サチェル・ペイジ
〜逆引き人物伝第17回〜


逆引き人物伝第17回では、サチェル・ペイジ(1906?〜1982)について取り上 げます。野球好きな人に「史上最高の投手」は誰かと 聞くと、色々な人の名前が挙がってきます。それは、日本のプロ野球の選手だったり、アメリカ大リーグの選手だったり、人により さまざまですが、中には、アメリカ大リーグより遙かにレベルの高かった黒人野球の投手こそ最高だと主張する人もいます。

かつてアメリカ大リーグが黒人に対して門戸を閉ざしていた頃、黒人たちはそれとは別の野球チーム、リーグを作って試合をし、時に 大リーガーとも試合をして、彼らを上回る成績を残していたことが知られています(大リーグチームと黒人チームの通算成績のうち、 はっきり分かっているものだけでも2対3くらいの割合で黒人側が多く勝っている)。その黒人野球の投手の中で、特に凄いと言われ ているのがこのサチェル・ペイジ(?〜1982)です。

彼は野球シーズンに1週間で3・4回登板するのはもちろん普通だったらシーズンオフの 冬場でも色々なところで、年がら年中各地 を回って投げ続けたため、登板した試合数、勝利数、完封数、ノーヒットノーランの数についても凄まじい記録が伝えられ、その中には 大リーガー相手に彼らを圧倒した試合もあります(対戦した大リーガーも皆一様に彼の実力を認めているから凄いものです)。しかし、 途方もない記録のみならず、彼については正確な生年月日が分からず、42歳で大リーグデビューを果たした時も実はそれより年上だった とも言われているなど、現代社会においてこれほど不思議な存在はないのではないかという気がします。


  • 「サチェル」とよばれる青年
  • サチェル・ペイジの「サチェル」は本名ではなく、これは彼に付けられたニックネームで す。彼の生年月日については正確な日付は 分かっていませんが、これははったりでも何でもなく、彼も彼の母も正確な日付を知らなかったようです。役場の届け出は1907年7月7日 といっていますが、彼の母親曰く1959年段階で実は55歳だと言っています(根拠は自分の聖書に書いてあると言っていますが、それをペイジ 本人は見たことがないとか)。また、母親曰く、とりあえず長男じゃなかったことは確かだが何年生まれで何番目(11人兄弟)なのか分 からないというコメントや、友人(1907年生まれ)の自分より2歳年上というコメントがあります。どうやらペイジ本人が思っているより 2歳ほど年上だったようです。

    また、ニックネームの「サチェル(肩掛け鞄のこと)」についても、色々な説があります。ペイジ自身のいうところでは駅で鞄運びをする ときに棒とロープを使って一度に多く運べるようにしたためだそうですが、別の説では駅で鞄運びをしていたペイジが一つの鞄をとって 逃走してとっつかまえられたために付けられたと言われています。年齢やニックネームを巡って色々な謎が既に存在しているペイジですが、 その生活は貧しく、なかなか辛いものがあったようです。そんな彼は石を投げて憂さを晴らしていましたが、自分のコントロール能力を 認識したのはそのときのことでした。しかし、石を投げる的が鳥だったときは良かったのですが、白人の学校の生徒との喧嘩で石を投げて 相手を怪我させてしまい、すっかり悪者扱いされたサチェルはやがておはじきなどを盗んだ罪で警察に捕まり、教護院に入れられてしまいました。

    しかし、何が幸いするかは分からないもので、この教護院生活がペイジにとって大きなプ ラスとなりました。勉強や悪い友人との縁切り、 喧嘩以外の時間の過ごし方などもあげていますが、なにより野球を身につけたことでした。ここで野球を学び、さらに投球術もおそわった ペイジは教護院を出た後の1924年に地元セミプロチームに入団し、いきなり大活躍しています。そしてこれ以降、黒人リーグ最高の投手へと 一気に駆け上がっていくのです。はやくも2年後にはプロとして契約し、その後も様々なチームでプレーしましたが行く先々で高給をもって やとわれ(大恐慌後の不況の時代でも他のチームメイトより高額な月収を得ています)、大勢の観客を球場に呼び寄せるようになり、黒人 野球のさらなる発展に貢献していくのです。

