銀盾隊


エウメネスがアンティゴノスと戦った時、彼の配下においてもっとも優れた歩兵部隊として「銀盾隊」という部隊が存在 したことがしられています。しかし彼らはエウメネスの指揮下で戦っているにもかかわらず、決してエウメネスに従順な 存在ではなく、最終的にエウメネスに破滅をもたらす存在となります。「銀盾隊」とはかつてアレクサンドロス大王の近衛歩兵 であったヒュパスピスタイがその名を変えた部隊ですが、「銀盾隊」はいつ頃から編成された部隊であったのか、そして彼らは どのような性格を持つ部隊であったのかをまとめてみることにします。

  • 銀盾隊の成り立ち
  • 「銀盾隊」という名を得る前、マケドニア軍の近衛歩兵部隊はアレクサンドロス大王の東征中はヒュパスピスタイ(盾持ち)と 呼ばれていました。フィリッポス2世の時代に軍制改革によりマケドニア軍は大幅に強化されますが、フィリッポスの軍隊には 地域ごとに動員される兵士の他に全国から優秀なものを選抜して編成され、戦いでは王の側で戦う部隊が存在していました。 フィリッポス2世の時代にはこの選抜編成された近衛歩兵部隊が「ペゼタイロイ」と呼ばれていましたが、アレクサンドロス大王 の時代になると「ペゼタイロイ」はマケドニア密集歩兵部隊の事を指すようになり、近衛歩兵部隊はヒュパスピスタイと呼ばれて いました。ヒュパスピスタイが名を改めたものが「銀盾隊」です。

    「銀盾隊」の編成時期は定かではありませんが銀盾隊と関係がありそうな記述はアレクサンドロスのインド遠征に関する箇所の中に 見られます。まず、インド遠征に取りかかるために武具を飾り立てるとき、盾に銀の板を張り付けたという記述がクルティウスと ユスティヌスという俗伝系史料に見られますが、その記述内容をみると特定の部隊だけでなく軍全体に対してそのようなことを行った ということが書かれています。一方、クルティウスには将兵達が進軍を拒否してアレクサンドロスが引き返すことを決断したときに すっかりすり切れた武具を捨て金銀で飾られた新しい武具で飾るという記述がみられます。これらの俗伝系史料に見られる記述の 他にアレクサンドロス大王存命中の「銀盾隊」に関連する記述として、アリアノスにはオピス騒擾事件のときにアレクサンドロス がペルシア人達に与えたマケドニア人部隊の名称の中に「銀盾隊」という言葉が現れます。

    クルティウスやユスティヌスの記述は連戦連勝の幸運によりアレクサンドロスが毒されて暴君と化し堕落していったという筋立て で書かれており、クルティウスの序盤では“鉄と青銅で輝いていた”マケドニア軍の行軍と非常に華美なペルシア軍の行軍が対比 されています。またユスティヌスでも巨大で武器の美しいペルシア軍に驚くマケドニア軍に対してアレクサンドロスが勝利は飾りで なく鉄刀の力で得られるという旨の訓辞をたれた箇所があります。アレクサンドロスが徐々に堕落・退廃の道を歩むかのように描く 傾向がある両者の記述のため、全軍を金銀で飾り立てたという部分は誇張や文学的修辞ではないかとも思われますが、東征を続ける ために新たに武器が送られたことは確かなようです。そのときに一部の兵士達の装備を美々しく飾り立てられ、それと同時に近衛歩兵 であるヒュパスピスタイたちが「銀盾隊」となったようです。

  • 「銀盾隊」の性格
  • アレクサンドロス大王の近衛歩兵部隊を起源とする「銀盾隊」ですが、彼らについてはマケドニア人兵士達の中で非常に優秀な 部隊であるという評価もある一方であまり信用できないという事もあり、さらには傭兵に相通じる気質を持っているということ がたびたび指摘されています。

    彼らは「銀盾隊」と名乗る前、ヒュパスピスタイと呼ばれていた頃はアレクサンドロスの東征中は会戦形式の戦いでは密集歩兵と して最右翼で戦っただけでなく、弓兵や軽装のアグリアネス人部隊と組み合わせて強行軍の奇襲作戦などにたびたび用いられており、 東征中の様々な作戦活動にも対応できるだけの力量を持った部隊でした。その戦闘での力量は年老いてもなお盛んであり、彼らが 優秀な兵士であると言うことはエウメネスとアンティゴノスが戦ったパラエタケネ、ガビエネ両会戦において彼らがアンティゴノス 軍の歩兵部隊を圧倒したと言うことからも明らかです。

