ウクライナのコサックたち
〜ヘトマン国家への道〜

ヨーロッパでは三十年戦争が終わって間もない1648年、ウクライナ・コサックの一人ボグダン・フメリニツキーはウクライナ・ コサックたちを結集してポーランドに対して武装蜂起を起こし、ついに国家を作り上げた。しかし彼がポーランドとの争いの 過程でロシアの助けを求めたことが後にウクライナがロシアに併合されるきっかけとなった。ウクライナの歴史上、英雄か裏切り 者か評価が分かれるボグダン・フメリニツキーが属していたウクライナのコサックとはどのようなものであったのか。コサックの 出現からヘトマン国家樹立までの道のりをまとめてみようと思う。

  • ウクライナ・コサックの出現
  • ロシア南方はドン川、ヴォルガ川、ドニエプル川、ヤイク川といった黒海やカスピ海に注ぎ込む大河がいくつも流れる気候 も比較的穏やかな草原(ステップ)地帯であった。ステップ地帯にトルコ系遊牧騎馬民族を中心とするトルコ系コサック集 団が出現し、活発な活動を展開していた。しかしドニエプル川下流域では15世紀から16世紀にかけてスラヴ系ウクライナ 人のコサック集団が形成されていき、15世紀末にはクリミア・ハン国の記録にも彼らについての言及が見られる。スラヴ系 ウクライナ人のコサックはポーランド、リトアニアから農奴身分からの逃亡や、重税、飢饉、宗教弾圧、刑罰、負債などを 逃れるためにドニエプル川流域へと逃げてきた者たちによって構成されていた(*注ウクライナのコサックについては こうした事例は適切ではなく、実は没落貴族がその根幹をなしているとのこと。詳細は こちらを参照)。逃亡した農民たちはそこで生き残るために グループを形成し、追っ手やステップ地帯に先に形成されたトルコ・タタール系コサックの襲撃に対抗するため武装して自 衛した。そして、トルコ・タタール系コサックとの抗争の過程でウクライナ・コサックのタタール化という現象が進んでい った。彼らと対抗する必要があったためにタタールの騎馬戦術や軍事技術を学んでいっただけではなくタタールの言 葉や風習までもとりいれていったようで、コサックの部隊長を示す「アタマン」は元来トルコ語であるし、一部分を残 して頭髪を刈り上げる独特の髪型や編み方もタタールの風習によるものであるといわれている。

    そしてウクライナ・コサックはその力を強めて活発な活動を見せるようになり、16世紀前半になるとしばしばクリミア・ハン国 の領土内でウクライナ・コサックが襲撃活動を活発に行っている様子が記録に残されている。彼らはドニエプル川中流・下流に 「コサック町」を作ってくらしていたが、16世紀半ばになるとさらに大きな拠点としてドニエプル川下流の川中島にシーチ(本営) をつくった。ウクライナ・コサックの遠征にはしばしばリトアニア大公国の貴族も参加していたがそうした貴族の一人にドミトロ・ ヴィシネヴェツキーという人物がおり、彼はコサック軍団を組織化するのに重要な役割を果たしたという。彼がドニエプル川の 川中島に要塞を作って、それを根拠地とするようになったのである。それがザボロージエであり、ザボロージエがウクライナ・コサック の中心地となっていく。ザボロージエ一帯はポーランド、リトアニア、クリミア・ハン国のいずれからも遠く離れた場所であり、 深い森と深く早いドニエプル川の流れのおかげで安全な場所となっていたためである。

  • コサック社会
  • 初期のコサック社会は平等な社会であり、すべてのコサックがラーダと呼ばれる集会に参加して意思表示をする権利をもち、 リーダーのアタマンもラーダで選出され、コサック社会で起こった様々な問題はアタマンや長老が解決したという。初期のコサ ック社会は毎年のアタマンの選挙、全員集会の合議制といった平等な仕組みをもち、経済面でも平等主義的な社会であったと言 われている。ザボロージェの本営の構成員は3000名ほどの成年男子(時代によってはもっと多くなる)で、家族はシーチの外に 住んでいた。コサックたちの生活は平時は農業を営み、春と夏にはザボロージエのシーチに終結してそこを拠点として遠征、漁労 に従事したという。冬になると多くの者たちは周辺の村や町へ移りシーチには数百人ほどが残っていたという。コサックに加わる 条件は勇気を示すことで、その方法の一つは深く流れの速いドニエプル川を泳いでわたりシーチに泳ぎ着くことであった。 後になると、それに加えてコサックが夏に行うオスマン帝国領への遠征に1度参加してから正式メンバーとするようになった。 メンバーの前歴はいっさい関係なく貴族であれ農民であれ平等に扱われた。そして本営内でのメンバー同士の争いは禁じられ、 殺人者は厳しく処罰された。

