の代官はアレクサンドロスがネアルコスの艦隊の安否を心配していることを聞くと、艦隊無事の 一報を報告して恩賞にあずかれると思い、ネアルコスが宿営地に向かっていることを知らせた。しかしアレクサンドロス は迎えに出した者達がネアルコスと会うことなく戻ってくるのを見て代官を逮捕してしまった。

    そうこうするうちにネアルコス一行に出会った一隊がいたが、一目見たときには髪は伸び、肌は荒れ、垢まみれのネアルコス 一行が別人に見えてよそに行こうとした。そのためネアルコス一行の方から捜索隊に何をしに行くのかを訪ねたうえで、彼 自らがネアルコスであると名乗った。こうして、ネアルコス一行を見つけた捜索隊は彼らを車に乗せて連れて行き、捜索隊 の一部は先発してアレクサンドロスに無事を知らせることになった。このような過程を経て、ようやくアレクサンドロスの 許へと報告が行くことになる。始めアレクサンドロスはネアルコスとわずかな者が助かったのみで艦隊が壊滅したと思い悲 嘆にくれていたが、艦隊が無事であることが伝えられてようやく安堵したのであった。

    その後アレクサンドロスはこのままネアルコスにペルシア湾の奥まで航海させるには忍びないと思い、指揮官を変えようと いうことを持ちかけたが、ネアルコスはこれを拒否し、最後まで任務をやり遂げる事を選んだ。その後ネアルコスはさらに 航海を続けてペルシス地方に達し、スサでアレクサンドロスの陸行軍と合流し、スサではこの航海成功によってネアルコス は論功行賞第3位に位置づけられ、黄金の冠を授けられた。その後のネアルコスはさらにバビロン港へ回航して全任務を全う したのであった。おそらくユーフラテス川の流路調査をしながらバビロンへと入ったのであろう。さらにネアルコスはアレク サンドロスが計画したアラビア遠征の艦隊総指揮官に予定されていたが、アラビア遠征は前323年のアレクサンドロスの死に より立ち消えになった。

    その後のネアルコスはバビロンの評定において属州の担当からもはずれるなど、その活動は目立た なくなる。ディアドコイ戦争においてもエウメネスの助命嘆願やガザの戦いでデメトリオスの顧問を務めたこと等から アンティゴノスの陣営にいたことが史料から分かる程度で、歴史の表舞台からは姿を消していく。しかし彼が成し遂げた 探険航海の記録はアリアノスの著作の史料として用いられ、自己顕示・自己喧伝の面もあるが、航海中に困難な状況にうま く立ち向かって難局を切り抜けていった彼の姿はそこに残され、現在まで語り継がれている。


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