リチャード3世
〜逆引き人物伝第8回〜


現在でこそ数は少なくなりましたが、かつて世界の多くの国は君主制であり、あまたの君主が各地に君臨し、なおかつ統治していました。 それらの君主の多くは取り立てて目立った業績を残したわけでもなくせいぜいがその国の史書に名を残す程度であると思われますが、中には 名君あるいは暴君として他国の史書にまで名を残している人物もいます。現在まで君主制を保っている数少ない国の一つであるイギリスは 19世紀初頭に連合王国となる以前のイングランド、スコットランドと分かれて王国が存在した時代から様々な王がいましたが、その王達の なかでリチャード3世ほど悪評のついて回る人物はいないように思われます。シェイクスピア「リチャード3世」などにより残虐で冷酷な 権謀術数の限りを尽くす悪人というイメージが広く行き渡ってしまっていますが、リチャード3世の評価見直しの動きははやくも17世紀 に始まっており、以後チューダー朝時代以来のリチャード悪人伝説擁護派と伝説修正派の間で様々な議論が行われてきた人物でもあります。

さらに近年は善人・悪人というような個人的性格ではなく、当時の政治的・社会的背景から彼の行動を考えたり彼の統治業績の面から彼に ついて論じていくという方向で研究が進められているようです。在位年数は僅か2年(1483〜85年)でありながら、英国には1956年設立の 「リチャード3世協会」という団体が存在して積極的な活動を展開しているほか、歴史書や論文、小説、インターネットのサイトなど様々な 形で人々の彼に対する関心が表され、リチャード3世の真の姿を追求する試みが続けられています。

  • 生い立ち
  • リチャード3世は1452年、ヨーク公リチャードの5男としてフォザリンゲイ城(のちにスコットランド女王メアリー・スチュアートが 幽閉され、処刑される城です)にて生まれました。リチャードの兄弟姉妹は数はかなり多かったのですが、夭折したり戦死した結果、 次男エドワード(のちのエドワード4世)、四男ジョージ(クラレンス公)、長女アン、次女エリザベス(のちのヘンリ7世王妃)、 三女マーガレット、そしてリチャードの6人が残ることになります。兄弟とは言っても各地のヨーク家の拠点に分かれて暮らしていた ようで、ジョージとリチャードは母親の手でフォザリンゲイ城、その後ロンドンのベイナード城で育てられます。リチャードが生まれた 翌年の1453年に百年戦争が終結(またこの年はメフメット2世がコンスタンティノープルを 征服し、世界帝国への夢へ向かって走り始めた年です)、その2年後の1455年には第1次バラ戦争が勃発と英国史のなかでも有数の動乱時代 が始まりますが、その影響はリチャードにも及びます。

    リチャードの父ヨーク公リチャードは王位継承を求めて1455年に挙兵し、これが第一次バラ戦争の開始となります。彼はランカスター 派との激しい戦いを繰り広げていましたが、リチャード7歳の時に敗戦(このときリチャードはランカスター派に母とともに捕らえられ ています)、8歳の時に敗死(この敗北もあり、リチャードも兄ジョージとともにブルゴーニュへと亡命させられます)してしまいます。 一時捕らえられたりブルゴーニュに亡命したりと幼い頃から苦難の道のりを歩まされるリチャードですが9歳の時に兄のエドワードがタウトン の戦いに勝利しヨーク朝を樹立したことでイングランドへの帰還がかない、さらにグロスター公爵位を授けられました。

  • 権力への道
  • 帰還したリチャードは当初兄のクラレンス公ジョージとともに養育されますが1465年にクラレンス公が国政に参加しはじめ、さらに多くの 所領を獲得して国王エドワード4世も重きを置かざるを得ない大領主となるのと比べて、リチャードは僅かな所領しか与えられず、1465年 から68年までの間はウォリック伯リチャード・ネヴィルの元に送られて彼の保護下におかれました。ウォリック伯は「キングメーカー」と もあだ名され、エドワード4世即位の功労者として統治の中枢に据えられ、北部イングランドで覇権を確立しつつありました。しかし、やがて エドワード4世がウォリック伯とその一派を弱めようとしたことから両者の関係が悪化し、ついにウォリック伯は王に不満を持つクラレンス公 を引き込んで1469年夏に挙兵し第2次バラ戦争が勃発します。ウォリック伯は国王を捕らえますがロンドン市民の反発もあり和解して釈放 します。しかしその後ウォリック伯はランカスター家と結んで再び反抗してヘンリー6世を復位させ、エドワードは国外へ逃れて反撃の準備 をブルゴーニュ公の支援のもとで整え、1471年に再びイングランドに上陸、バーネットの戦いでウォリック伯は戦死しテュークスベリの戦い でランカスター軍は壊滅し、その後の反乱も抑えてエドワードが勝利します。

