メフメット2世
〜逆引き人物伝第4回〜


逆引き人物伝第4回では、オスマン帝国第7代スルタンのメフメット2世(1432〜81,在位1444〜46,1451〜81)について取り上げま す。 2年前にNHKスペシャルにて「トルコ 文明の十字路」という番組が放映されていましたが(現在はDVDが販売されています)、オスマン帝国 を扱った回の番組の始まりにて、この人物の落書きが紹介されていました。描かれていた物はアレクサンドロス大王であったといわれており、 彼は自らをアレクサンドロス大王を継ぐ者であると強く意識していたことがうかがえます。また彼は世界帝国ローマの後継者たらんという意識も 強かったと言われています。アレクサンドロスにあこがれ、自らを世界帝国ローマの後継者として意識したメフメット2世とはどのようなことを 行った人物なのか、とりあえずまとめてみようと思います。


  • 3度にわたる即位
  • メフメット2世は1432年、第6代スルタン、ムラト2世の息子として生を受け、彼の後を付いてスルタンとなります。在位年数をみると 少々奇妙なことになっていますが、その原因はメフメット即位時の状況と父親ムラト2世にあります。ムラト2世の時代は先々代のバヤズィッ ド1世がアンカラの戦いでティムールに敗北した後に失われた領土の奪回に費やされた時代でした。またムラト2世は神秘思想に傾倒し、唯一 神アラーとの合一を望んで1444年に大宰相チャンダルル・ハリル・パシャを後見人として位を当時12歳のメフメットにいったん譲り引きこも ってしまいます。すると少年王組みやすしと見たのかローマ教皇が対オスマン十字軍を呼びかけ、フニャディ・ヤーノシュ率いる十字軍が攻め 込みます。危機的状況に陥ったためにハリル・パシャの要請によって隠棲していたムラトが再びスルタンに即位して十字軍を撃退します。こう してメフメット2世は1444〜46年の間に2度即位と退位を繰り返していますが、いずれも危機的な状況においてハリル・パシャがムラトの復 位を要請し、そのたびにメフメット2世は退位させられています。その後1451年になって当時19歳の彼がようやくスルタンの位を継ぐことに なりましたが、ハリル・パシャの存在が段々に邪魔になっていたようです。その反感をスルタンの側近達があおり立てており、3回目の即位の 頃、オスマン帝国の政界には旧来の勢力とスルタンの側近達の間で対立もあったようです。なお、即位に当たってメフメット2世が「兄弟殺し」 の法令を定めたとする説があります。たしかに彼は3回目の即位に当たって弟アフメットを殺害し、皇位継承争いの芽を摘みますが、そのような ことは彼以前のバヤズィッド1世の時から行われていたことです。

  • 「征服者」
  • 3回目の即位の直後に長年のライバル、カラマン君侯国を撃退した後、メフメット2世が取り組んだのはコンスタンティノープル攻略で した。コンスタンティノープルの北15キロのところにルメリ砦(ルメリ・ヒサール)を建設して対岸のアナドル砦と併せて墓スポラス海峡 を封鎖する態勢を作り、さらに火器も増強し、ついにメフメット2世はコンスタンティノープル攻略を決定します。このころの軍備を巡る話 としてはビザンツ帝国とオスマン帝国の双方に自分の大砲製造術を売り込み、オスマン帝国のスルタンに雇われて巨大な大法を作ったハンガ リー人技師ウルバンの話があります。ウルバンの話はオスマン帝国が火器兵器を整備増強していたことを示すエピソードの一つですが、当時 のオスマン帝国は品質の良い火薬を持ち、砲身と砲架を別々に運んだり、城攻めの歳には現地で大砲を鋳造するなど様々な工夫を凝らしてい たようです。1452年末よりメフメット自らエディルネにてコンスタンティノープルの地図をもとに自ら検討を加え、大砲や塹壕、さらには 城壁にかける梯子の位置まで自ら指示するほどの熱意を示したと言います。メフメット2世のコンスタンティノープル攻略にたいしハリル・ パシャは反対しますが側近たちは主戦論を支持し、メフメットは反対を押し切ってコンスタンティノープル攻略に乗り出します。この辺の所 はオスマン帝国が中央集権化を進める中でスルタンが自分の側近達とともに従来の路線と異なる独自路線を取り始めたことがうかがえます。

