オリュンピアスとエウメネス


エウメネスが銀盾隊などの指揮権を委ねられてアンティゴノスと戦うに至る過程で、エウメネスの許にアレクサンドロス大王の母親である オリュンピアスから「早速帰国して、陰謀の的となっている、アレクサンドロスの幼い子供を引受けて育ててくれ(「プルターク英雄伝 第8巻」(岩波文庫)『エウメネース』13章より。旧字・旧かなは新字・新かなにした)」るよう頼む手紙が届けられました。また、オリュン ピアスからエウメネスに送られた手紙にはエペイロスにとどまるべきかマケドニアに戻るべきかエウメネスにアドバイスを求める内容が含まれ ていたと伝える史料もあります(ディオドロス「歴史叢書」18巻58章3節)。その手紙でオリュンピアスはエウメネスのことを最も信頼でき る友人であり王家を救うことが出来る者とまで言っているのですが(ディオドロス18巻58章2節)、オリュンピアスがそこまでエウメネスを 頼みとしたのは何故なのでしょう。エウメネスにとってオリュンピアスやポリュペルコンからの支援要請は王家の権威により自分の正統性を 確保できる(と言うかそれ以外には彼の依って立つところはない)のでこういう誘いは非常にありがたかったと思われますが、彼を頼ってきた 側の事情について一寸考えてみようかと思います。

  • オリュンピアスの置かれた状況
  • アレクサンドロス死後のオリュンピアスがどのような状況に置かれていたのかをまとめておきますと、アレクサンドロスが前323年に バビロンで死去したときオリュンピアスはエペイロスにいました。東征中はオリュンピアスがマケドニア王家を代表する立場で色々な活動を していたようです。例えばアフリカ北岸のキュレネが穀物飢饉に陥ったギリシアとマケドニアに穀物を配給したことがあり、その配給先を 記録した碑文にはオリュンピアス個人の名前がギリシア諸ポリスと並んで登場します。一方で東征中にアンティパトロスが軍事面で活躍して いますが、この両者が対立するようになり、ハルパロス事件により両者の対立は修復不能な状態に陥ります。この時はアレクサンドロスが アンティパトロスを解任してバビロンへ召還する事を決定するとともに、オリュンピアスはエペイロスへ移すということで決着がはかられ ました。しかしアレクサンドロスが死去したことによりアンティパトロスは召還されずにマケドニアに残り、結局オリュンピアスがエペイロス に移っただけと言うことになっていたわけです。

    その後アンティパトロスがマケドニアで実権を握っている間、オリュンピアスはアンティパトロスとの対立からマケドニアに戻ろうとせず エペイロスに滞在し続け、娘のクレオパトラと連絡を取り合い当時未亡人となっていた彼女を有力な将軍と結婚させて権威・正統性を与え るかわりにその力によって生き残りを図ろうとしています。そのために始めはレオンナトス、次にペルディッカスとクレオパトラの結婚を 試みますがそれはいずれも失敗におわり、クレオパトラは結局サルディスに残されることになります。アンティパトロスはクレオパトラを のぞく王族をすべてマケドニア本国へと連れて帰り、前319年夏に死去します。死ぬ直前にアンティパトロスは摂政の地位にポリュペルコン を任命したことからアンティパトロスの息子カッサンドロスが不満を募らせ、本国で仲間を集めたりプトレマイオスなど他の将軍達に使者 を送って協力を要請していきます。

    このような状況の変化が当時エペイロスで手詰まり状態になっていたオリュンピアスに新たな手がかりをもたらすことになります。新摂政 ポリュペルコンは地位を引き継いで間もない頃にオリュンピアスにマケドニアに戻ってアレクサンドロス4世を保護してくれるように願う 手紙を送ってきますがオリュンピアスはしばし様子を見ようとしたのか、はたまた敵対するカッサンドロスがまだマケドニアにいたために 戻りたくなかったのかはさておき、マケドニアへ帰ることはしませんでした。しかしカッサンドロスがマケドニアを飛び出してアンティゴ ノスに助けを求めたときに再びポリュペルコンがオリュンピアスの許に手紙を出して帰国を要請してきたのです。そして、この時にオリュ ンピアスがエウメネスに手紙を出してどうするべきか相談し、エウメネスはオリュンピアスに対して当面エペイロスにとどまって様子を 見るように助言したのでした。

