ファン・ボイ・チャウ
〜逆引き人物伝第14回〜


1980年代、マレーシアのマハティール首相(当時)が打ち出した「ルックイースト政策」というものがありました。これは、日本や韓国 の集団主義や勤労倫理を見習おうというもので、当時アジアの中で経済成長著しかった日本に学ぶことでマレーシアを発展させようとする 政策でした。20世紀後半には著しい経済成長をとげて先進国の仲間入りを果たした日本のやり方を学ぶことでマレーシアを発展させようと いういとの元でルックイースト政策は行われたのですが、20世紀前半にもそれに似たような動きがアジアで見られました。いち早く近代化に とりくみ、日露戦争で勝利するなど西洋列強に互する存在になりつつあった日本から何かを学ぼうとしてヴェトナムの民族運動家が進めた 「ドンズー(東遊)運動」がそれにあたります。逆引き人物伝第14回では、このドンズー運動を進めたファン・ボイ・チャウについて扱って みることにします。


  • 青年期まで
  • ファン・ボイ・チャウ(以下チャウと略す)は1867年、ヴェトナム北部にてファン・ヴァン・フォー(父)とグェン・ティ・ニャン(母) の子として生まれました。父は村で塾の教師として漢学を教えており、賢母型の母も漢字の知識があり、チャウは母の口授により「詩経 周南」の数編を覚え、6歳より父から漢学の手ほどきを受け始めます。そして8歳の時点で県試−童子科に首席で通るなど、はやくから 文才を示し始めたことが知られています。その後、父親は地元の漢学者のもとにチャウを弟子入りさせてさらに勉強させますが、この時期 に読んだ本について科挙の参考書ばかりで現代に向かないとぼやいていたりします。

    一方、チャウの幼年期はフランスによるヴェトナム侵略がいっそう激しさを増している頃で、彼も不穏な社会情勢に影響されたのか、ゲアン、 ハティン両地方で勤王蜂起がおきた時に近所の子供を集めてフランス討伐ごっこをして父にしかられています。また、17歳の時には抗仏義軍 に感激して檄文をしたためた物の誰にも相手にされかったということがありました。そして18の時に母が死去し、栄養失調の妹2人と働けなく なった父を抱えるチャウは文筆をもって生計を立てることを決意しつつ、いっぽうで19の時には同士を集めて試生軍を組織して義軍として活動 しようとするも、フランス軍の進行の早さから失敗におわり、これ以降10年ほど表向きはおとなしく過ごさざるをえなくなりました。その10余年 の歳月は、私塾の経営や文筆活動に従事する一方で勤王派と連絡を取り合ったり、多くの青年たちと意見を交換するなどの活動を続けていた ようです。なお、彼の思想には社会ダーウィニズムの影響が強く見られると言うことが指摘されており、そうした思想は洋務運動や変法運動 の活動家が書いた「新書」を通じてえていたようです。

  • ドンズー運動
  • 1900年、チャウは郷試に合格して解元となりますが、同じ年に父が死去します。そしてこれ以降チャウは革命運動を本格的に開始するのです。 しかしはじめの蜂起は計画が漏れて失敗(ただし省総督のおかげで助かる)、その後は慎重に計画を練り直していきます。フエの国子監の学生を しつつ、ヴェトナムの王族たちと接触して盟主に擁立する人物を捜し、さらに北へ南へと足を伸ばして同志を募っています。そして、1904年に 同志を集めて「会(後に維新会と称す)」を結成し、そのトップにはクオンデ(阮朝初代皇帝の長子の子孫)をすえて運動を開始するのです。

    そして、維新会の活動方針としては会のさらなる拡大、暴動のために必要な資材の収集、外国への援助要請が定められ、外国への援助を求める ための代表としてチャウが選ばれます。そしてどこの国に支援を求めるかということについて、清は先の清仏戦争後に宗主権を放棄し、内憂外患 に苦しんでいることから難しいが、新進気鋭の日本ならば同文同種なうえロシアを相手に戦果を挙げているところであり、兵器を買うくらいの金 なら出してくれるかもしれないという推測のもと、チャウを日本へ派遣することになります。そして1905年に会員2人をともなってヴェトナムを 出国して中国領内に潜入し、広東、香港、上海を経て同年4月に横浜に上陸します。そしてその直後、亡命中だった梁啓超と出会っています( なお、「ヴェトナム亡国史」はチャウが書いた物を梁啓超が出版したものです)。

