ステンカ・ラージン
〜逆引き人物伝第11回〜


「逆引き人物伝」2巡目の最初に取り上げる人物は、17世紀ロシアで大規模な反乱を起こしたコサック、ステンカ・ラージン(本名 ステパン・チモフェーヴィチ・ラージン。ステンカは愛称)をとりあげます。かなり年配の人だと、ステンカ・ラージンというロシア 民謡(ネット上で歌詞や曲を知ることは出来ます)で知っている人もいるかもしれませんし、ショスターコヴィチの詩曲「ステンカ・ ラージンの処刑」やグラズノフの交響詩「ステンカ・ラージン」といった音楽でその名前を聞いたことがある人もいるかもしれません。 しかし、このステンカ・ラージンとは一体何をやった人なのか、そして民謡の歌詞に出てくるようなことを実際にやったのか、そういう ことまで分かっている人はもしかしたらそれほどいないかもしれません。今回はこの人物について取り上げてまとめてみようと思います。


  • ラージンの生い立ち
  • ステンカ・ラージンは1630年頃にドン下流域のジモヴェイスカヤ村に、富裕なコサックであるチモフェイ・ラージンの子として生まれま した。なお、チモフェイにはラジャというあだ名(由来は不明)があり、ラージンという姓はここからとられたのだと言われています。 父チモフェイはもともとはドン中流域のヴォローネジ出身で、一人でドンに来てコサックとなり、クリミア・タタールとの激しい戦い等々 にあけくれ、ドン・コサックがオスマン帝国がコサックの遠征活動を抑えるために強化した要塞アゾフを急襲・占拠した1636年の「アゾフ 籠城」にも参加したと言われています。コサックとして各地に遠征したりクリミア・タタールと衝突しながら生きてきたチモフェイはある 遠征で捕虜にしたトルコ人女性と結婚、そして3人の息子が生まれ、ステンカ・ラージンは2番目の息子でした。チモフェイはいつしか富裕 なコサックとなりますが1649年かその翌年になくなりますが、その直前にソロヴェツキー修道院に巡礼に行こうとしていました。しかしそれ は果たせず、変わりに父の供養のためにステンカが1652年の晩秋にチェルカッソクを出発し、ヴォローネジ、トゥーラ、モスクワをへて翌年 にソロヴェツキー修道院に到着しました。このような長旅が若いステンカに何らかの影響を与えたのかもしれませんが、その辺りは定かでは ありません。しかし彼はこの後もドンの使節団の一人として1658年と61年の2度モスクワに出かけていきます。58年の時は毎年の報酬につい て交渉するため、61年の時はノガイ・タタールに対抗するためカルムイクと同盟するために使節として赴き、それが成功したことをモスクワ に報告しに言ったためでした。なお61年のモスクワ訪問の後、ステンカはソロヴェツキー修道院を再び訪ねています。

    いっぽう、ラージン家の家督は長兄イヴァンが継ぎますが、1665年にラージン家に悲劇が降りかかります。コサックは常に辺境で軍役をになう 存在であり、ステンカも1663年にドン・コサック500人を率いて遠征をおこなっています。兄イヴァンもまたポーランド戦線でロシア軍の一部 として戦っていましたが、司令官ユーリー・ドルゴルキー公の許可なく勝手にドンに部隊を連れ戻したことが原因で捕らえられ、見せしめ のために処刑されてしまいました。その処刑の様子はステンカと弟フロルも目撃したと言われています。兄イヴァンの処刑について、後に 捕らえられたステンカは反乱を起こす理由として注目されますが、この事件は個人的な物でなく、コサックの自治と自由に対する侵害としても 捉えられたようです。

