源頼政
〜逆引き人物伝第18回〜


逆引き人物伝18回では、源頼政を扱うことにします。彼は以仁王の平氏追討の挙兵に加わり、源平の争乱の端緒を開いたということで、 日本史で少しだけ取り上げられることがある人物ではありますが、これは頼政77歳、最晩年の出来事です。では、それ以前の頼政は何を していたのかというとそれほど詳しい記録が残されているわけではないようで、彼について扱った本をみても、当時の政治や文化 の状況についてページを割いている部分が多いように思います。

彼について取り上げられることというと、酒呑童子を打ち取った説話で知られる源頼光の流れをくむ摂津源氏の一員であること、 鵺退治の説話があること、平治の乱で同じ源氏の源義朝ではなく平清盛の側についたこと、なぜかわからないが従三位の位を 授かったことくらいでしょうか。

1104年に生まれ、源頼光の流れを汲み、早くから朝廷に出仕し、保元の乱や平治の乱といった乱をへて成立した平氏政権の時代にも 生き残り、従三位の位を授かるが、以仁王の挙兵に加わって敗れたという彼の生涯から、幾つかの事柄を取り上げてみます なお、頼政 は武士ではありますが歌人として名高く、二条天皇や八条院の御所で武家歌人として貴族たちと交流をもっていました。教養ある武士 としてみとめられ、高位にのぼり静かな余生を過ごすはずが、源平の争乱の幕を開けることになったところは運命の皮肉という感じもします。


  • 摂津源氏の傍流
  • 源頼政の祖先は、酒呑童子の討伐や頼光四天王(鬼を討った渡辺綱、金太郎のモデル坂田金時など)の逸話、伝承で有名な源頼光です。 数々の辟邪の物語や伝説に彩られた家ですが、実際の頼光は武人としての赫赫たる武勲はなく、兄弟たち(大和進出をめざし、興福寺 と争った頼親、武力による自力救済が日常的な東国で主に活動し、平忠常の乱鎮圧などで活躍した頼信)とは異なり、藤原道長に奉仕 し、都で活動していたことが多い人物です。

    この様々な伝承に彩られた頼光の子孫たちである摂津源氏の流れの中で、頼政はどのような立場にいたのかというと、どうも傍流の 存在だったことが伺えます。頼政の父親は白河院に接近して受領を務めるも、院近臣になることはなく、官位も従五位上止まりだった ことが知られています。そして、この時代の摂津源氏嫡流は源満仲以来の多田荘を支配する多田行綱であったと指摘されています。

    中央政界との関係で見ると、都を中心に活動し、官位も上昇させて晩年には従三位にまでいたった頼政と、中央では正直なところ ぱっとせず、鹿ケ谷の陰謀に関連してその名が登場した後は源平争乱期までしばらく活動が目立たない行綱を比べると、つい中央 での活動が華やかな頼政が嫡流に見えてしまいますが、実際の頼政は摂津国内では大きな勢力を築いていなかったと考えられています。 頼政というと、以仁王の挙兵に際し渡辺党を率いて戦ったという話から、摂津国渡辺が本拠であったということが通説となっています。 しかし、渡辺等嫡流は以仁王挙兵時に平氏側で参戦し、頼政は傍流の人々を率いていたことが明らかにされています。頼政は渡辺党を 率いて戦ったり武士としての務めを果たしていますが、以仁王の挙兵の際の状況を見ると主流ではなく傍流に限定されており、渡辺が 本拠地とは考えにくいようです。

  • 武士としての頼政
  • 摂津源氏の末裔として、頼政は「京武者」として郎等を率いて武士としての務めを果たしていたことが知られています。院政期の 京武者は罪人追捕、寺社強訴への対応に駆り出されることが多かったのですが、頼政に関しては延暦寺の強訴の際に対応しています。 また、伊豆知行国主となったあと(平治の乱の時です)、天台座主明雲が強訴の責任を取らされ伊豆に配流される際に頼政が護送を 託されて平氏を派遣したが、途中で明雲を奪還されるという失敗が伝えられています。

    そして、頼政の務めとして特殊な職務が挙げられています。それは内裏を警備する大内守護でした。摂津源氏の家職としていたとも いわれる大内守護ですが、この職を確実に確認できるのは頼政からであると指摘されています。大内守護の職務は内裏の警固を行い、 侵入者の逮捕や災害への対応を行うといったことで、二条天皇即位の日に狂人をとらえたり(これにより院昇殿が許されています)、 内裏で発生する火災の消火といったことが知られています。また、辟邪も行っていたようで、近衛天皇、二条天皇の時代には鵺を退治 したといった逸話が「平家物語」にもつたえられています。

    このような活動を行うにあたり、頼政は渡辺党のほかに、下総、伊豆など東国の武士たちも郎等として組織しておこなっていたようです。 下総など東国との関係は、父親が受領をつとめたときに同行したり、自らが知行国主となるといったことを通じて現地の武士と関係を 深めていき、動員できる体制を作り上げていたと言われています。摂津での基盤が決して強力ではない分、他所から集める必要があった のでしょう。

    そして、平氏政権の時代の頼政の立場については、「京武者」としての務めを果たしている姿が描かれていますが、一方で 頼政は平氏に次ぐ武家の地位を保っているのは、形として平氏と源氏が並び立つという形式を保つため、そして鹿ケ谷の陰謀以降、 平氏が全てを独占することにより不満の矛先が向かぬよう緩衝材のような存在として頼政を取り立てた、このような解釈も なされています。平氏にとり源氏を残しておくことのメリットは武力発動をともなう問題の責任を分散できるということが あり、朝廷も平氏への武力の集中への一定の歯止めとしてメリットがあったということのようです。

