アッバース1世
〜逆引き人物伝第12回〜


「中興の祖」というと衰退している国家の再建からつぶれかけた企業の立て直しまで、何か傾きつつある物を立て直した人物を呼ぶ 際によく使われる表現です。今回取り上げるサファヴィー朝の5代目国王アッバース1世もそのような人物の一人です。しかし彼の業績 は単に崩壊寸前と言っても良い状況にあった王朝を再建しただけでなく、王朝の性格も大きく変化させ、サファヴィー朝にさらに100年の 寿命を得ることになったのでした。


  • 女人天下の時代に生きる
  • アッバース1世(1571〜1629,在位1587〜1629)は第4代国王ムハンマド=ホダーバンデとハイル=アル=ニサー=ベグムの2番目 の息子として生まれました。父王ムハンマドの時代は2代目国王タフマースブが死に、イスマーイール2世が即位したものの1年ほどで 死んでしまった後の混乱期であり、イスマーイール2世は短い治世の間にサファヴィー家の王子を殺害したり焼きごてで眼をつぶしたり していました。眼をつぶすという行為はこれ以後のサファヴィー朝で用いられ、他ならぬアッバースも自分の息子の目をつぶしたりして います。眼をつぶす理由については目の不自由な王子には王位を継ぐ権利がないと考えられていたためであるといわれています。

    しかしイスマーイール2世が死去した時点では彼の1歳の息子に跡を継がせることは難しく、かといって当時既に生まれていたアッバース に継がせるとしてもムハンマド存命中は難しいというハレムの実力者パリー=ハーン=ハーヌムやキジルバシ諸将の判断が働いて、元々眼 の疾患が原因で目がほとんど見えなかったムハンマドが国王として即位したと言われています。この王位継承に関してタフマースブの娘で あり宮廷で強い影響力を持っていたパリー=ハーン=ハーヌムが影響力を発揮したとされますが、彼女としては政治や軍事に無関心なこと が知られていたムハンマドなら操りやすいと考えたため彼が目が不自由であるにもかかわらず国王となったようです。

    しかしパリー=ハーン=ハーヌムの計算外だったのは彼の妻ハイル=ハル=ニサーが彼女同様に野心家だったと言うことであり、結局 権力闘争の結果彼女は敗れ、ハイル=アル=ニサーが彼女の殺害を命じたことでパリー=ハーン=ハーヌムは29歳でその生涯の幕を閉じる ことになります。その後ハレムの実力者となったハイル=アル=ニサーは1年ほど経った頃にキジルバシの将軍たちと対立するようになり 最後は考察されてしまいます。なお彼女はアッバースの実母でありますが、彼を殺害しようとしたという話も伝えられています。このよう にアッバースが即位するまでの時代、サファヴィー朝ではハレムの女人が国政に強い影響力を行使していましたが、実はサファヴィー朝 を通じてハレムの女性が政治に口を差し挟むという現象は度々見られ、アッバース自身も即位後に自分の叔母に色々なことを相談して助言 を仰いでいたといわれています。

  • 動乱の時代に即位する
  • アッバースが即位する前のサファヴィー朝ではパリー=ハーン=ハーヌムやハイル=アル=ニサーのような女性が宮廷で力をふるった時代 でしたが、この時代はまたキジルバシ諸部族が抗争を続けていた時代でもありました。かつてアナトリア高原で遊牧生活を送っていた遊牧 民で、サファヴィー教団の主導権あらそいで劣勢になったジュナイド(イスマーイール1世の祖父)がアナトリア高原に入り、そこで新た に得た信者たちでした(ちなみにキジルバシとは彼らの被るかぶり物に由来します)。彼らは遊牧騎馬民族として強力な軍事力となる存在 であり、イスマーイール1世によるサファヴィー朝樹立の原動力となりました。しかしこの時代になると政治権力を手にして自分たちの利 害を最優先に活動し、時に横暴な振る舞いも見せる単なる軍事貴族となっていました。

    彼らはパリー=ハーンとハイル=アル=ニサーの権力闘争にも関与するなど宮廷の権力闘争にも関与していましたが、ムハンマドが政治に 関心を示さないことからムハンマドの王子を担いでキジルバシ同士で争ったのでした。そして、アッバースはキジルバシ諸部族で有力だった シャームルー部とウスタージャルー部の支持を受けてホラーサーン地方で反旗をひるがえします。アッバースはキジルバシの有力者ムルシド クリ=ーハーン=ウスタージャルーをえて当時の都カズヴィーンに入り、そして父王ムハンマドから王位を引き継ぐことになりました。しか し即位した2年後の1589年にアッバースはムルシドクリー=ハーン=ウスタージャルーを殺害し、実権を握ることに成功します。しかし即位 した後もアッバースに対し反抗する勢力は存在し、イスファハンでアッバースの弟2人が軍の支援を得て反旗を翻しました。このように内紛 が起きている頃に西方ではオスマン朝が国境を侵犯してタブリーズが占領され、東方ではシャイバーニー朝がホラーサーン地方に侵入して マシュハドを占領しタフマースブ1世の遺体を陵辱しました。神秘主義者の間には彼に従わない者も現れてきたり(当時まだ父ムハンマドが 存命中)、国内の政治・軍事・宗教的な問題が山積している状態が暫く続きました。