    コンスタンティノープル攻略戦は圧倒的な兵力差、ウルバンの巨砲などの火力の優位もあり、54日間の包囲線の末に1453年5月29日にコン スタンティノープルが陥落、最後のビザンツ皇帝が戦場の中で姿を消して決着が付きました。陥落したコンスタンティノープルでは略奪が行 われますが(捕虜となった人の数は5万人といわれています)、できるだけ無傷で都市を手に入れたかったメフメットは陥落後の混乱が収まる と高官を引き連れて入城し略奪を禁じて秩序の回復にあたり、さらに教会をモスクに改造したり街区を新たに設定するなどイスラム都市へと 改造する都市整備を行っていきます。なおコンスタンティノープル陥落後にハリル・パシャは捕らえられ処刑されますが、このころを境に古 くからのトルコ系有力者が権力の中枢から遠ざけられ、かわって奴隷上がりの側近達が据えられるようになっていきます。そう言った点でも コンスタンティノープル攻略は大きな転機となったようです。

    コンスタンティノープル攻略の他にもメフメット2世は各地を征服し、セルビア、ボスニア、アルバニア、ワラキア、ペロポネソス半島等々 を征服してアナトリアと比べると農業生産が多く、しかも西への陸上交通路にあたるバルカン半島の全域を支配下に置き、これがオスマン帝 国の経済力向上に大きく影響します。ちなみに「ドラキュラ」のモデルとされるワラキア侯ヴラド・ツェペシュがオスマン軍を相手に闘い、 勇敢だが残虐な戦いぶりを見せていたのはこのころのことです。さらにメフメット2世は長年オスマン帝国と争ってきたカラマン君侯国を征 服したほか、トレビゾンドも征服して黒海南岸をおさえ、クリム=ハン国を従属させて黒海北岸にも進出しました。こうした度重なる遠征に よりオスマン帝国の領土は拡大していきます。以上のような領土拡大がみられたため、彼は後に「征服者(ファーティヒ)」と尊称されるよ うになります。

  • 「世界帝国」の編成
  • メフメット2世は自らをアレクサンドロス大王になぞらえたり、世界帝国ローマの後継者としての意識を持っていたと言われています。 世界征服者としてのアレクサンドロス大王の記憶は地中海世界に生き続け、イスラム世界にも継承されています。アレクサンドロスの衣鉢を 継ぐ者として意識し、東西融合をしようと考えていたとも言われています。征服者アレクサンドロスの後に地中海世界をまとめて世界帝国を 作り上げたのはローマであり、ビザンツ帝国はその後継国家であり、コンスタンティノープルはその都でした。ゆえにメフメット2世は自ら がアレクサンドロス、ローマの系譜を継ぐ者たらんと欲し、コンスタンティノープルの征服や復興にこだわったのだと言われています。東西 の融合に関しては彼はイタリアから芸術家を招聘したりして独自の文化の保護育成をはかったり、自らもラテン語、ヘブライ語、ギリシア語 を解したりギリシアの文献を学んだりするなど西洋の文化にも強い関心を示したことがしられています。そのような文化的なこともさること ながら、オスマン帝国が従来とは性格を大きく変えていったのがメフメット2世の時代でした。

    メフメット2世の治世は広大な領域の征服が目を引きますが、一方で彼の時代はオスマン帝国が従来の有力者の連合体のような政権か ら皇帝を頂点とした中央集権的な体制へと移行する時期でした。即位当初は父のムラト2世以来の重臣ハリル・パシャの後見をうけていま いたが、3度目の即位の時には従来の路線とは異なる独自路線をとり、周辺地域への征服を進めるとともにハリル・パシャを処刑し、その 後は奴隷上がりの皇帝の側近を大宰相に据えるなど今までとは違うやり方を取り始めます。当然そのようなことに対しては従来のトルコ系 有力者達の不満を招くこととなり、不満を抱くトルコ系有力者など反スルタン勢力は長男バヤズィッドに接近していったと言われています (一方でメフメトの路線の継承を望む者は次男ジェムに接近し、メフメット死後に両者は激しく争うことになります)。それはとも かくとして、メフメット2世は法学者達に命じて「法令集」を作成して帝国の諸制度を規定して皇帝中心の中央集権体制へと移行し、帝国 は新しい段階へと移行していくことになったわけです(なお、メフメット2世の法令集は16世紀のスレイマン大帝の時代に一部手直しされ 条文が追加されますがオスマン帝国の法令の中心としてタンジマートの時代まで存続します)。世界帝国ローマの都を攻略したオスマン帝 国がローマ帝国の後継者として地中海世界を支配する時代がやってきたというわけです。