  • 頼政と以仁王
  • 源頼政は、最後は以仁王の挙兵に参加して最期を遂げることになります。しかし頼政のそこに至るまでの過程をみると、彼は平氏政権の 時代に平氏との関係が悪かったということは見られません。平治の乱では同じ源氏の義朝ではなく、平清盛の側につくことを最終的には 選択し、信頼らにより与えられた伊豆知行国主もそのまま認められています(恩賞がなかったというわけではなく、平治の乱で罪を問わ れることなく、信頼らによる論功行賞が有効となったことが恩賞のようです)。平氏政権のもとでも少しずつ出世し、最晩年には従三位 の位にまで上がっています。これは当時としても驚くべきことで、「第一の珍事」と日記に書いた九条兼実のような貴族もいましたが、 これを非難するものはなく、好意を持って迎えられました。

    では、特に仲が悪かったわけではない平氏との戦いに踏み切ることになったのでしょう。そこには、当時の中央政界の主要人物と 頼政の間の関係が影響しています。頼政は父親同様に白河院に接近していきましたが、やがて鳥羽院の寵愛深い后の美福門院 の昇殿を許され、女院の側近となっています。そして、美福門院を通じ、鳥羽院政派の中枢と結びつき、美福門院死後はその財産を 継承した八条院に仕え続けることになります。

    八条院のもとには、鳥羽院政以来の廷臣たち、そして広大な八条院領の荘園領主たちがのこっていましたが、頼政もまた彼女に 仕え続けていきます。平治の乱以降、八条院の勢力は平氏政権の人々も決して無下には扱えない存在となっており、八条院と そのまわりは安全地帯のような存在となっていました。頼政もまた、平氏と決して対立することなく、八条院まわりの貴族たち と歌人として交流をもっていました。

    そんな八条院に接近してきたのが後白河院の息子である以仁王でした。八条院の寵臣三位の局を妻とし、八条院の猶子として 迎えられた以仁王の存在は平氏にとって警戒すべき存在となり、王も不満や恨みを抱くようになっていたようです。 頼政は八条院とのつながりから、どうやら八条院の指示を受けて参戦したといわれていますが、一方で以仁王が 園城寺へ逃げるきっかけを与えてしまったのは頼政が使者を送ってしまったことにもあり、また養子兼綱が追捕に失敗して しまったという一連のながれから両者の共謀が疑われても仕方がない状況が発生していました。

    以仁王の動きに対し、平清盛 は頼政も追捕使の一人として選びましたが、しれっとしていろいろなことがなかったかのように追捕の仕事をするので なく、以仁王とともに挙兵する道を選んだのでした。

  • 戦いの果て
  • 頼政は以仁王とともに戦う道を選び、追捕のために集めた兵を率い、館を焼き払って出発、王とともに南都へ向け進みました。 一方、平氏政権側も鎮圧のための軍を派遣し、両者は宇治橋を挟んで向かい合い、戦いへと突入していきます。以仁王の軍勢は 頼政の率いる軍勢(渡辺党、東国からの軍勢)、そして園城寺の大衆たちでした。これと戦う平氏の軍勢は平氏の武将だけでなく、 源氏の武者も加わっています。

    両者の戦いは、橋桁を外した宇治橋を進もうとする追討軍を頼政たちの軍が迎え撃つかたちとなりました。橋での戦いでは 頼政たちの軍勢も奮闘し、なかなか先に進ませることはなかったのですが、一部軍勢が川を渡って反対側へと渡ってきます。 このときに馬で川を渡ったのは東国の武士たちだったことは注目しても良いかと思います。

    利根川を挟んだ合戦で馬で川を渡って戦うことに慣れた東国武士たちが馬筏という渡河戦用陣形を組んで頼政たちの軍勢へと 攻めかかっていますが、頼政たちのほうではそのような攻撃を想定していなかったのか、次々と川を渡ってくる追討軍の前に 敗退してしまいます。私的な合戦がたびたび発生し、実戦のなかで鍛えられた東国の武士たちと京武者たちの違いがでた場面 のように感じます。

    以仁王の挙兵は失敗に終わり、頼政は自害、以仁王も矢を受け、亡くなりました。平治の乱以降、武家源氏の代表的存在、 そして歌人として高い評価をえ、高い位にのぼり、静かな余生を過ごすはずが、晩年になって歴史を大きく動かすことに なる出来事に関わることになった頼政ですが、彼自身はそんな自分の境遇をどのように思っていたのでしょうか。


    (本項目のタネ本)

    生駒孝臣“源頼政と以仁王”、野口実(編)「治承〜文治の内乱と鎌倉幕府の成立」(清文堂出版、2014年)15頁〜39頁
    多賀宗隼「源頼政」吉川弘文館(人物叢書)、1973年(新装版1990年)
    永井晋「源頼政と木曽義仲」中央公論新社(中公新書)、2015年
    元木泰雄「源満仲・頼光」ミネルヴァ書房、2002年

    今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。今回の記事では、頼政の和歌のことはあまり書けませんでしたが、人物叢書は そのあたりは結構詳しいです。

    次回は「ミ」で終わる人物をとりあげます。
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