    こうした状況をアッバースはどのように乗り切っていったのでしょうか。まず神秘主義者で自分に反抗的な者を処罰し、対外的には1590年に オスマン帝国と和約を結び、西部の広大な領土を失う形で和平を成立させました。西方を安定させると今度はイスファハンで反抗した自分の 兄弟を打ち負かし、彼らの目をつぶしたうえで獄につなぎ、同年にシーラーズの支配者も打ち破って内紛をようやく終わらせることに成功し ました。なお、この時期の経験がアッバースのその後の行動に影を落としていた部分もあったようで、アッバースは王位を狙っているという 疑いをかけて長男サフィ=ミールザーを殺害したり、部下たちも全面的に信頼しなかったり、サフィ以外の息子に関しても眼をつぶすなどの 行動に出ています。自分が反乱を起こして王位を簒奪しただけに、常にそのことを心配しなくてはいけなかったと言うことでしょうか。

  • 軍制改革の実施
  • アッバース1世は「アッバースの改革」と総称される改革を行い、どん底から一気に最盛期へとサファヴィー朝を導く改革を行った事で しられています。軍事面では建国から時を経て、横暴が目立つようになってきたキジルバシに変わる軍隊としてゴラーム、コルチと呼ばれる 者が用いられるようになりました。近衛兵コルチは王に直属する軍勢ですが、アッバースはこれの数を増加させています。それにくわえて ゴラームと呼ばれる人々からなる新しい近衛軍を作り、それぞれ1万〜1万5000人程度の規模になりました。この2つのグループはともに王 から直接俸給を受け取る常備軍であり、形としてはイェニチェリに近いものでした。

    ゴラームはタフマースブ治世の後半から部分的に用いられていましたが、それを組織化したのがアッバースでした。彼らは戦争捕虜や縁故を 頼っての志願など様々な経緯で宮廷に仕えるようになったグルジア系、アルメニア系などコーカサス地方出身者がおおく、宗教的には東方系 キリスト教徒が多かったと言われています。また血縁関係を持つ一族がまとまって仕えることもあり、地方の名家がその一族であることも 多かったと言われていますし、ゴラーム間で主従関係ができていることすらありました。そしてゴラームは原則として騎馬兵として使われて いました。一方のコルチはキジルバシ各部族から若者を王の許に送らせて教育を施し王直属の軍団として編成したもので、キジルバシに代わ りトルコ系遊牧民部隊の中核として用いられました。その他に王直属の銃兵部隊や砲兵部隊が新たに組織され、イラン系の人も兵士として 採用されていました。トルコ系遊牧民が火器使用を好まなかったことからイラン系の人々がこういう部隊に使われましたが、トルコ系部族 による軍事力独占を打ち破ることになりました。また、政治的にもコルチやゴラーム出身者が宮廷の要職や地方の太守の職につくことが多 くなり、彼らの政治的にも発言力が大きくなっていきました。

  • 王室経済安定策
  • このように強化された常備軍への俸給を支払うためには当然王室にそれだけの財政的な裏付けがないと不可能になります。建国当初の サファヴィー朝は王直属軍は少なかったため俸給も少なくて済んでいたのですが、アッバースの改革で従来の王領地からの収入では足りな くなっていきました。そこでアッバースが取った対応の一つはトルコ系遊牧民から領地を没収して王領地を増やし、そこからの租税徴収を 増やそうとしました。王領地には王から派遣された役人が駐在して租税の徴収にあたりました。徴税請負の問題についてはサファヴィー朝 成立以前から既に都市における「名家支配」を背景とする政治的支配者と都市有力者の話し合いで税額が決まるやり方が存在していたため、 それをそのまま利用したのではないかと言われています(少なくともオスマン朝の徴税請負のようなものはない)。

    また、特産品である絹を専売にし、アルメニア商人に絹貿易の独占権を与えてその収益の一部を国庫に納めさせるようにしたことも知られて います。アッバース1世は1597年に都をカズヴィーンからイスファハーンに移し、イスファハーンの町はそれ以後大幅に規模を拡大して 発展していきます。1604〜05年にアッバース1世はアルメニア人をペルシア本土へ移住させ(イスファハーンのジョルファー地区の名称は コーカサスの1都市の名前に由来)、ジョルファー地区に移住させたアルメニア商人たちに絹をヨーロッパやインドの承認に売りさばく独 占権を与えました。その活動はヨーロッパの旅行家が「ペルシア最大の企業家は王である」を残した事でも知られています。アッバースは 商業活動促進と関連する事業として道路や橋の整備を進め、商人や隊商の活動の便宜を図るとともに、外国からやってくる商人を歓迎し、 自国の商人には外国との貿易を行うことを推進しました。