    それでは、ウォリック伯の保護時代から第2次バラ戦争の時期のリチャードはどのような状態にあったのでしょうか。ウォリック伯とエドワード 4世の関係が徐々に悪化しつつある時期にリチャードはウォリック伯のもとにいたのですが、彼の家臣となる北部の中小貴族やジェントリ層との 結びつきが生まれるなどかなり重要な意味を持つ時期でした。しかし、王とウォリック伯の関係悪化はリチャードにも影響し、彼は王により呼び 戻されることになります。第2次バラ戦争においてリチャードは保護を受けたウォリック伯ではなく王に忠誠を尽くして戦い、初陣となった バーネットの戦い、テュークスベリの戦いで活躍、さらに反乱軍鎮圧において活躍します。バーネットでは傷を負っても勇敢に戦い、戦いでは 有能な指揮官としての才能を示します。また彼はイングランド武官長の地位についており、それ故にテュークスベリの戦いの戦後処理にも関わり ます。このように第2次バラ戦争で活躍したことが、その後のリチャードの地位向上に大きくつながってくるのです。

    復位したエドワード4世に重用されるようになったリチャードは兄クラレンス公ジョージ(反乱を起こしたものの後で和解してエドワードのもと にもどっていた)との対立・抗争を繰り広げます。クラレンス公は復帰後官職はアイルランド総督のみですが旧ウォリック伯領の多くは彼が所有 するようになるなど大土地所有者となっていました。一方グロスター公リチャードは所領は少ない物の中央の官職は多く占めており、海軍提督、 武官長、そしれ式部長官に任命されていました。中央政界での影響力や地位は得た物のそれに見合う所領がないため、所領獲得のためにウォリック 伯次女のアンとの結婚を画策します。それに対しクラレンス公が式部長官を要求して両者が対立、1472年に始まった対立は途中からエドワード 4世とクラレンス公の対立再燃という事態も引き起こし、結局クラレンス公が逮捕・処刑される1478年まで続きました。

    政敵排除に成功したリチャードですが、その後は1470年初めの北西部辺境防衛司令官任命と所領獲得をきっかけに進出していた北部イングランド の支配を固めていく事に専念します。ウォリック伯領を獲得してからさらに北部支配領域を拡大します。それに関係して、アン・ネヴィル(ウォ リック伯の娘)と結婚したりノーザンバランド伯を臣従させたリチャードは1475年以後北部イングランドの所領の集中化を図り、所領を次々に 拡大し、1480年には北部最大の支配領域を有するに至ります(国王特許状の発布により行われました)。それに加えて北部地区統監への任命や 新州設置(リチャードが統治者)によってさらに支配が強化されていきました。また北部では1480年から1482年にかけてスコットランドとの 緊張関係から2度の遠征が行われリチャードは軍事面で勝利を収め、外交面でも奔走した結果、王や北部地域の信頼は篤くなりました。北部に おいてエドワード4世の辺境統治策や絶対主義的な統治体制の一翼を担うことになったリチャードですが彼の野心はとどまることはありません でした。

  • 国王リチャードの誕生
  • エドワード4世のもとで重きを為すようになったリチャードですが、彼が次に狙った物はイングランド王位でした。1478年以降、 リチャードは北部支配に力を注ぎ中央政界にあまり顔を出さなくなっていますが、そのころ宮廷では王妃の親族ウッドヴィル家一派が 力を持ち中央政界ではヘイスティングズ卿が王の信頼を得て影響力を発揮し、その結果両者の勢力争いが中央政界で起きていました。 ウッドヴィル家に対する貴族達の反発は強く、王の死後に爆発することになります。

    1483年、エドワード4世が死去し、ウッドヴィル家一派が握っていた諮問会議は12歳の王太子エドワードの国王即位宣言を行いました。 王太子エドワードはウェールズのラッドロウ城にいましたが、国王崩御の知らせを聞き伯父リヴァーズ伯の率いる2000名の軍と共にロン ドンに向かいました。一方リチャードのもとにも同じ知らせが伝えられ、彼も600名の軍を率いてヨーク市を出立してロンドンへ向かいます。 途中、ノーザンプトンでバッキンガム公が手勢300騎を連れて合流して対策を練ったようです。そしてリチャードはノーザンプトン西方から 引き返してきたリヴァーズ伯らと会見しますが、そこでウッドヴィル家一派主導の諮問会議の運営やグロスター公無用論を伝えていました。 それを聞いたリチャードとバッキガム公は共謀し、ウッドヴィル一派を捕らえエドワードの身柄を確保するべく陰謀を巡らし、リヴァーズ伯 を陰謀の廉でを逮捕(その後処刑)、それから急いでエドワードのもとに急行して身柄を確保しウッドヴィル一派を捕らえ(後に処刑)ました。 こうしてウッドヴィル一派を排除することに成功したリチャードは王位簒奪に向けて動いていくことになります。