  • 反乱前夜のドン
  • ここで、ステンカが生まれ、成長していた頃のドン・コサックの置かれた状況から反乱前夜の頃までの状況はどうだったのかをまとめてみます。 ドン・コサックという社会集団は16世紀はじめにドン川流域に出現した社会集団であり、狩猟や漁業、そして略奪的な遠征による戦利品売買に より生計を営んでいました。馬に乗り、武器を扱い、小さい船でアゾフ海、黒海へとこぎ出していくことで生活の糧を得ている彼らについて、 皇帝政府は早くから注目しており、イヴァン4世がコサックに物資を給付する変わりに皇帝に仕えるよう呼びかけた1570年代以降、政府と コサックの間に結びつきが生まれていきます。とはいえドン・コサックは事実上政府の手の届かないところにおりそのような関係はロマノフ 朝が成立した後もしばし続いていきます。そして17世紀半ばまでにドン川とその支流に52の町を築き、最大の町チェルカッソクが行政の中心 となりました。そこで総会を開いて物事を決定するというのが彼らのやり方で、広範な自治権を持つ手段としてドン・コサックは存在してい ました。ただし、彼らの生活は皇帝政府からの物資の支給にかなり依存しているところもあり、物資の支給を受ける変わりに辺境防衛にあたる という関係がロマノフ朝の成立後に確立し、毎年定期的に穀物、貨幣、火薬、弾丸といったものが政府から支給されました(のちにウォッカも 加わりますし、不定期に大砲や船などが送られていたようです)。これらの物資の支給のための基地となったのが父チモフェイの出身地である ヴォローネジであり、ヴォローネジは物資の集積地・中継商業地として発展していきます。

    しかし政治的にも行政的にも広範な自治権を認められ、物資の支給を受ける変わりに政府への軍事的奉仕を行うドン・コサックの自由と自治 を支える条件が17世紀後半にはいると揺らぎ始めます。原因の一つは逃亡農民の大量流入であり、彼らの流入は下流に住む富裕なコサックと 上流に住む新参者(ゴルィチバ)の対立が顕在化し、政府からの支給は富裕なコサック達にのみ与えられていきます。また、オスマン帝国が ドン河口を封鎖したためにアゾフ海や黒海への遠征が出来なくなったり、漁業が妨害されたことで生活が苦しくなったと言うことも挙げられ ています。そんな状況下で1666年夏、ヴァシリー・ウス(のちにステンカ・ラージンの乱にも関わります)率いるドン・コサックの軍団が モスクワへ向かうという出来事が発生します。彼らの目的は物資支給・勤務への採用の嘆願でしたが、それは受け入れられませんでした。 この時、政府は少額の給付とドンへの帰還を促す一方で逃亡農民の引き渡しという事も要求してきましたがこれはドン・コサックと政府の 間の逃亡者は引き渡さないという不文律を破棄するものでした。

    ドンから逃亡民を引き離さないという不文律は政府とコサックの対立点になりつつありましたし、いっぽうでコサック内部でも下流の チェルカッソクのほうから上流のコサックを統制することが出来なくなりつつあるという状況下で、1667年、新たなコサックによる遠征が 企画され実行されます。1667年の春、ウスの遠征から1年後にドン上流の都市に2000人を越えるコサックが集まり遠征準備をしているだけ でなく、逃亡民と農民も集まってきました。そしてこの集団を指揮した人物こそステンカ・ラージンだったのです。ラージンの遠征は始めは アゾフ海にでる予定でしたが富裕コサック達の反対にあい、結局彼らはヴォルガ川を南下していきます。部隊は政府の船や隊商を襲いつつ 移動していきますが、アストラハン上陸は避けて東に向きを変え、グリエフの町にはいります。そして1668年春、いよいよラージンは ペルシア遠征に出かけます。出発時の人員のほか、新たにヤイク・コサックや他のコサック、逃げてきた銃兵隊などにより規模をました 遠征軍は大都市ではなく小規模な町を襲って掠奪を行います。カスピ海沿岸のデルペントやバクーなどで掠奪を繰り返しますがレシトで ペルシア軍と争ってかなりの犠牲(数百人)を出しています。その後1669年にはペルシアの艦隊を壊滅させています(このときに提督の 息子や娘も含む多数の捕虜と戦利品を獲得したといわれています)。その後アストラハンに戻り、ロシア政府軍との和平に応じて武器を 引き渡し、捕虜を解放し、ペルシアのシャーの財産を返却しました。このような形でおわったラージンの遠征は損害は大きく(帰還時には 600人にまで減少)、必ずしも成功とは言い難いものの、ドンへ帰還したステンカの部隊には周辺の町村から人々が押し寄せどんどん規模を ましていきます(1669年末には2700、70年春には4000)。