    ウクライナのコサックたちは政治勢力として強力な力を持つようになり、彼らは商人や使節の護衛を買って出たり自ら商人と して活動したが、やがて彼らの活動は軍事遠征が中心になっていく。彼らはチャイカとよばれる軽量のカヌーを用いてドニエプル 川を下って黒海北岸を襲撃し、さらには黒海を横断して黒海沿岸に上陸して沿岸部の都市を荒らし回った。彼らは陸路の遠征も 行い、コサック騎兵の戦闘力の高さを遺憾なく発揮した。それ故、コサック騎兵の布陣、隊列、戦闘方法、連絡方法などは周辺 諸国が騎兵戦の手本としてまねするようになったという。17世紀初頭にはウクライナ・コサックはドニエプル川流域の一大勢力 として注目されるようになるが、その過程で彼らを利用しようとする勢力も現れ、特にポーランドはコサックを頻繁に利用したと いう。国内では貴族の力が強いポーランドにおいて戦争をするために国王は議会の承認を得なくてはならなかったが、貴族の支配 する議会はなかなか戦争を認めなかったため、即戦力としてコサックを利用した。元来コサックはポーランドやリトアニアから 逃亡した者たちであり、本来ならば国内へと連れ戻さねばならない存在であったが現実には彼らの軍事力が強力だったためコサック の存在をそのまま認め、利用する方針をとったのであった。そして1570年に「登録コサック」という形で実現されることになる。 1569年にポーランドとリトアニアが連合すると、彼らは早速ウクライナ・コサックを統制下におこうとした。ポーランド王は コサックを雇い入れて給与を与え、課税免除の特権を与えた。ポーランドはコサックに対して自由を認め、彼らの封建的義務を 免除した。そして彼らの名前を登録し、登録された者は登録コサックと呼ばれた。のちのポーランドはモスクワとの戦いに備え 登録コサックの数を増やし、ポーランド貴族の指揮下においた。ポーランド王にとってはコサックをある程度自らの管理下に置 くことができるとともに安い軍事力を確保することに成功した。

  • コサック集団の変革
  • 1570年にはじめて登録された登録コサックは300人であったが、1578年にはモスクワとの戦争に備えて500人に登録コサックを 増加したのをきっかけに登録コサックの数は徐々に増加し、1589年には3000名の登録コサックを抱えるようになった。登録コサック はドニエプル川上流に土地を与えられて暮らすことになり、彼らの本拠地はペレヤスラフの南にあるテレフテリミウに定められた。 彼らはポーランド貴族の指揮下に入ったが、登録コサック軍の直接の指揮や裁判をおこなう「スタルシー(最高責任者)」、コサック の管理を担当する書記官はポーランド政府により任命されていた。しかし登録数が限られていたことから、登録数の増加がコサック 側の要求となり、王とコサックの間の争点となった。また登録コサックは特権を持ち、土地を所有するようになるとともにポーランド 国内で貴族と同じ身分になっていった。登録コサックの出現は元来平等であったコサック社会においてもてる者と持たざる者の階層 分化を生み出していった。登録コサック制度が成立する過程でポーランド政府はドニエプル川下流域のコサック集団と交渉し、その 結果登録コサック制度が作られたが、ドニエプル川下流域に住む登録されなかった大多数のコサックたちと上流の登録コサックは 当初は仲間意識を持っていたがやがて両者は持てる者と持たざる者に分かれていくことになる。その他にもポーランドにとって登録 コサックは戦時には多い方がよいが、平時には経済的負担、オスマン帝国やクリミア汗国からの不信と抗議を招くなど問題が多くな っていた。17世紀前半のポーランドとコサックの関係は緊張が高まっていく時期であった。

    このようにポーランドとの対立やコサック集団内部の変化がおきていた17世紀前半、ウクライナのコサックに一人の指導者が現れ、 ウクライナのコサックは一つの民族集団のような物に変化していったとされる。その指導者こそフメリニツキー登場以前のコサック 社会でもっとも重要な人物であったペトロ・サハイダーチヌイである。ウクライナの貴族の家に生まれた彼はコサック集団に身を 投じると数々の戦いで功をたてた。コンスタンティノープル攻撃(1615)、奴隷貿易の拠点となっていたカーファ襲撃とキリスト 教徒奴隷の解放(1616)、ポーランドとロシアの戦い(1617、1618)で活躍し、ポーランド政府はその功績を認めた。さらに ポーランドとオスマン帝国の戦争ではポーランド王の要請に応えてコサックの大軍勢を動員し、1621年のホティンの戦いでオス マン帝国軍を敗退させた。このような軍事的成功もさることながら、サハイダーチヌイの重要な功績として、ウクライナのコサック 集団の文化、教育、信仰面での活動、キエフの復興といったことがあげられる。

