ジャック=ルイ・ダヴィッド
〜逆引き人物伝第16回〜


逆引き人物伝第16回では、フランスの画家ジャック=ルイ・ダヴィッド(1748〜1825)を取り上げます。フランス革命を題材にした 「球戯場の誓い」や「マラーの死」、さらに「ナポレオンの戴冠式」や「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン」といったナポレオン を題材とした絵画、「ホラティウス兄弟の誓い」などの古代を題材にした絵画など、多くの作品を残した画家ですが、激動のフランス 近代をどのように生きたのでしょうか。


  • 若き日のダヴィッド
  • ジャック=ルイ・ダヴィッドは1748年に建築や工芸品の材料、装飾用品を扱う商人の父と職人の娘である母との間にうまれました。父親は かなり激しやすい性格だったようで、1757年に決闘で死んでしまいました。一方母親は彼に対し特に関心も持たず、ノルマンディーに引っ こんでしまいました。そのため幼いダヴィッドは伯父のもとに預けられて育ちました。その後初等学校には通ったようですが、授業中絵を 書いていたりするなど、決してできの良い生徒ではなかったようです。そんな彼が絵の世界にはいることになったのは1764年、16歳の時の ことでした。

    16際の時に絵画王立アカデミーの教授ヴィアンのもとに弟子入りし、アカデミーで絵画の基礎を習得したダヴィッドは1774年、アカデミー内 のコンクールで「ローマ賞」(コンクール首席)を獲得し、ローマに留学する権利を得ます。「ローマ賞」獲得までにかれは4回出展しては 落選していますが、のちに革命期にアカデミー廃止に尽力する原因となったといわれています。それはさておき留学当初は古代風と現代風の 狭間で迷っていたダヴィッドですが、留学をつうじて後に数多く書かれる歴史画の様式の基本が作られていきました。

    1781年、フランス帰国後初めてダヴィッドはサロンに10点の作品を展示しましたが、そこに出展された「施しを受けるベリサリウス」はサロン 出展前にアカデミーに提出され、これによってアカデミー準会員資格を得ますが、さらにサロンで多くの人々の支持を得て、一躍有名になった のでした。その2年後にはアカデミー正会員の資格を得ることになり、順調なキャリアを歩むダヴィッドですが、その間に結婚もしています。 相手は宮廷建築の請負業者の娘シャルロットで、この結婚はフランス革命中の一時期をのぞきうまくいきました。そして国王の注文を受けて作 られた「ホラティウス兄弟の誓い」により彼の名はヨーロッパ中に知られるようになります。

    「ホラティウス兄弟の誓い」の構想はかなり前からあり(1781年に描かれた素描がある)、それをしあげるべく彼は妻の実家に費用を出して もらって1784年から1年近くローマに滞在し、ローマで絵を仕上げました。なお、この絵画の大きさやサロンへの搬入時期の意図的な遅れ から、彼がアカデミーに対する反感や権威に束縛されることを拒む意志を持っていたとする説もあります。この後、歴史画の旗手として名声 を確立した彼は様々な作品を描き、「ソクラテスの死」「パリスとヘレネ」といった歴史神話画、ラヴォアジェ(化学者で有名)などの肖像画 も描いています。そして「ホラティウス兄弟の誓い」制作直後に王室から「ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち」(以下ブルートゥス) の注文がはいり、1789年8月にサロンで公開されますが、公開直前にフランスのみならず世界を揺るがす大事件が勃発し、それはダヴィッドの 人生にも大きな影響を与えることになるのです。

  • 革命の記録者
  • 1789年、バスティーユ牢獄を民衆が襲撃してフランス革命が始まった直後のサロンで、ダヴィッドの「ブルートゥス」が展示されると、 たちまちのうちに彼は愛国的美術家の指導者に祭り上げられてしまいました。そして彼はアカデミーに対して戦いを挑み、さらにジャコバン・ クラブにも入会します。革命期の彼はかなり急進的な立場をとり、92年には国民公開議員になったのを皮切りに、国民教育委員会委員、93年に はジャコバン・クラブの議長、保安委員会委員となり、一時期は国民公会議長も務めていました。その間、93年にはルイ16世の処刑に賛成票を 投じ(これが原因で妻が一時彼の元を離れていますし、晩年の亡命の原因となります)、急進派のロベスピエールとも近い立場にありました。