  • 超一流の自由人
  • サチェル・ペイジについては、ディジー・ディーンやボブ・フェラーといった彼と投げ 合ったり一緒にプレーした大リーガーをして、 自分より速いと言わしめる程の速球の持ち主であったと言われており、彼自身は速球とコントロールが最大の武器だと考えていたようです。 ただ、単に速球を投げ込むと言うだけではなく、ビー・ボール(ボールのつるつるの面に指をかけて投げる。球が水平に走るということで、 スライダー系のボールか)やジャンプボール(ボールの縫い目に指をかけて投げる。ボールがジャンプする(要はホップする速球か?)) といった工夫を凝らした投球をするほか、カーブも投げています(ただし若い頃カーブを投げようと思うとチームメイトに相談したらまだ 早いといって怒られたことがあるようです)。また、握りを工夫したり変化球を投げるほかに投球動作でも時々停止投球(ヘジテイション・ ピッチ。ただし、投球動作を止めることは現在だとボークに当たる。ペイジも大リーグでプレーするようになってからこれを禁止された) もつかってタイミングを外すなど、様々な工夫を凝らしていました。

    そんなペイジの野球選手としてのキャリアは、1924年にセミプロチームに入ってから スタートしますが、その2年後にプロチームと契約し ます。それ以降プロ選手としてのキャリアを長きにわたって続けることになりますが、圧倒的な実力で相手をねじ伏せるだけでなく、観客 を喜ばせるようなこともいろいろとやるようになります。その一つに「野手引き上げ」という、後ろで護っている選手を皆引き上げさせ、 バッターを打ち取るというものがありました。それを始めたのはプロ契約した1926年のことで、それ以降度々そのパフォーマンスを観客の 前で行って喝采を浴びました。ただし、たまに失敗することもあり、ある時は「野手引き上げ」のサインを無意識のうちに出してしまい、 本人は討ち取ったと思ったら誰も野手がいなくて負けてしまったこともあったとか。

    また、ペイジ自身、コントロールの良さを誇りに思っており、マッチ箱(ときにはガム) をおき、それに正確にあてるという芸当をみせる こともありました(それをやるときには観客との間で、ぶつけられるかどうかを賭けたりしています)。野手引き上げにしても、マッチ箱 にぶつける技にしても、圧倒的な実力と自身があればこそ可能になるもので、これだけでもペイジのすごさは伝わってくると思います。 黒人野球でプレーした時期、通算で2500試合に登板して2000試合で勝利し、完封が350、ノーヒットノーランが55など信じがたい伝説が残っ ています。実際にそれだけやったのかどうかは分かりませんが、彼について、元大リーガーから記者、試合を見た人々まで、すごさを物語る コメントをみていると、数字などどうでもよくなってきてしまいます。

    彼はその長いキャリアを通じて様々なチームや場所でプレーし、公式戦以外にも地方へド サ周りに行き、そこでメジャーリーガー とも対戦して彼らを圧倒していたように、年がら年中どこかで野球をしていた事は確かです。投手の投げすぎについて非常に神経質な現代 野球の目で見ると、常軌を逸したプレーぶりですが、不思議なのは、それだけ投げていても、選手生命に関わる大けがというものはなく (突然腕が痛んで動かなくなっても、ある時突然復活したり、「蛇の油」なる謎の薬品を腕に塗ったら腕の痛みが引いたり、とにかくちょっと したトラブルがあっても投げられるよう回復する)、「無事これ名馬」というのはこのような人に対して使うべき言葉ではないかと思われます。

    卓越した技量を武器に、ペイジは一つのチームに縛られることなく、かなり自分の好きな ようにプレーしていました。金銭面でオーナー ともめ、よそのチームに出て行った後でまたもとのチームに戻ったかと思えば、一度に複数のチームと契約していたこともあったり(その ときは面倒なためにユニフォームにはPaigeと自分の名前を胸に入れていたらしいです)、かと思えばある時はセミプロチームに入って 白人とも一緒に野球をし、またあるときはドミニカやメキシコと言った国外へいってプレーしたこともありました(ドミニカに行ったときは、 銃を持った兵隊が側にいて、下手したら殺されるんじゃないかと身の危険も感じたそうですが)。

    そんなペイジも私生活面、金や女性に関しては苦労したこともありました。プロとなった 後で真剣な恋に落ちた相手が球団オーナーの内縁の 妻だったり、1934年に結婚した最初の妻とは性格の不一致(巡業や遠征が続くことに耐えられなかったりしたようです)が原因で離婚すること になります。また、収入はどんどん増えていきましたが、2番目の妻が堅実な財産管理や投資をするまではかなり豪快に使ってしまっていたり したようです(それでも母親への送金は欠かさず行っていたと言います)。心の赴くまま、自由に投げたいときに投げたいところで投げる、 そんな彼はいつしか黒人野球世界より大きな存在へとなっていっただけでなく、差別すらも小さく見せてしまうような人物となっていきました。