    サハイダーチヌイは文化・正教の振興のため、当時はすっかり寂れて寒村となっていたキエフに住居を定めるとさっそく町の 再建に取りかかり、キエフの町に教会を次々と再建するとともにキエフに集まってきた正教関係の聖職者を保護した。17世紀 初頭のウクライナでは正教の主教は空席であったが、1620年に府主教と5人の主教も新たに任命され、カトリックに対抗した。 キエフは再び東欧の文化の一大中心地となるとともに、当時正教徒を圧迫していたカトリック、イエズス会の圧力から解放される こととなった。またキエフにはキエフ・モヒラ・コレギウム(キエフ神学校。のちのキエフ・モヒラ・アカデミー)が設立され、 そこでは正教の研究を中心に学問活動が行われた。サハイダーチヌイおよびウクライナ・コサックは教会や学校を保護するようになり、 コサックたちは息子をキエフの学校へと送って教育を受けさせ、アカデミー出身者がコサック集団のエリート層を占めていく。 以上のようなサハイダーチヌイによる文化・宗教の振興策により、ウクライナのコサックたちは正教信仰をその核に持つ集団として まとまり、単なる浮浪者・冒険野郎の群れや傭兵団ではない、まとまりのある集団へ変貌していったというところが一般的な理解の ようである。ただし、学校に息子を通わせる余裕のある層がコサック社会のどのあたりまで及ぶのか、またサハイダーチヌイの 文化政策が果たしてコサック集団のどのあたりにまで影響を与えたのかは定かでないが。

  • フメリニツキーとヘトマン国家
  • 17世紀前半、ウクライナのコサック集団は一つの民族集団のようなものへと変貌を遂げていったが、彼らを取り巻く状況や彼ら自身 の問題は相変わらず続いていた。ポーランドとの対立と圧迫、コサック社会内部の不満はあいかわらずであった。登録コサックの数 はサハイダーチヌイの勝利の結果3000から5000に増加し、1630年には8000人にまで増加した。しかしザポロージエの本営付近に は6万人のコサックが終結するようになっており、非登録コサックは増加し続けていた。新たな本営を築くことは禁じられ、海賊 行為も勝手に行うことは認められず、カトリックの圧力が強まっていった。そのような中で現れたのがフメリニツキーであった。 フメリニツキー自身の出自は登録コサックであり、モヒラ・アカデミーで教育を受けたコサックのエリートであった。しかし1637年 にポーランド政府に対するコサックの反乱が起きたときそれに連座して隊長職から更迭されてしまった。またポーランドによるコサッ ク圧迫は激しく、登録コサックの領地没収や略奪が続発し、フメリニツキーもその犠牲となった。領地をおそわれ家を焼かれ、我が子 を失った彼はザポロージエの本営に逃げ込み、コサックたちをたきつけてポーランドに対する反乱を起こしたのである。

    フメリニツキーの呼びかけに対し、当時ドニエプル川流域に進出してきたポーランド貴族により農奴化されそうになっていた農民や 反乱鎮圧後に権利を制限されるようになって不満を募らせていたコサックたちが応じ、さらにフメリニツキーは長年の敵だった クリミア・タタールとの同盟を結んでポーランドに備えた。そして1648年、コサックたちはポーランドと戦ってこれに勝利し、 フメリニツキーはさらに自分の所領を取り戻した。こうして「フメリニツキーの乱」が始まったのである。同年夏には4万のポー ランド軍を破り、クリスマスにキエフに入ったフメリニツキーは「民族の解放者」「正教信仰の守護者」として歓迎された。翌年 はじめにポーランドとフメリニツキーの間で交渉が行われ、登録コサックを2万人に増やすことやウクライナにおける正教信仰を 認めることなどの譲歩があったが結局決裂し、再び戦闘が再開された。1649年の戦闘もフメリニツキーの勝利に終わり、登録コサ ックを4万人にすることで協定が成立した。そしてフメリニツキーの所領のあるチヒリンを中心に政府が作られ、いわゆる「ヘトマン 国家」が作られていくことになる。

