ドミートリー・メンデレーエフ
〜逆引き人物伝第15回〜


化学の教科書の裏表紙などには水素、ヘリウム、リチウム、ベリリウム等々の元素の周期表が恐らく今でも掲載されているのではないでしょうか。 昔はそれを語呂合わせで一生懸命覚えようとした人、試験前に苦しめられた人はかなりいると思われます。周期表は周期律という一定の法則に 基づいて作られていますが、周期律を発見した人物として有名なのがドミートリー・メンデレーエフ(1834〜1907)です。周期律を見つけたと いうことでその名を化学史に残しているメンデレーエフはそれ以外にどのようなことをしていたのかをここでまとめてみようと思います。


  • 西シベリアにて
  • ドミートリー・メンデレーエフは1834年、西シベリアのトボリスクにて生まれました。父はギムナジウム(中等学校)の教師を務めていた1809年 に地元の名門商家出身の母と結婚、その後よそで学校監督官を務めた後で1827年にトボリスクにもどりギムナジウムの校長となった人物です。 メンデレーエフ家は子供は非常に沢山折り、生まれたのは17人、そのうち洗礼を受け命名されるまで生きていたのが14人、ドミートリーは末っ子 として誕生しました。ただし、彼が生まれてまもなく父は白内障が原因で視力を失って退職して年金生活に入り、家系はガラス工場の経営を実兄 より請け負った母が支えていました(なお、父の白内障はその後手術で回復、その後は工場経営手伝いや印刷校正を手伝って家系を助けていた そうです)。

    では、メンデレーエフ家はロシアでどのような位置づけになるのでしょうか。実は、メンデレーエフの父(最終的に官等上では世襲貴族になる)、 彼の2人の兄(どちらも役所勤め)、母の親族(貴族の所領経営請負)等々は雑階級人という農民でも地主貴族でもない人々に含まれます。この ような階層に生まれたメンデレーエフもまた雑階級人としての生き方(知的専門職への就職が多い)を歩むことになるのです。まずはトボリスク のギムナジウムに入学し、15歳で卒業すると母は彼に高等教育を受けさせるべくモスクワへと移住し、モスクワ大学に何とか入学させようとして 失敗します。当時のロシアでは学区制がしかれており、トボリスクのギムナジウムをでた場合はカザン大学にはいることになっていましたが、 知人のいないカザンではなく実兄のいるモスクワの大学に母親としては入れたかったようです。それが失敗した後こんどはペテルブルクの大学に 入れようとしますが、これも同様の理由で失敗しています。

    しかしこれで何もかも終わったわけではなく、父の同級生の尽力によりペテルブルクの高等師範学校への入学が認められます。この学校は教師 養成のため設立され、その後6年制に改組されたり、大学に学生が全員編入されるなど紆余曲折を経て1828年に再開されたもので、建物は大学 本館の半分を占め、教官も一緒という状態でした。そのため大学に入らなくても大学と同じレベルの教育がうけられたのです。高等師範学校は 衣食住および卒業後の職も保証されている学校で、既に父を失い、母も入学後まもなく死去し、兄弟も遠くにいた彼には丁度よい学校でした。 入学後は並だった成績はしっかり学習したことによって1855年の卒業試験では最優秀の成績で金メダルを授与されるほどだったようです。

    メンデレーエフが高等師範学校に在学し、卒業して教師となった(オデッサに行くはずが何故かセバストーポリ近郊のシムフェローポリに行き、 その後オデッサに戻った)そのころ、ロシア社会は大きな変動期に入りつつありました。彼が卒業した年は丁度クリミア戦争の最中(しかも シムフェローポリ赴任はセバストーポリ陥落から間もない頃だったりします)でしたが、閉塞的な世の中が変革期に入ろうとする丁度そう言う 時代だったため、彼が世に出ることになったとも言えるのです。