    さらにメフメットは攻略したコンスタンティノープルを新しい帝都としてふさわしい都市へと整備していきます。新都イスタンブルには 沢山の街区が作られ、そこには新築ないし教会をリフォームしたモスクが立ち、学院や病院など公共福祉施設が作られ、イスラム伝統のワ クフ制度(寄進財産から生まれる利益で公共施設を運営する)に基づき運営されていたようです。イスタンブルには数多くのバザールも開 かれ商業活動が活発に行われ、繁栄を取り戻していきます。ちなみに現在は博物館になっているトプカプ宮殿が造られたのもメフメット2 世の時代でした。征服によりコンスタンティノープルの待ちは荒れ果ててしましたが、イスラム教徒が住みやすい都市へと改造されたのみ ならず、都市の人口を増やそうとし旧住民の保護にすぐに着手しただけではなく、てスルタンを認めて税を納めれば首都にすませるという 勅令を発します。しかしそれだけではうまくいかず、やがて首都への強制移住を富裕層に対して命じ、教会設置についてもイスラム法を厳 格に適用しないなどの措置も設けるなどして何とか人口を増やそうとします。熱心な都市の再建の結果、征服してから四半世紀で人口は10 万人にまで増加し、一応世界帝国の首都としてふさわしい都市へと発展していきます。ちなみに、征服前のコンスタンティノープルの人口 が5万から7万程度だったといわれています。しかし征服時の略奪や戦闘で5000人が死亡、5万人が捕虜となりよそへ売られたらしいとの ことなので、メフメットがここを首都としたときには相当荒廃していたようで、それを人口10万人にまで復興していったわけです。この 都市の住民のおよそ4割は異教徒であり、皇帝が中央集権体制を敷いて政治を行うときにそれを取り仕切るのは血筋の上ではギリシア人や セルビアの人間でした。またメフメット2世は専売制を敷きましたがそれにより利益を得たのは異教徒の商人(特にギリシア人だったらしい) でした。

  • 謎に満ちた遠征計画
  • このようにメフメット2世の時代は領土の拡大、帝国の整備、文化の振興などが見られた時代ですが、新しい動きがあれば当然それに 対する不満や反発も生まれます。度重なる遠征や征服は帝国の財政を悪化させ、政治を皇帝の側近が壟断することは昔ながらのトルコ系有 力者達の不満を募らせ、専売制で富を得るのは異教徒の商人であり、イスラム教徒トルコ人を犠牲にして皇帝と異教徒の繁栄が築かれてい るように感じる者も多くなってきたようです。実際、メフメット2世の跡を継いだバヤズィッド2世の時代になるとこうした動きへの反動 も見られるようになりますが、メフメット2世の征服活動と建築が帝国の財政をかなり圧迫していたり、政治の中枢から外されたトルコ系 有力者の不満(ハリル・パシャ失脚後、大宰相の地位はほとんどがセルビア出身者が占めています)と言った問題もあり、どうしても内向き にならざるを得なかったようです。

    このような不満を内部の抱えながらもメフメット2世は領土を拡大し、1480年にはヨハネ騎士団が立てこもるロドス島を攻撃しますが、 これは失敗に終わります。しかし彼の軍事活動はとどまることを知らずイタリア方面にも軍隊を送ります。南イタリアに上陸したオ スマン軍はオトラントの町を占領し、さらにイタリア侵攻に乗り出そうとします。メフメット2世も1481年4月に親征の軍をおこし、イス タンブル対岸のウスキュダルにわたって進軍を開始します。この時の遠征を巡っては、メフメット自身が行き先を何も告げぬまま開始され、 彼が死んでしまったために何を目的として遠征したのかは諸説があるようです。ある者は東方を目指す遠征であったと言い、またある者は 前年に大遠征軍を送ったイタリアを目指したと言います。また遠征先が不明であることとともに、メフメット2世が急死したためその死を 巡っても暗殺説などがだされています。しかしこれによってイタリアに遠征していたオスマン軍は呼び返され、イタリアはオスマン軍によ る侵略を免れました。メフメット2世の死によりオスマン帝国による世界帝国建設は一時小休止します(バヤズィッド2世の時代は内向き な時代でした)。しかしこの時代にしかれた中央集権的な路線はその後も引き継がれ、16世紀にはスレイマン大帝のもとでオスマン帝国は 最盛期を迎えることになります。


    (本項目のタネ本)
    鈴木董「オスマン帝国」講談社現代新書、1992年年
    新井政美「オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか」講談社選書メチエ、2002年
    アンドレ・クロー(岩永博(他)訳)「メフメト二世 トルコの征服王」法政大学出版局、1998年
      今回の記事ではこれらの著作を参考にしています。「オスマン帝国」と「オスマンvsヨーロッパ」はどちらも19世紀以前のオスマン帝国 について纏まっている本で、メフメット2世に関してもかなりのページ数を割いて説明しています。「メフメト二世」は「オスマンvs ヨーロッパ」でも参考文献に挙げられている本で、ここのテーマについてより深く突っ込んで書かれています。

    次回は「メ」で終わる人物をとりあげます。

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