  • メジャーリーグへの道
  • 圧倒的な実力と人気をもつペイジでしたが、彼がメジャーリーグでプレーするようになっ たのは第2次大戦が終わった後のことです。現在は (20年くらい前と比べるとかなり減りましたが)黒人メジャーリーガーは普通に存在していますが、ペイジの生きた時代は大リーグは白人のみ がプレーできる世界で、どんなに実力があっても黒人である限りメジャーリーグでのプレーはかないませんでした。この当時、黒人野球のレベル は相当高かったようで、黒人野球のチームと大リーガーのチームが戦うと黒人野球のチームが勝利することが多く、彼らのレベルの高さはかなり 認められるようになっていました。ペイジのすごさについても、実際に彼と対戦した大リーガー達自身がそれを肌で感じ、コメントを残した事 によって後々まで伝わっていきました。

    1926年にプロで投げ始め、以降黒人野球の公式戦や地方巡業、国外のチームでの試合など、様々なところで投げつつけたペイジに対し、大リーグ がようやく門を開いたのは1948年のことでした。すでに前年の1947年にジャッキー・ロビンソンが黒人初の大リーガーとしてプレーし始め、 黒人選手の優秀さは多くの人に示されていきましたが、ロビンソンより優秀な黒人選手はそれ以前に既に大勢存在しており、ペイジもその一人 でした。大リーグがなかなか彼を取ろうとしなかったことに対し、ペイジ自身は「給料が払えないから」などとうそぶいていますが(実際、彼は 年間で多いときだと2万ドル以上稼ぎ、さらにPaigeとだけ書いたユニフォームを着て自家用飛行機でいろんな所へ投げに行るくらいなので、収入 はかなり多かったはずです)、まだまだ若造のロビンソンに先を越されたことは何かしら引っかかるところはあったのではないかと思われます。

    そのペイジに対し、声を掛けてきたのは大リーグの世界でもかなり変わり種のオーナーとして知られるビル・ベックでした。球団経営において 様々な奇手を繰り出したベックですが、1948年のシーズン途中に投手の補強が必要だと言うことで彼が打った一手はサチェル・ペイジと契約する ことでした。こうして、大リーグ史上最高齢のルーキー(当時42歳)が誕生し、シーズン途中から投げたペイジは6勝1敗という成績を残しました。 そして、登板機会はなかったもののワールドシリーズにも出ることが出来ました。その後、ペイジは1953年までの間、通算5シーズンで28勝31敗 という成績を残しています。

  • 投げ続ける
  • 28勝という成績を見ると、非常に平凡な数字ですし、40代になっても活躍する選手が けっこう目につく現代の大リーグを見ている人からすると、 どこが凄いのかと思うかもしれません。しかし、契約した時点でおそらく42より上だったということ、現代のように科学的なトレーニングや食事 法が整っているわけではない(ペイジ独自の調整法はありますが、現代の調整法みたいに厳密ではない)、そういった条件をかんがえると、 数字以上の勝ちがあるように思われます。その後のペイジは1961年まではマイナーリーグで投げ続け、その後は巡業団チームでプレーしていま したが、再び大リーグで投げる機会がやってきます。

    それは1965年のこと、当時カンザスシティ・アスレティックスのオーナーだった チャールズ・O・フィンレー(このひともベック同様変わり者 のオーナーとして知られています)がサッチェル・ペイジと契約します。当時59歳(推定)のペイジはボストン・レッドソックスとの試合で 登板し、彼の最盛期の頃はまだ生まれていないか子どもだったような選手達を相手に3イニングを投げて無失点に抑えるピッチングを披露します。 フィンレーはこの後ペイジをコーチにいれて年金受給資格に届くようにしようと申し出ますが、彼はその申し出を断っています(巡業団との 契約の関係によるらしい)。そんなペイジにたいし、1968年にアトランタ・ブレーブスがアドバイザー兼ピッチング・スタッフとして契約し、 投手として登録して年金受給資格を取得できるようにはからいました。もっとも、ペイジ自身はこれに満足していなかったようで、エキシビジョン ではありますが2イニングを投げたという記録が残っています。当時62歳(推定)、大リーグでの最後の投球となりました。それから2年後の 1971年には野球殿堂入りを果たしています。


    (本項目のタネ本)

    サチェル・ペイジ(佐山和夫訳)「伝説の史上最速投手 サチェル・ペイジ自伝」(上下2巻)草思社、1995年
    佐山和夫「黒人野球のヒーローたち」中央公論新社(中公新書)、1994年
    佐山和夫「大リーグを超えた草野球:サッチとジョシュの往くところ」彩流社、2008年

    今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。日本人の書いた野球の読み物は色々ありますが、かつて存在したニグロリーグについて 真っ正面から取り上げているのは佐山和夫さんの著作しかないでしょう。また、ペイジの自伝もあり、それを読むのも良いと思います (結構読みやすいです)。

    次回は「サ」で終わる人物をとりあげます。
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