  • 化学者メンデレーエフ
  • 高等師範学校では文学部と理学部がありましたが、メンデレーエフが学術論文を初めて書くのは卒業の1年前(1854年)のことでした。学校 の教授の指導下で試料分析した結果を発表した鉱物の化学分析に関する論文で、卒業研究でも鉱物結晶について研究し、このことが化学専攻を 決定づけたようです。そしてペテルブルク大学に提出する修士論文は卒業研究の成果を発展させた物で、これで修士号を取得、さらに続けて 講師資格論文も合格して1857年1月よりペテルブルク大学の講師となります。この段階での研究は既存の研究をまとめたものでしたが、色々な データを組織的・体系的に捉えた物だったと言われています。

    そして1859年より2年間、彼はドイツへと留学しています。この留学中にあった大きなできごととしては、1860年にカールスルーエで開催された 化学者会議への出席が挙げられます。会議の主要議題は原子量体系の問題でしたが、ここで色々意見が交換されたことが重要な意味をもってい たようです。特にこの時に活発な活動を見せたカニッツァーロという学者の原子量体系は1860年代のうちに多くの化学者に採用されることと なり、メンデレーエフもその影響を受けています。留学から帰ったメンデレーエフは有機化学の教科書を書きますが、その際原子と分子に ついてカニッツァーロに従って明確な定義付けを行って書いています。また、1860年代のメンデレーエフは「不定比化合物」の研究を進めて おり、その一環としての溶液研究が「アルコールと水の化合について」という博士論文(1865年)が出来上がることになります。この不定比 化合物について従来の原子説では説明がつかないようにみえたことから、原子説に対する懐疑を抱かせ、それがその後の彼の研究に影響を 与えることになったようです。

    また、このアルコールの研究はロシアにおける1860年の税制改革と密接に結びついていました。ウォッカ販売の専売制廃止と間接税導入を 決めたからには濃度の正確な測定が必要となり、メンデレーエフも間接・直接にウォッカの新税制に関わることになったわけです。そこから、 ウォッカのアルコール度数を40度にしたのはメンデレーエフであるという伝説が生まれたようですが、実際は関係はありません。こういった かたちで社会の要請に応えるだけでなく彼は教科書や啓蒙書を1860年代に多数執筆することで社会の要請に応えようとした事が窺えます。 その間、彼はペテルブルク大学の教授にも就任し、ロシア化学会の創設にも関わり、化学の発展に尽力していきました。

  • 周期律発見
  • 1869年2月17日、メンデレーエフは最初の元素の分類表を組み立てます。分類表を考えたのは彼が初めてというわけでなく、先行する人々は カニッツァーロの研究を元に元素を整理し、分類表を組み立てようとしたようです。しかしメンデレーエフの分類はそう言った物の影響を うけることなく行われたと言われています。そして周期律を発表することになるのですが、その経緯は「化学の原理」という教科書執筆の 時に元素をどうやって分類しようかと考えたことがきっかけだったようです。当初は原子価に注目していたメンデレーエフはやがて原子量 に注目するようになり、原子量に基づく元素の配列をおこなうことで、全元素の自然分類を成功させたのでした。さらにその後2年の研究を 経て、周期律が完成されるとともに、未発見元素についての予言まで進んでいきました。

    メンデレーエフの周期律発見については当初は疑いの目で見られたり、オリジナリティが問題とされたり(当時彼の他にも元素分類について 研究している人はいた)、なかなか認められないときもありました。しかし1880年代にはいると彼がその性質を予言していた3元素が発見 されたこともあって、西欧諸国でもメンデレーエフは周期律発見者として認められるようになり、ロンドンの王立学会からメダルを授与され たほか、招待公演もおこなっています。

  • その後のメンデレーエフ
  • 少々先のことまで書いてしまいましたが、周期律を発見した後のメンデレーエフは、周期律の研究を深めるのでなく、発見後に突然研究テーマ を変更します。大失敗に終わった気体と圧力の研究以降、石油業への関心を強めて採掘権貸出制度を批判したり間接税制度廃止を助言したことが 知られています。また、溶液研究について研究所をまとめたり、保護関税体系作りや無煙火薬の開発に関わったほか、度量衡原器管理に関わり、 中央度量衡局長に就任し終世その職に留まっていたことが知られています。彼の元で度量衡原器の更新が進められ、ロシアにおけるメートル法 導入の準備を進めていったことがしられています。