  • 反乱勃発
  • ステンカのこの行動は周辺の人々に影響を与え、彼の許に多くの人々が押し寄せる(中にはザポロジェからきたものもいます)いっぽうで、 チェルカッスクの富裕コサック達からは批判されました。しかし彼らにステンカを抑えるだけの力はなく、ドン・コサックの社会は事実上 ステンカのいるカガリニクと、富裕コサック達のチェルカッスクに分かれるという二重権力状態に陥っていきます。そして1670年4月、ステンカ はチェルカッスクのコサックの総会に現れ、チェルカッスクでもステンカ一派が権力を握ることに成功します。そして1670年5月にヴォルガ 遠征に出発したステンカの部隊は、途中でかつてモスクワへと行ったあのヴァシリー・ウスも加わった7000の大軍となっていました。 この遠征直前の集会で反貴族の姿勢を明確に示したステンカ・ラージンの遠征軍はヴォルガ方面へ向かい、ツァリーツィン(現ヴォルゴグ ラード)、それからアストラハンを占領します。そしてアストラハンからステンカはヴォルガを遡ってまちまちを支配下におさめていき、 町の人々は「パンと塩」でもって出迎えました。こうしてヴォルガ中流域の町まで支配下に納めたステンカは支配地域でコサック体制を 敷いていきます。主力はコサックが占め、支配下の地域ではコサック体制を敷いていったのがステンカ・ラージンの反乱ですが、そこには 農民達も加わっていきます。さらに異民族も反乱に加わっていくようになり、反乱軍は質的に変化していきます。

    こうして反乱軍の勢力は拡大していきますが、このころ反乱軍から各地にばらまかれた「魅惑の書」とよばれるものがあります。その内容 に惹かれた人々がステンカの部隊に加わり、さらに規模が大きくなっていきますが、当然政府の方もこれに対して反乱軍は厳しく処罰される と言うことを布告しますし、また正教会も反乱を非難します(反乱軍側は自分たちは正教会のために戦っていると主張していますが)。なお、 反乱軍は皇太子アレクセイと総主教だったニーコンがそこにいると言うことを主張し、それによって人々の支持を集めたりもしています。 ステンカの反乱軍は「善きツァーリ」という素朴な観念や人々が貴族によって失脚させられたと思っている総主教ニーコンへの同情を利用し ながら反乱を拡大していこうとしたようです(実際にステンカはニーコンとコンタクトをとろうとしたといわれ、政府は修道院に幽閉してい たニーコンにその疑いがないことをわざわざ確認しています)。このようなステンカ一派による反乱拡大に対し、政府はまずドンへの給付を 取りやめ、商人の通行を禁じるという経済封鎖に打って出ました。さらに直接行動、つまり反乱軍を武力で抑えることにも乗りだし、1670年 9月には士族からなる6万の軍勢を皇帝が閲兵し、さらに軍備の整備も行います。そして、反乱軍鎮圧の部隊の指揮官としてステンカの兄 イヴァンを処刑したユーリー・ドルゴルキーを任命します。ドルゴルキーは1670年9月にモスクワを出立します。

  • ドン・コサックの黄昏
  • 一方ステンカのほうはというと、9月に重要な要塞であるシンビルスクに迫り、ここに攻撃を仕掛けます。そして10月、反乱の転換点となるシン ビルスクの攻防戦の幕がきって落とされるのです。シンビルスクの守備隊、サランスクから送られた地方長官バリャチンスキーの援軍と反乱軍 がぶつかったこの戦いでは反乱軍が大敗し、反乱軍2万のうち生き残ったのは僅か数百人という惨敗を喫します。敗因としては攻防戦が1ヶ月 にもおよんだこと、最新装備で武装した政府軍に対し反乱軍は数は多いが装備や質で劣っていたことなどがあげられます。シンビルスク攻防戦 直前の頃も各都市に「魅惑の書」がばらまかれていますが、ステンカの側近で戦闘経験豊かな戦友を送り出しています。いままでも武器や軍事 力ではなく「魅惑の書」をばらまいて反乱勢力を拡大することでここまで勝利してきたのですが、今回に関してはそれは裏目に出たようです。 一方、ヴォルガ流域でも反乱軍のコサック部隊が暴れ回っていましたし、アストラハンではヴァシリー・ウスらが部隊を指揮し、シンビルスク 攻防戦の1年後までアストラハンで戦っていました。また、シンビルスク攻防戦の最中、ステンカの弟フロール率いる軍勢がドンを遡り、 ヴォローネジ近郊にまで迫りましたがコロトヤークでコサック部隊は政府軍に敗北し、フロールも逃げていきました。