    彼が急進的な立場をとるようになった大きな理由は、王立アカデミーとの関係が上げられます。かつて4度もローマ賞獲得に失敗し(それは 彼がロココやバロックに傾倒していたため、審査員の気に入る新しい様式を身につけてなかったからですが)、正会員になり自身も弟子を多く 抱えるようになってからアカデミーとの関係は悪化し、彼は1791年にアカデミーの特権廃止の覚え書きを起草します。そして1793年にアカデミー は廃止されることになったのでした。その他、彼は革命の儀式やモニュメントを計画(最高存在の祭典の演出を担当したのは彼でした)したり、 革命に関する絵画を描き残したりしています(有名な「球戯場の誓い」「マラーの死」から、処刑直前のマリー・アントワネットの素描まで あります)。その他、

    しかし1794年にロベスピエールが失脚(テルミドールの反動)すると、ダヴィッドも逮捕され、一時期リュクサンブール宮殿に身柄を移され、 幽閉生活を送ることになりました。彼はロベスピエール処刑が決定した国民公会を欠席したり(出席していれば彼も危なかった可能性があり ます)、後にロベスピエール支持を撤回するなど、「節操のなさ」を批難する人もいます。しかし彼が革命に荷担したのはアカデミーに対する 反感によるところが大きいようですし、また彼以外にも革命政府→第一帝政→王政復古期に政府のために働いた芸術家は多く、彼一人を非難 するのは酷な気がしますが…。そんな彼の釈放のために一時離婚していた妻が尽力し(1796年に再婚します)、釈放と再逮捕の後、1795年に 総裁政府の恩赦により完全な自由を取り戻したのでした。

  • ナポレオンとの出会い
  • 自由の身となったダヴィッドは「サビニの女たち」「テルモピュライのレオニダス」といった古代に題材をとった大作に取り組みますが、 その頃フランスではナポレオンが台頭してきます。ダヴィッドがナポレオンと出会ったのは1797年のことで、晩餐会に招かれたダヴィッドは 肖像画の制作を申し入れ(その肖像画は未完のまま残されています)、以後ナポレオンを古代の英雄と重ね合わせ「彼は私の英雄だ」と心酔 していたと言います。

    その後執政政府時代のダヴィッドは公式の地位はもっていないけれど、都市計画やモニュメント計画に関わったことが 知られています。また、執政の制服をデザインしたこともありましたが、執政の権威を見える形で示そうとしたダヴィッドの制服デザイン をナポレオンはあまりにも豪奢として退けたことがしられています。ナポレオンとダヴィッドでは美術に関して見解がかなり異なり、「サビニ の女たち」について批判したり、「テルモピュライのレオニダス」を描いても無意味といったり、ナポレオンは実際の所ダヴィッドの芸術を どれほど理解していたのかは怪しいところがあります。しかし、肖像や彼に関する事件を描く場合にはうまくあったようです。

    そして、後世の人々に自らの栄光の記憶をとどめたいと思っていたナポレオンがダヴィッドに描かせたのが「サン=ベルナール峠を越える ナポレオン」でした。この絵画は1800年末からわずか数ヶ月で描かれましたが、馬や制服については実物を見ながらきちんと描き上げられ、 完成した作品を見たナポレオンは大いに満足し、1803年にレジオン・ドヌール勲章をダヴィッドに授与したのでした。

  • 皇帝の首席画家へ
  • レジオン・ドヌール勲章を授与されたダヴィッドですが、1804年になって遂に皇帝の首席画家に任命されます。ダヴィッドについて金銭面で 他人から非難を浴びる行動のせいで悪評もかなりありましたが(制作料を既に支払われている絵画を展示して入場料をとり、かなり収益を あげていたり、後にその絵画を売却したりしてかなりもうけています)、ナポレオンはそれを特に気にすることなく即位式から2週間ほどあまり 発った後にダヴィッドを首席画家に任命しています。かつて執政政府は「政府の画家」への任命を断った彼も、今回はあっさりそれを受け入れ、 以後皇帝の戴冠式や帝国の歴史を描くことを計画し、実行にうつします。

    ダヴィッドの計画では6点の大画面の絵画(「聖別式」「戴冠式」「即位式」「鷲の軍旗の授与」「皇帝の市庁舎到着」)を完成させようと しましたが、実際には2点しか完成することはありませんでした。これに関しては、第1帝政時代は決して安定した時代ではなく、建築事業を 含めて様々な計画が途中で中断する可能性があったことが実際に計画を進める当事者の心理に影響していたとか、必要な諸費用がなかなか 支払われなかったとか、そのようなことが理由としてあげられています。また帝政後半になると、弟子を多く育成して公の場を自分の構想に よる絵画で飾って人々を導こうとしますが、当時美術行政を司っていたドノンやアンスティテュ絵画部門(旧アカデミーの人々が集まっている) といった対抗勢力が存在し、思ったようには力をふるえなかったような所もあります。