    ヘトマン国家はドニエプル川の左右両岸、約25万平方キロメートルの地域を支配し、約150万の人々が暮らしていた。その領域は 連隊ごとに分けられていた。首都ははじめはチヒリン(フメルニツキーの領地)であったが、その後は各地を転々とすることになる。 政府の長はヘトマン(頭領)であり、コサックの全体集会である軍人総会と長老会議が存在した。しかしコサックの数が増加すると 軍人総会は余り開かれなくなり、フメリニツキーも含めてヘトマンの中には軍人総会を最高議決機関としては認めない者もいた。 ヘトマンは国家元首・軍司令官であり、行政・司法・軍事機構の長であった。長老会議は通常は年2回開催され、財政に関する権限 を持っていたほかヘトマンへの助言を行った。その他に軍事総局(ヘトマンの命令を遂行する機関)、総長老、軍事総法廷といった 中央組織が存在した。ただし、この国家には憲法は存在せず、ヘトマンの性格や国内の力関係、外部との関係によって色々な変化が あったという。このような体制を持つヘトマン国家はフメリニツキー以降、18世紀半ばまで続いたのであった。

  • コサックの黄昏
  • しかし、ヘトマン国家は樹立直後から様々な問題を抱えることとなった。戦乱の中で逃亡してくる農奴の数は増加し、それとともに 新しいコサックの数も増加していった。登録を希望するコサックの数は30万〜40万にも達していたという。彼らの不満はポーランドと 妥協したフメリニツキーに向かい、フメリニツキーは国内の反乱鎮圧に追われることになる。一方ポーランドは体制を立て直し、1650 年にはウクライナとのポーランドの戦いが再開された。そしてこの年の6月のベレステチコの戦いでフメルニツキーは大敗を喫し、 これにより登録コサックの数を2万人に削減し、ヘトマンの支配領域もキエフ州のみとするという休戦協定が結ばれた。それに満足 できないフメルニツキーはその後もポーランドと戦い、戦闘では勝利するものの状況は変わらず、両者とも疲弊していった。ベレス テチコの敗戦の原因はクリミア・タタールが突然裏切ったことが原因であり、クリミア・タタールをあてにできなくなったフメル ニツキーは協力相手をもとめてオスマン帝国やモルダヴィアなどと交渉し、さらにはクロムウェルとも接触したと言われている。 しかしなかなかうまくいかず、ついに同じ正教国のロマノフ朝に助けを求めることになる。

    そして1654年にペレヤスラフ協定がロマノフ朝との間で結ばれ、この協定はコサックの自治が認められる代わりにロシアのツァーリ の宗主権を認めたものとして解釈されている。ただし、この協定は唯一の選択肢だったわけではなく、フメリニツキーは交渉中も他国 との同盟の可能性を探っていた。協定締結後、自治を認めるとしながらもロシアは色々と介入し、ロシアとフメリニツキーの間は 余りうまくいかなくなってきたようである。そして、1656年にはロシアはポーランドと講和を結んでしまい、それを知ったフメリニ ツキーは協定違反を非難する手紙をロシアに送るとともに、独自に動いてトランシルヴァニアとスウェーデンと同盟を結んでポーラン ドを攻撃するが失敗し、それからまもなくフメリニツキーは死んでしまった。そして、1667年のロシアとポーランドの講和条約締結 とともにペレスヤラフ協定は破棄されてしまい、ヘトマン国家はドニエプル川左岸と右岸で分けられ、右岸はポーランド領、左岸は ロシア領となった。

    その後ヘトマン国家はポーランドとロシアの宗主権下に置かれ、ポーランドの支配する右岸では1700年にヘトマン体制が廃され、 ポーランドの支配下に入った。一方の左岸はロシアの宗主権下に置かれ、1764年までヘトマン国家による自治が認められたが、 徐々にロシアによる自治の制限が強まっていった。そのようななかでマゼッパが18世紀初めにロシアからの自立を図るが敗北し、 失敗した。そして1764年にヘトマン体制は廃止され、さらに1775年にはザボロージエの本営も破壊、1782年には連隊制度も廃止 された。こうしてコサックによる独立国家は消滅し、それとともにウクライナ・コサックの自由や平等も失われたのであった。

    (参考文献)
    伊東孝之・井内敏夫・中井和夫(編)「ポーランド・ウクライナ・バルト史」(世界各国史、山川出版社、1998年)
    黒川祐次「物語ウクライナの歴史」(中央公論新社、2002年)
    栗原典子“ウクライナの登録コサック制度 ウクライナ=コサックの集団意識によせて”「スラヴ文化研究」1号(2001年)125頁〜135頁

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