    敗北を喫したステンカもフロールもドンへと戻っていき体勢を立て直そうとしました。しかし1670年の遠征前とドンの状況がかなり変わっ ており、だれも反乱軍への参加を臨まなくなっていましたし、富裕層は彼らに敵対的でした。そして反乱軍に対して攻撃すら行うようになり、 1671年春、ステンカ達の拠点カガリニクの町は焼き尽くされ、ステンカ自身も捕虜になってしまいました。フロールも後で捉えられ、ラージン 兄弟は政府軍を恐れたコサック達によって捕らえられ、コサック達によってモスクワへと護送されていきました。そして1671年の夏、ステンカ・ ラージンは処刑され、弟フロールも1676年に処刑されました。ラージン兄弟は3人とも政府によって処刑されるという最後を迎えることになった のでした。ラージン兄弟を捕らえたのは他ならぬドン・コサック軍団であり、これに対し政府は多額の報奨で報いるとともに経済封鎖も解除し 物資の支給も再開します。しかしそのかていでドン・コサックの自治は失われていくことになります。以前は反抗したコサックは軍団の法で 自主的に処罰するのがドン・コサックのルールでしたが、反乱をきっかけにドン・コサックは臣民として忠誠を誓い奉仕するようになるととも に自治を失っていくことになりました。ラージン兄弟を引き渡せという政府の要求にコサックの長老達が応じたということ、政府への忠誠を 誓ったと言うことからも、ステンカ・ラージンの反乱はドン・コサックという集団のあり方を大きく変える転換点となったことは確かなようです。

    最後に、ステンカ・ラージンの反乱の性格についてふれておくと、ソ連がある頃はステンカ・ラージンの反乱は農民反乱として見なされて きました。ソヴィエト史学ではロシアには4つの農民反乱(ボロトニコフの反乱、ステンカ・ラージンの反乱、ブラーヴィンの反乱、プガ チョフの反乱)があったとされ、農民を主体とする民衆が農奴制に対して挑んだ戦いの最高の形態で、運動は広い範囲に広がり、不自由民 や封建領主やツァーリズムに抑えられた諸民族も戦いに合流したといわれてきました。ステンカ・ラージンの反乱については農民戦争という 定義に異議が出ることもなく研究されていました(時期については色々違っていますが)。しかしソ連崩壊とともに新しい研究もだされる ようになり、さらに欧米のロシア史家達も新たな見解を示しています。その一つはドン・コサックとヴォルガ中流域の異民族が重要な要素 であるという見解も出されています。


    (本項目のタネ本)
    P.アヴリッチ「ロシア民衆反乱史」彩流社、2002年年
    植田樹「コサックのロシア」中央公論新社、2000年
    土肥恒之“ドン・コサックとその世界”「移動の地域史」(「地域の世界史」第5巻、1998年)、122〜156頁
    土肥恒之「ステンカ・ラージン 自由なロシアを求めて」山川出版社、2002年
      今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。「ロシア民衆反乱史」はロシアの民衆反乱としてラージンの乱を含めて4つを 取り上げ、共通点がある(ドン・コサックを指導者とし、国家に対する反乱で、大戦争の最中やその直後に起きている等々)ことを 指摘しています。「ステンカ・ラージン」はラージンの反乱のみならずコサックとは何かとか当時のロシアの状況についての説明が 結構詳しくでています。「コサックのロシア」はロシアのコサック集団の出現から現在に至る歴史をまとめた本です。

    次回は「ス」で終わる人物をとりあげます。

    逆引き人物伝2巡目に戻る
    逆引き人物伝に戻る
    歴史の頁へ戻る

    inserted by FC2 system