    一方、1870年代末より彼の私生活の方では問題が発生しはじめます。まず、離婚・再婚を巡るトラブルに見舞われたことが知られています。 1868年に彼は最初の妻と結婚し、2人の子供をもうけますが夫婦関係は2人目が生まれたあと冷え込んでいき、住居と別荘に分かれて暮らす ようになっていきました。そんな別居状態のメンデレーエフが出会ったのが26歳年下の画学生でした。そして1879年には画学生アンナに求婚 しますが、そのころ妻のフェオーズヴァとの離婚は正式には成立しておらず、アンナも拒絶し、父親によって彼女はローマに避難させられて います。同じ頃メンデレーエフは科学アカデミーの正会員落選という彼にとっては非常にショックなできごともも抱えており、精神的に 不安定な状態で、遺書を書いたりするかなり危険な状態に追い込まれます。結局フォエーズヴァも離婚に応じ、ローマまでやって来たメンデ レーエフのプロポーズをアンナは受け入れます。教会当局が離婚を認めたのが1882年でしたが、離婚後7年は正式な結婚ができないという ルールがあったため、司祭に莫大な資金を払って結婚式を挙行します。

    離婚の際、大学の給与は前妻に渡す事になっていたため、彼の収入は「化学の原理」の印税と大学以外の仕事のみという状態になってしまい ました。そんなこともあってか、彼は「化学の原理」の改訂作業に熱心に取り組み、生前に8回版を重ねる過程で型式の変遷や内容の書き直し も度々行われていたようです。

    メンデレーエフの活動はロシアにおける「大改革」の時代と丁度重なっていました。「大改革」を行ったアレクサンドル2世が暗殺され、 アレクサンドル3世が皇帝となると、ロシアでは反動の時代に戻っていき、その中で大学自治の制限も行われ、それに対する学生の請願 を彼は取り次ぎますが文部大臣に相手にされず、大学を辞めてしまいます。その一方、彼はロシアの工業化に強い関心を持っており、 彼の意見が政府の改革派官僚に受け入れられたりもしていたようです。しかし科学の世界に目を向けると、彼はすでに新しい時代について 行けなくなっていきつつありました。化学に代わり物理が重要になり、元素に変わって原子が研究対象となっていく流れに彼はついて行けず、 「エーテル」によって何とか説明しようとしたもののそれは全くうまくいきませんでした。その他、死の数年前には「秘めたる秘策」「ロシア を知るために」を書いて、そこでは工業化推進、実学重視の教育などのアイデアが盛り込まれていましたが、社会状況も彼の思いを越える 形でどんどん進んでいきました。1907年に彼は誕生日の直前に73歳でなくなりますが、そのころには社会も化学も既に彼の思い描く物を遙 かに超えていってしまったわけです。

    彼の周期律発見が教科書執筆中のことだったことや化学に限定されず様々なことに関心を持ち関わろうとするところをみると、社会の要請に 対していかにして応えていくべきかという事が彼の中で恒に問題意識としてあり、その中で化学者としてできることをしていった結果、発見 がついてきたような感じがします。


    (本項目のタネ本)
    梶雅範「メンデレーエフ」東洋書林(ユーラシア・ブックレット110)、2007年
    梶雅範「メンデレーエフの周期律発見」北海道大学図書刊行会、1997年
      今回の記事ではこれらの著作を参考にしています(というより大幅に依拠してまとめています。梶先生すみません)。現在、コンパクトに まとまったメンデレーエフの伝記はユーラシアブックレットのものしか入手できないようですが、これから本格的な伝記が出たら良いなあ。

    次回は「ド」で終わる人物をとりあげます。

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