    なお、彼とナポレオンとの関わりについては、かつてフランス革命時に見せたような政治への積極的な関わりは見られませんが、ダヴィッドにとり ナポレオンの行っていることはフランス革命ほど魅力がなかったようです(ナポレオンがエジプト遠征に彼を帯同しようとしたとき、 その話を断っています)。また、ダヴィッドはかつてフランス革命に深く関わったことから敵も多く作っており、そういった経験から、 ナポレオンの帝政に首席画家として絵を描くこと以外ではあまり積極的に関わろうとしなかったのかもしれません。なお、皇帝の首席画家としての 彼の仕事は、完成させた大画面絵画2点、1点の素描、数点の皇帝や教皇の肖像で、他の顧客を取らずに仕事をした割にはかなり少ないような 印象を受けますが、これは、注文が口頭でなおかつ諸条件がはっきりしないという状態では安心して絵を描いていられなかったためだと考え られています。

    皇帝の首席画家とはいえ、ダヴィッドは様々な問題を抱えていました。まず、首席画家として定期的な給料があったわけではなく、また彼個人 に財産はなく、妻の財産も革命でへってしまっており、それを補おうとして絵画の展示料をとり、それにより農園を購入する事が出来たことが 知られています(こうしたことから、金銭面での悪評が生じています)。また、首席画家としての仕事も、帝国の美術行政全般に関わりたがる ダヴィッドと、あくまで絵を描くことと都市計画への参加以外は望まないナポレオンの間で認識のずれがあったことが知られています。さらに、 芸術の世界でも帝政末期に生じた新しい芸術の潮流が流れ始め、彼の芸術観が絶対のものでなくなっていくなど、すでに彼は取り残された存在 になっていっていました。

  • フランスを去る
  • ナポレオンがロシア遠征失敗をきっかけに没落への道をひた走りはじめ、遂にナポレオンが廃位されて王政復古の時代を迎えます。しかしそれ がすぐにダヴィッドにとり状況の悪化につながると言うことはなく、多くの弟子をとり、彼らを熱心に教育しています(弟子との関係はかなり 良好だったとか)。しかし、エルバ島に流されていたナポレオンが帰還し、「百日天下」の時代に入ったことがダヴィッドの運命を大きく変え ることになりました。帰還したナポレオンはダヴィッドを再び首席画家に任命したほか、彼の息子たちもかなり高い地位に取り立てられます。 そのせいか、ダヴィッドは帝国憲法付加法(自由主義に基づく新しい帝政を構想したもの)にサインしてしまい、このことが彼にとり命取りに なったのです。

    ナポレオンの「百日天下」はワーテルローで敗北することで終わりをつげ、セント=ヘレナ島に流されたナポレオンはそこで一生を終えること になります。フランスでは再びルイ18世が王位に就き、当初はダヴィッドは特にとがめられることもなかったのですが1816年に帝国憲法付加法 にサインした者は国外退去とすることが決定され、ダヴィッドはフランスを去らねばならなくなったのです。当初はローマ行きを希望しましたが それは認められず、結局ベルギーのブリュッセルに亡命し、まもなく合流した妻との生活が始まります。

    ブリュッセルでの生活はかなり恵まれたものであり、絵画の売却や複製版画販売、さらに投資により資産を増やしていきました(1822年の時点 で換金可能なものが14万フラン)。また、「サビニの女たち」「テルモピュライのレオニダス」をフランス王室に売却して利益を上げるなど、 かなり経済的には恵まれていました。また当代一の画家として敬意も払われていましたし、弟子も多く、肖像画の注文もかなりありました。弟子 や子供たちの訪問を受け、同じく亡命中の人々(そのなかにはシェイエスもいました)と語り合い、夜は芝居見物にでかけるなど、亡命者では ありましたが充実した生活を送っていたようです。亡命中も仕事をしつつ、歴史画の執筆をおこなっていたダヴィッドですが、1824年2月に芝居 帰りに車に衝突して傷を負ってからは体調を崩し、1825年の年末に77歳で波乱に富んだ人生の幕を閉じました。


    (本項目のタネ本)

    デーヴィッド・アーウィン(鈴木杜幾子訳)「新古典主義」岩波書店、2001年
    鈴木杜幾子「画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ」晶文社、1991年
    リュック・ド・ナントゥイユ(木村三郎訳)「ダヴィッド」美術出版社(世界の巨匠シリーズ)、1987年

    今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。伝記的な内容は世界の巨匠シリーズの解説がまとまっているようなきがしますが、 「画家ダヴィッド」は彼の芸術とその時代について考えるのであれば読んでおくべきかと。

    次回は「ジ」で終わる人物をとりあげます。
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