    そして梁啓超から日本政府に依頼して武器援助を受ける計画は無謀であること、クオンデをヴェトナムから出国させることを助言されたほか、 彼の紹介で大隈重信、犬養毅などと知り合いになり、彼らから人材育成がヴェトナム独立のために必要であるというアドバイスをもらった後、 チャウは体勢を立て直すため一旦帰国します。再び日本に戻った後、「勧遊学文」を作成してヴェトナム国内で配布させ、日本への留学を 進めようとするとともに、日本国内での受け入れ準備を進めていきます。こうして「ドンズー運動」がはじめられる下地ができてゆき、1906年 にはクオンデが来日、1908年までに在日留学生が200人を越えたと言われています。しかし1907年に日仏協約が結ばれるとフランスが日本に 対して留学生取り締まりを要求、1909年に帰国者や亡命者が相次ぎ、ドンズー運動は失敗に終わることになるのです。チャウも日本に失望して 香港に活動拠点を移していきます。

  • その後のファン・ボイ・チャウ
  • ドンズー運動失敗ののち、チャウはまず香港へ、次にタイへと移っていきます。そこで暫く過ごしていたときに中国で革命が発生したという 知らせを聞いたチャウは上海経由で香港へ戻り、1912年にヴェトナム光復会を結成することになります。しかし1913年に袁世凱の部下竜済光が 広東を制圧し、その軍隊によってチャウは逮捕されてしまいます。そこで3年間を過ごし(1914〜1917)、竜済光が敗れてようやく獄をでること ができました。その後のチャウの活動は日本、中国を転々としながら活動を継続し(その間北京でソヴィエトとの接触があったり、爆弾テロを 行った人物を義士として追悼文を書いて発表したりしています)、ヴェトナム国民党結成に向けて動き出したりしていたようです。

    一方で、このような活動を行うチャウの存在はフランスから見て当然邪魔な者でありました。ヴェトナムを出国してから20年以上の月日が流れ た1925年、チャウは杭州から広東へ向かおうとしたときに上海でフランスの密偵によって逮捕され、フランス租界へと連行されてしまいました。 このころ、チャウの側に使えていた同居人が実はフランスに情報を流しており、それによって彼が広東へ向かっていることがばれていたようです。 そして逮捕されたチャウはフランス軍の軍艦に乗せられてハノイへ送られ、1925年11月よりフランス人にタイするテロ行為について訴追され、 裁判が始まりました。そして軍事法廷で終身刑が宣告させると、これに抗議する運動が国内外で盛り上がり、チャウは結局恩赦により釈放され ました。しかしその後1940年に死ぬまでフエの自宅で軟禁状態に置かれ続けることになるのです。


    ここまで、ファン・ボイ・チャウの生涯について、かなり適当にまとめてみました。民族運動家として評価されている彼ですが、革命を 起こして全く新しい政治体制を作ろうという考えははじめの頃はなかったことは、維新会の会主に王族クオンデを迎えていることからも明らか ですし、彼自身も政治体制としては君主制の方が望ましいという発言をしています。彼の活動のあり方を見ていると、新世代の革命家というより もむしろ、それ以前にフランスに抵抗した伝統的知識人層の最後の人々として位置づけた方がよいような気がします。彼が新しい知識や思想を えた手段が「新書」と呼ばれる洋務運動や変法運動に関わった人々が書き残した漢字の著作であったり、同文同種であるために日本の支援を期待 したりするところを見ていると、特にそう言う感じがしてしまうのですがどうなんでしょう。



    (本項目のタネ本)
    内海三八郎著(千島英一・櫻井良樹編)「ヴェトナム独立運動家潘佩珠伝」芙蓉書房出版、1999年
    潘佩珠(長岡新次郎・川本邦衛編)「ヴェトナム亡国史他」平凡社(東洋文庫)、1966年
    石井米男・桜井由躬雄編「東南アジアT大陸部」山川出版社(新版世界各国史5巻)、1999年
    池端雪浦他(編)「植民地抵抗運動とナショナリズムの展開」岩波書店(岩波講座東南アジア史7巻)、2002年
      今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。ファン・ボイ・チャウ自身の著作である「ヴェトナム亡国史他」、彼の自伝である 「自判」本文とその解説からなる「潘佩珠伝」を参考にしつつ、近年の歴史学の成果である講座東南アジア史と各国史を参考に書き上げ てみました。この中で「ヴェトナム亡国史」所収の「獄中記」は一度読んでみてほしいと思います。

    次回は「フ」で終わる人物をとりあげます。

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