掲示板にて以下のようなご指摘をいただきました。うちの掲示板は過去ログを残していないのでこのままでは消える可能性があるため、 掲示板の書き込みをそのまま全文掲載させて頂きます。


411 ウクライナのコサックについて コサキスト - 2005/11/04 22:24 -
「ウクライナのコサック」項目中で参考文献として挙げていただいた者のひとりです。 
正直申しまして、よく書けているなと、感心するとともに、
ウクライナのコサックについて関心をもっていただいて、非常にうれしく思いました。
しかしながら、記述中、一箇所だけ、非常に気になる点がございました。

「スラヴ系ウクライナ人のコサックはポーランド、リトアニアから農奴身分からの逃亡や、重税、飢饉、宗教弾圧、刑罰、負債などを逃れるために
ドニエプル川流域へと逃げてきた者たちによって構成されていた。」

という部分ですが、ウクライナのコサックは、ロシアのコサックと違って、基本的に、没落貴族がその根幹をなしていました。
後に見られる、ウクライナ・コサックのエリート意識・貴族意識の強さの原点として、この点は非常に重要になります。
重税、刑罰、負債などの理由により、貴族がコサック化することはあったと推測されますが(あくまで推測であり、史料的な証拠はありません)、
ウクライナのコサック集団中で逃亡農民の要素が強くなるのは、1590年代のコサック反乱が頻発した時期以降のことであり、
また、反乱中にコサック軍に参加した農民たちも、反乱がおさまると、もとの農民生活に戻るパターンが多かったといわれています。
宗教弾圧についても、1596年以降、正教徒の貴族たちが辛酸をなめたのは事実ですが、
それを理由にコサックをバック・アップしたという事実はあっても、コサック化の理由が宗教弾圧であったかどうかという点は、
微妙なニュアンスをもって語らねばなりません。
また、16世紀末ウクライナにおける宗教改革(ユニエイト教会の設立−ローマ法王を頂点にいただく)によって打撃を受けたのは、
税収入等が法王庁に吸い上げられてしまうことになった正教教会の聖職者にほかならず、一般住民にとっては、
典礼は正教のものが維持されたため、その違いをどこまで認識していたかは定かではありません。
逆に言えば、ユニエイト教会設立の意図は、正教典礼の維持によって、その変化を一般住民に認識させず、不満を抱かせない、
という点にあったということができます。

以上、瑣末なことですが、「玉」を目指していただくために、あえてメールさせていただきました。
とはいえ、わたくしもまだ、不確かな部分が多く、これからも一層、精励してまいりたいと思います。

繰り返しになりますが、ウクライナのコサックを取り上げていただきまして、誠にありがとうございます。

(追記:2007年5月25日)

その後、ウクライナ史の概説書(Magocsi,P.L. A History of Ukraine, Univ.of Washington Press, Seatlle, 1996 (3rd.ed.1998))を 調べてみたり、黒海沿岸のステップ地帯を巡る抗争史(Davies,B.L. Warfare,State and Society on the Black Sea Steppe, Routledge, London&NY,2007)をみると、ウクライナのコサックの成立について、都市の住民やGentry層が関わっていると言うことが触れられ ていました。 一方、ザポロジェのコサックについての研究書(March,G.P. Cossacks of the Brotherfood :The Zaporog Kosh of the Dniepr River, Peter Lang, NY,1990)にはその辺りの事情はパラパラと見た限りでは不明ですが…。もうちょっと読み込んでみることにします。


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