前336年、フィリッポス2世は古都アイガイの劇場にてパウサニアスの手で殺害され47年の生涯を閉じた。 フィリッポス2世の暗殺に関しては従来から様々な説が展開されてきたが、その中で多くの研究者が支持 してきた説にフィリッポス暗殺の背後にはオリュンピアスやアレクサンドロスがいたという説がある。当否 はさておき、前337年頃よりフィリッポスとオリュンピアス・アレクサンドロス母子の間に誤解に基づく亀 裂が生じたが、それはフィリッポスが7人目の妻を迎えた事と関係していた。7人目の妻クレオパトラは 突然マケドニア王家の王位継承問題に巻き込まれ、悲劇的な最期を遂げることになるのである。
前337年秋、フィリッポス2世はマケドニア貴族アッタロスの姪クレオパトラを結婚した。その 婚礼の席上で舅となるアッタロスが王国の正統な後継者が生まれるようにと言ったことにアレクサンドロス が激怒しアッタロスに杯を投げつけた。それに対しフィリッポスが剣を抜いて息子に斬りかかろうとして アレクサンドロスに襲いかかろうとしたという。そこでアッタロスはアレクサンドロスを妾の子と言って 侮辱したと伝えられている。しかし果たして正妻と妾という区分が一夫多妻制を行い、王妃という地位が 正式にあったのか疑わしいマケドニアでは可能かというと甚だ疑問である。妾発言の当否はさておき、祝宴 の席上で舅となるアッタロスによる侮辱的発言ないしは騒動があったことは確かであろう。なぜなら婚礼の席の 直後にオリュンピアスとアレクサンドロスは出奔してエペイロスへ行ってしまうからである。
一夫多妻を実施するマケドニアではフィリッポス2世もクレオパトラと結婚する前に6人の妻を迎えていた。
イリュリア人からはアウダタを迎え、娘キュンナをえた(キュンナはエウリュディケーの母となる)。また
エリメイアのデルダスからフィラを迎え、テッサリアのフェライからはニケシポリスを迎えて娘テッサロニキ
が、ラリサのフィリンナからはアリダイオス(後のフィリッポス3世)が生まれたという。さらにエペイロス
からオリュンピアスを迎えてアレクサンドロスが生まれ、トラキアからメーダが嫁いだ。
これらの結婚はすべて
フィリッポスが対外発展をする過程で行われた政略結婚の意味を持つものであった。これまでの結婚で
はアリダイオスは知的障害があり宗教行事はともかく軍事や政治を取り仕切る能力はなく、フィリッポスの息子
の中でフィリッポスが後事を託することが出来る息子はアレクサンドロスのみであった。一夫多妻の宮廷において
後継者となるべき息子を持つオリュンピアスは重きをなす存在であり続けたが、それを揺るがしかねない事態
が前337年に生じたのである。
フィリッポスの7番目の妻クレオパトラはマケドニア貴族アッタロスの姪であり、 どうやら40半ばを過ぎたフィリッポスが年甲斐もなく若い娘に恋をして迎えたのではないかと言われている。 政略結婚としてアッタロスの娘を迎えたと考える説もあるが、アッタロスはパルメニオンの娘婿でもあり、この結婚は、 マケドニア貴族間の関係、特にアンティパトロスとパルメニオンの関係に何らかの影響を生じかねない結婚である。 基本的に慎重に事を運ぶフィリッポスがそのような面倒な状況を意図的に作ろうとするとは少々考えにくいため、 恋愛結婚を想定する方が妥当だと思われる。あとは、自分とアレクサドロスが行うことになっている東征出発前に結婚し、 後継者候補を残しておく必要もあったと言うことは考えられる(東征でアレクサンドロスも自分も死ぬ可能性はある)。 一方、アッタロスにとりこの結婚は王との結びつきを利用して自らの権勢を増す機会としてとらえていたと考えられる。 アッタロスはフィリッポスより7,8歳年上の貴族とされるが、これ以前には歴史の表舞台にはまったく表れない。 しかしこの婚礼の後、前336年にはパルメニオンらと共に小アジア先遣隊の指揮官に任命されているが、恐らく舅と して、マケドニア王家との結びつきを最大限に活用していったのであろう。
クレオパトラとの結婚はオリュンピアス、アレクサンドロス双方にとり己の立場を揺るがしかねないもので
あった。まずオリュンピアスであるが、これまで宮廷で重きをなしていたのは世継ぎとなりうる男子をもうけた