    しかしその一方で「銀盾隊」に対してはあまり信用のおける部隊ではないという評価があることも確かで、彼らは直属の指揮官の 言うこと以外はあまり聞かないという所があり、エウメネスと接触する前まではキリキアにとどめられていたようです。 「銀盾隊」の指揮官アンティゲネス(ペルディッカスの暗殺に関与している)はペルディッカスの死後開かれたトリパラデイソスの 会議でスシアナ太守に任命されるとともに「もっとも反抗的な兵士達3000人」が任されています。また、会議の後でアンティゲネスは スサからキュインダ(キリキアの一都市)に財貨を運ぶ任務を任され、そのときに「反抗的な兵士」達を率いてスサからキュインダに 財貨を運んでいったようです。その後エウメネスがキリキアに入ってアンティゲネスとテウタモスおよび「銀盾隊」と接触していること から、アンティゲネスに任された「反抗的な兵士」というものは銀盾隊のことを指しているようです。トリパラデイソスの会議では アンティゴノスが帝国軍総司令官としてほとんどの軍を支配下に納めましたが、「銀盾隊」は信用できないとしてこれを遠ざけた ようです。

    こうして、キリキアにおいて独自の動きをとるようになった「銀盾隊」ですが、アンティパトロスの死後の情勢の変化の結果 彼らは後継者戦争の表舞台に登場することになります。アンティパトロスの死後、ポリュペルコン対カッサンドロス・アンティゴノス の戦いが激化し、ポリュペルコンはオリュンピアスに帰国を要請し、オリュンピアスはエウメネスを頼ることになります。そして、 この時にエウメネスはポリュペルコンからアンティゴノス追討の命を受け、「銀盾隊」の指揮権を与えられます。しかし彼らは 王や摂政の命令であってもエウメネスにはなかなか従わず、エウメネスは彼らをなだめすかして従わせることに苦労することに なります。当時、「銀盾隊」の指揮官であったアンティゲネスとテウタモスは王や摂政の命令ではあってもエウメネスの指揮下で 戦うことをよしとせず、結局エウメネスはアレクサンドロス大王の名の下に天幕を張り、そこに玉座と冠、錫杖をおいてあたかも アレクサンドロスの元に集っているような演出を行って何とか彼らを集めて従わせたそうです。

    それでも「銀盾隊」はエウメネスに対しては最後まで完全には従わず、ガビエネの戦いの直前にはアンティゲネスとテウタモスが エウメネス殺害の陰謀をたくらみ、ガビエネの戦いの後、彼らは戦闘中にとられた荷物と家族を取り返すためにエウメネスを裏切 ることになるのです。マケドニア人兵士達が荷物に対するこだわりという傭兵によく見られる特徴を見せるようになるのは後継者 戦争の時代に時々見られる現象のようですが、既にアレクサンドロスの東征の後半よりマケドニア人の兵士達は富と戦利品の約束 をしなければついてこない(最終的にはそれでさえもついてこなくなっている)状態でした。さらにマケドニア人の兵士であって も、自分たちの部隊を直接率いている指揮官に対して忠実でもその上の将軍に対してはそれほど忠実でないという傾向がトリパラ デイソスの会議でアンティパトロスは兵士達の騒擾で死にかけたり、帝国軍司令官となったアンティゴノスに対して反乱を起こした りしているところからも窺えることのようです。個人の財に対するこだわりや直属の指揮官に対する忠誠を重視するところは傭兵 に相通じるものがあるようです。

  • その後の銀盾隊
  • このように、後継者戦争のなかで独自の動きを見せていた「銀盾隊」ですが、エウメネスがアンティゴノスに敗れた後の彼らの 扱いには色々と神経を使ったようです。自分たちの都合で全軍の総司令官を裏切る「銀盾隊」に対して、アンティゴノスがとった 行動は彼らを遠隔地へと送ることでした。一部はアラコシア太守シビュルテオスの元に送り、そこの守備隊として使ったことが 判明しています。このころ、インドではチャンドラグプタがマウルヤ朝を建国するなど、東方の情勢が色々と動いていると言う ことを考えると、当時のマケドニア人部隊の中でもっとも優れた戦力である「銀盾隊」を辺境に配置することは辺境防衛という 点から見ると非常に理にかなっていますが、一方でアンティゴノスの野心は東方より地中海に集中しているということが最近の 研究では強く指摘されています。もしそうであるなら、やはりアンティゴノスの「銀盾隊」に対する処置は信用ならざるものを 遠ざけるという意図が強かったのではないかと思われます。こうしてマケドニア人部隊最強の「銀盾隊」は歴史記録からは姿を 消していくことになります。東征に出発してからついに故郷に帰ることなく銀盾隊の兵士達はその生涯を終えていったのでしょう。

      (追記:2021年5月5日)

      Roisman,J. Alexander’s Veterans and the Early Wars of the Successors (University of Texas Press,Austin,2012)によると、銀盾隊が活躍している描写はたしかに見られますが、彼らの存在が戦の勝利を決定づけるほどの ものであったかというとどうもそうではなかったということが指摘されています。部隊配置でもエウメネスの盾隊が右翼にいて銀盾隊 はそこにいないということなどからそのように考えているようです。また、すべてのマケドニア人将兵がエウメネスを裏切りアンティゴノス に引き渡すことに同意していたわけでもなさそうです


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