    リチャードの護衛によるエドワード到着と弟のリヴァーズ伯処刑を知った王太后は次男ヨーク公をつれてウェストミンスター・アべイの庇護所 に身を寄せました。ウッドヴィル一派を排除した諮問会議で新王エドワード5世の居住地はロンドン塔に決められ、戴冠式の日程は当初より遅い 6月下旬に決定され、そしてリチャードは摂政に任命されました。こうして国家統治の主導権を握ったリチャードですが、いよいよ王位簒奪に 向けて動き出します。さらにヘイスティングズ卿、ヨーク大司教トマス・ロザラム、イリー司教ジョン・モートンおよびスタンリー卿を陰謀の 廉で逮捕し、ヘイスティングズ卿を陰謀の首謀者としてすぐさま処刑しました。ヘイスティングズ卿がエドワード5世に忠実であり自分の野心 実現のためには邪魔だと判断したためのようです。反ウッドヴィルで一致していてもその辺りに違いがあったというわけです。さらにリチャード はエドワード5世の弟ヨーク公リチャードを連れだし、彼もロンドン塔にいれてしまいました。こうして兄エドワード4世の2人の息子を掌中に 納めて幽閉したリチャードはいよいよ王位簒奪計画を実行に移すのです。リチャード派のバッキンガム公などの策動もあり、エドワード4世の 子供達が非嫡出であることおよびリチャードの王位継承が集会で承認され、1483年7月6日にリチャードはリチャード3世としてウェストミンスター ・アべイで戴冠するのです。なお、2人の息子達はその年の8月にはいると見られなくなりますが、2人を殺したのがリチャードなのか次の ヘンリー7世なのかはよくわからないみたいですが・・・。

  • つかの間の栄光
  • こうして王になったリチャードですが彼の統治は兄エドワード4世の政策の踏襲・徹底でした。中央行政、財務の整備・官僚化、地方行政 把握の体制、議会の財政面における比重低下、貴族抑制策、重傷主義的政策の推進と言ったことが知られています。しかし彼が即位してまもなく 反乱が相次ぎます。まずリチャードの王位簒奪に協力したバッキンガム公が反乱をおこし、それと並行して南部諸州でも反乱が起きます。これら の反乱はエドワード4世の家臣達が主導した物で南部の有力な騎士、ジェントリ達が多く参加していました。鎮圧後、リチャードは北部出身の家臣 を権力基盤とするようになりますがそのときに南部諸州の統治も北部出身の家臣に任されます。これが南部の人間の反発を招くことになるのです。

    一方でリチャードは北部や西部の辺境、ウェールズの統治についても北部出身者が実質的な権限を握る体制を作り上げ、旧来の貴族には実質的な 権限は与えないようにしてます。これは旧来の貴族達にとって見ればかなり不快な高位で、彼らもリチャードに反発したと考えられます。このよう な状況で権力基盤がかなり限定されてしまったリチャードに対して不満を持つ貴族や騎士、ジェントリがかなりいたことがたしかなようです。それ でも1484年夏までは安定した状態を保っていましたが、1484年夏以降リチャードに対する反乱や陰謀が相次ぎ、1484年末までに反リチャード 勢力は当時大陸のブルターニュに亡命していたヘンリー・チューダーの元に結集していくことになります。リチャードはブルターニュに対して ヘンリーの引き渡しを要求しますが、それをしったヘンリーはフランス王国に逃げ、フランスの支援を受けてイングランド侵攻の準備を整える ことになります。

    ヘンリーが大陸でイングランド侵攻の準備をしている頃、リチャードも海峡の防衛体制を整えていきましたがそれによる軍事費が財政を圧迫し、 リチャードは強制献金によりまかなおうとします。しかしこれが国内の貴族、騎士、ジェントリの反発を生み1485年5月にリチャードに対する 反乱が国内で勃発することとなります。この反乱はヘンリーの協力のもとで行われ、ヘンリーもそのころには本国侵攻の準備が整っており、 ついに同年8月にヘンリーの出身地であるウェールズに上陸します。ヘンリーの軍勢は上陸後もジェントリや貴族が味方して強大化していきます。 一方リチャードもヘンリー上陸を聞くと軍を集めて進軍し、ボスワース近郊に陣を敷きます。リチャードの軍勢は総勢10000〜12000,一方 ヘンリー軍は5000と数だけみるとリチャードが優位でした。しかしリチャード軍のノーザンバランド伯とスタンリー卿は動かなかったうえ、 ボスワースの戦い直前にリチャード側の貴族28人が離脱したり、有力ジェントリがリチャードに従わず国王軍に加わらなかったことが重なり、 リチャード軍は敗れ、リチャードは戦死して2年の短い治世を終えたのです。


    (本項目のタネ本)
    尾野比左夫「リチャードIII世研究」渓水社、1999年

      本項目執筆にあたって主に参照したリチャード3世に関する研究書。
    森護「英国王室史話」(上下)中央公論新社、2000年
      イギリス王室の歴代国王について取り上げた読み物。

    次回は「リ」で終わる人物をとりあげます。

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