  • 何故エウメネスを頼ったのか
  • では、何故オリュンピアスはエウメネスに対してどうするべきか相談するような行動を取ったのでしょうか。当時の彼女にとってエウメネス 以外には頼るべき人材はいなくなっていた可能性がまず挙げられます。トリパラデイソスの会議(前320年)によりアジア方面で帝国軍の 総司令官的立場に立っていたアンティゴノスはエウメネスやペルディッカス派残党と戦いを繰り広げていきます。エウメネスとペルディッカス 派はこの時に統合を図って失敗しており、エウメネスは単独でアンティゴノスと戦って敗れ、その後逃げ込んだノラにおいて包囲されてしまい ます。一方アンティゴノスはノラでエウメネスを包囲しつつ他のペルディッカス派の武将達(アルケタスやアッタロスら)への攻撃を開始し、 アッタロス、ドキモス、ポレモンなど多くの武将は捕らえられ、アルケタスはテルメッソスに逃げ込みますが自殺することになってしまい ました。エウメネスがノラで降伏した時点でペルディッカス派は消えてしまっていたと考えて良さそうです。

    しかし、ペルディッカス派の武将以外にも小アジアで太守となっている武将達は何人かいました。そう言った人々を頼ることは出来たので しょうか。結論から言うとそれは難しかったと思われます。トリパラデイソスの会議においてアンティパトロスはアンティゴノスを帝国軍 総司令官とするいっぽうで小アジア各地の太守を新たに任命してアンティゴノスを牽制しています。しかしヘレスポントス・フリュギアの 太守アリダイオスはアンティゴノスの攻撃から身を守ろうとして領内の都市の防備を固めようとします。この時キュジコスがそれを拒んだ ことからアリダイオスはキュジコスを攻撃しますが失敗し、かえってそれを知ったアンティゴノスから太守領を立ち退くよう圧迫され、 彼は何とか抵抗しようとしてエウメネスとの共闘を目指したりしますが結局それも失敗したようです。またリュディア太守に任命されていた 「白い」クレイトス(アレクサンドロスに刺殺されたのとは別人)も都市の守りを固めますが彼自身はマケドニアへと逃げてしまいました。 このように小アジアのあたりにはオリュンピアスが今後のことについて簡単に相談できそうな相手は見あたらない状態になっていたと考え られます。

    小アジア以外に目を向けるとすると、東方の太守たちの場合はあまりにも遠すぎると言う問題があったでしょうし、エジプトのプトレマイ オスはカッサンドロスと友好関係を持っているのでまず無理でしょう。残るところでかなり大きな力を持つ者はトラキアを支配するリュシ マコスですが、彼はこの後、ポリュペルコン側の提督となっていたクレイトスが海戦で敗れた後に彼を捕らえて処刑していることや、以前 からアンティパトロスとの友好関係が想定されるところから、恐らくアンティパトロス・カッサンドロス側に属する人間であったと考え られますので、彼を頼ると言うことも出来なかったでしょう。

    結局このような状況下でオリュンピアスがかろうじて頼ることが出来る人物はエウメネスくらいしかいなかったのでしょう。また、同じ事 はポリュペルコンにとっても言えることで、彼の側に立って戦ってくれそうな者というと、マケドニアに逃げてきてアンティゴノスの行動 を知らせたクレイトスは何とかあてに出来る(実際に艦隊を任せて戦わせています)ものの、それ以外にはエウメネスくらいしか見あたらず、 彼を何とか自分たちの側に付けるしか出来なかったでしょう。しかしオリュンピアスの場合、単に王を守るよう協力を要請するだけでなく、 自分の身の振り方まで相談していたという事からは、「最も信頼できる友人」であったかどうかはさておき、オリュンピアスにとってエウ メネスは個人的に信用できる人物だったのかもしれません。


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