  • 最盛期の現出
  • このような改革を通じてアッバース1世はサファヴィー朝を強化し、東西の敵に対する領土回復戦争を戦い続けることが可能となりました。 オスマン帝国に対して不利な条件で和議を結んだアッバースは東のシャイバーニー朝に対して戦いを仕掛け、1598〜99年のホラーサーン地方 の遠征によりヘラートやマシュハドを奪還し、1603年頃までには東方の脅威は大幅に減少することになりました。そして、東方をおさえた アッバースはオスマン帝国に対して戦いを挑みますが、いちどの会戦で決着を付けようとするのでなく、何年もかけてアゼルバイジャン地方 やメソポタミア平原、コーカサス地方を奪回し、サファヴィー朝の領域はほぼ建国当初の領域にまで回復しました。

    そのアッバース1世の権威を見せつけるものとして忘れてならないのはイスファハーンの建設でしょう。アッバースは様々な建築事業を行い ましたが、その中で最大規模の事業がイスファハーンの町でした。イスファハーンには王やその一族の居住区域に水と緑の豊かな庭園が造ら れ、その中に宮殿が点在するような形をとり、さらに重臣たちも広い庭を持った邸宅を新市街に建てました。この新市街と旧市街をつなぐ 場所に作られた「王の広場」はイスファハーンの中心に位置し、その隣にはタイルによる装飾が非常に華麗な「王のモスク」が建設されまし た。「王のモスク」の建設は対オスマン戦争終結の1612年に開始されており、アッバース1世の絶頂期に作られ始めた建物でした。「王の 広場」は居住以外のあらゆる機能が集中し、使節の謁見、閲兵、時には処刑も行われたほか、何か特別な日(新年の祝宴、外国からの使節 到着など)には広場を囲む回廊全体に灯がともされていました。また、広場の北には大バーザールにつながる入り口があり、回廊は商人が 店を開き、周辺にはキャラバンサライがあったほか、広場でも青空市が開かれるなど商業活動の中心地としても機能していました。また、 広場で大道芸人が見せ物を疲労したり、夜になると娼婦が現れるなど、娯楽の場でもありました。また、アッバース1世の時代には外国との 交流も持たれるようになっており、イスファハーンにはオランダやイギリスの東インド会社商館が置かれ、外国から貿易拡大や友好関係の 樹立を求めてサファヴィー朝を訪れる人の数も増加していきました。なお、イギリスの助けをうけながらホルムズにいたポルトガル勢力を 駆逐したということもアッバース1世の時代に見られたことでした。

    このようにサファヴィー朝の最盛期はアッバース1世の時代に現出しましたが、彼の治世を通じて起きた変化として、様々な分野での「多 民族化」のきっかけとなったと言うことが上げられています。政治・軍事面についてはかつてはトルコ系遊牧民が軍事をにない、イラン系 都市定住民が官僚として働くというのが今までの王朝でよく見られた形であり、サファヴィー朝の初期の段階でもそのような特徴は残って いました。しかしキジルバシに依存しない軍制を導入し、高官の地位にキジルバシ以外の人間をつけたことから、アッバース1世以後には イラン系の軍人が現れたりトルコ系の文人があらわれるなど、いままでのような民族による仕事の区分けが消えていきました。経済面でも アルメニア商人が活躍したりインド系の商人が活躍するなど、様々な民族がサファヴィー朝で活躍することができるようになっていきました。 このような変化をとげたことでサファヴィー朝は滅亡寸前の状況を脱し、さらに100年続くことになりました。


    (本項目のタネ本)
    羽田正 「モスクが語るイスラム史」、中央公論新社(中公新書)、1994年
    (同) 「成熟のイスラーム世界」、中央公論新社(世界の歴史(新版))、1998年
    (同) 「三つの『イスラーム国家』」、岩波書店(岩波講座世界歴史14巻、3頁〜90頁)、2000年
    Garthwaite,G.R. the Persian, Brackwell, 2005
    Newman,A.J. Safavid Iran rebirth of Persian Empire, L.B.Tauris, 2006
      今回の記事ではこれらの著作の一部を参考にしています。サファヴィー朝のみを詳しく取り上げた単著という物は管見の限り 見つけられませんでしたが、中公「世界の歴史」の「成熟のイスラーム世界」にはサファヴィー朝の歴史がかなり詳しく掲載 されています。アッバース1世の伝記というものは現時点ではありません。「モスクが語るイスラム史」にはアッバース 1世の墓に関する話が載せられています。その他、Safavid Iranにはアッバース1世治世初期の内紛のことや、彼が婚姻を利用 して有力者との繋がりを作り出していたこと等が触れられています。

    次回は「ア」で終わる人物をとりあげます。

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