ためである。しかし若い妻を迎えて新たに男子が誕生するとその地位が危うくなる。またこの結婚が恋愛結婚(フィリッポスがクレオパトラに一目惚れ)
で
あったことも彼女にとり心理的圧迫となったであろう。既にフィリッポスとの仲が冷え切っているオリュンピアス
にとり、フィリッポスの愛情を受けるクレオパトラが宮廷にいることは自分の居場所が宮廷からなくなり、他の
5人の妻達と同様表舞台から消えていくことにもなる。このころのオリュンピアスには嫉妬と焦りが募っていった
ようである。
アレクサンドロスにとっても、これまではフィリッポスが遠征する際には国内で摂政の人を任された り、遠征でともに戦ったりすることを通じて後継者と目されるようになっていた。しかし新しい妻クレオパトラから 男子が誕生した場合、王位継承に関してルールが定められていない(あるいはあっても守られた形跡が見られない) マケドニアでは自分の王位継承に関して不安になることは確実である。その不安は祝宴の席におけるアッタロスの 態度によりさらに増幅されたようである。婚礼後に地位を高めていくアッタロスであるが、祝宴の席では不用意にも 自らの野心を漏らしてしまい、それに対してアレクサンドロスの不安は増幅され、やがて母子出奔にいたったようで ある。
それゆえにフィリッポス2世が前336年に暗殺されたとき、それにオリュンピアスとアレクサンドロスが関与していた
と言う説が支持されるのである。フィリッポス暗殺の実行犯パウサニアスはフィリッポスの寵愛を受けていたが、同名
の別人パウサニアスに寵愛が移ると、彼を侮辱した。侮辱に耐えられなかった彼はイリュリア人との戦争の際に敵の
攻撃からフィリッポスをかばい戦死したという。死で己の名誉をあがなったのであった。しかし彼の友人にアッタロスが
おり、アッタロスは復讐に乗り出した。宴会でパウサニアスを酔わせるとラバ追い達に暴行させた。この仕打ちを
フィリッポスに訴え出たがフィリッポスはアッタロスを罰することはできず王の側近中の側近である側近護衛官に取り
立て怒りを和らげようとした。
しかしパウサニアスはおさまらず、怒りの矛先はアッタロスからフィリッポスに向かっ たという。そしてアイガイの劇場にてパウサニアスはフィリッポスを暗殺したのであった。この事件にアレクサンドロス とオリュンピアスが関わったとする伝承もあるが、史料の記述に信用出来ない点があること(アレクサンドロスと パウサニアスの会見)、状況からそのような記述はあり得ないこと(オリュンピアスによるパウサニアス顕彰)、こうした ことから2人の関与は否定されている。ただフィリッポスの暗殺により最大の利益を得たのはこの2人である。
なお、フィリッポスの暗殺後、アッタロスはアレクサンドロスの命令により殺害された。それと同じくして7番目の
妻であったクレオパトラはオリュンピアスにより自殺に追い込まれ、生まれたばかりの娘はオリュンピアスにより殺害された。
オリュンピアスにとり、自らの宮廷内での地位を脅かしたクレオパトラは例え生まれた子供が娘であっても放置しがたい
存在であったため、彼女を殺害したという。そしてマケドニアにおいては王に陰謀を企てた者の血縁の者は共謀者ともども
死刑にするという法があるため(フィロータス事件の際にも取り上げられる法である)、アレクサンドロスも行為の
残虐さを非難しても殺害その物は批判しなかった。自らに敵対するアッタロスの一族を宮廷に残すことは容認しがたか
ったのであろう。
フィリッポス2世の妻として迎えられたばかりに、王位継承を巡る騒動に巻き込まれて悲劇的な最期を遂げる ことになったクレオパトラであるが、彼女は死後にフィリッポス2世とともにヴェルギナの王墓に王の妻として埋葬された ことであろう。ヴェルギナ王墓の第一墳墓から出土した中年男性と若い女性、そして嬰児の遺骨は現在のところ、フィリ ッポス2世とクレオパトラ、彼女の産んだ子供のものであるとされている。(ただし、ヴェルギナ王墓の第二墳墓 の被葬者がフィリッポス2世でない場合の話であるが・・・)彼女を殺害したオリュンピアスが後継者戦争のまっただ中で 処刑され、墓はおろか遺骨すらどうなっているのか分からない状態になっている事と比べれば、死後の扱いに関してだけは クレオパトラの方がオリュンピアスよりもまともにあつかわれているようである。