後継者戦争前のエウメネスの職歴


前323年にアレクサンドロスが死去し、部将たちの間で権力闘争が激化して後継者戦争が勃発する。そして後継者戦争の勃発と ともにエウメネスの名前は歴史書に多く登場するようになる。漫画「ヒストリエ」のカバーの言葉を借りると「記録する側」から 「記録される側」へと躍り出たというわけである。では、今までは記録を残す側だったエウメネスはどのような地位につき、どの ようなことを主な仕事としていたのであろうか。

  • 前342年頃より:フィリッポス2世に書記官として仕える。
  • フィリッポス2世の時代にマケドニアにおいても書記官のような職務がアケメネス朝の影響により整えられていったと考えられる。 近代国家のような整備された官僚制を持たないマケドニア王国において王が国事全般を取り仕切っており、王の書記官を勤める ということは公私様々な文章の作成と管理をおこなうことであり、その過程で王の発する命令や書状のやりとりにも様々な形で関与するため、 結果として国事全般に関わっていくことになったであろう。そのため、エウメネスも宮廷では大きな力を持つことができたはずであるが、 実際に持っていたかどうかはよく分からない。フィリッポスに仕えてきた重臣たちが多数いるなかに、いきなり割ってはいるのは難しい ようにおもえるが、クラテロスやアンティゴノス、レオンナトスなどなどマケドニアの有力者がエウメネスの友人とされているのを みると、案外宮廷の有力者も彼と仲良くしておくことが重要とみていたのかもしれない。

  • 前336年〜前323年:アレクサンドロス大王に仕える。
  • フィリッポス2世が暗殺され、息子のアレクサンドロスが王位を継ぐとエウメネスもアレクサンドロスのもとでフィリッポスの時代 と同様の地位を占めていた。エウメネスはマケドニアでは王の支持を得る以外に自らの地位を保つすべは持っていなかったため新王を 速やかに支持したと考えられる。アレクサンドロスのエウメネスは書記官を勤めていたが、アレクサンドロスがペルシア帝国を征服し、 広大な領土を支配するうえでマケドニアの書記官の仕組みをさらに発展させる必要があったことは想像するに難くない。彼は征服した ペルシア帝国の統治の仕組みをそのまま引き継いでいったが、書記のしくみもペルシアのより進んだやり方を取り入れたり人員の増加 もしていったと考えられる。エウメネスは以前よりも規模が拡大しなおかつ整備された書記官を統括する地位についたとされる。

    書記としてフィリッポス2世とアレクサンドロス大王に仕えたエウメネスだが、後継者戦争の時期には軍事面での活躍が目立って くる。フィリッポス2世の治世からアレクサンドロスの東征の時期にエウメネスが実際に軍を率いたという記録はほとんど見られず、 その軍事活動についてもインドのサンガラという町を攻撃し占領したときに、他の都市に帰順を呼びかけることを主たる目的とした 騎兵300騎の指揮を任せたという物であり、軍事面でどのような活躍をしたのかは分からない。ただし、前324年にヘファイスティオン が死んだ後、ヘファイスティオンの後任にペルディッカスが任命されたときにエウメネスがペルディッカスの騎兵隊(ヒッパルキア) の指揮官の地位を引き継いでる。騎兵隊の指揮官に任命されると言うことは、単なる書記官としての仕事しかできない者を任命する とは考えにくく、将兵が戦死・負傷して指揮官クラスでも人材が足りなくなってきたと考えられるインド遠征中の頃からは軍事面でも それなりの活躍はしていたのではないかと思われる。

  • 後継者戦争勃発直前期:カッパドキア太守となる
  • アレクサンドロス大王が前323年に死去すると、征服地の分割、王位継承者の問題を巡って部将間の対立が起きる。王位継承をめぐる 歩兵と騎兵の対立の際には彼は自分がマケドニア人でないことを理由に中立の立場をとり、王が決まった後で太守領の配分が定められ たときにはカッパドキア、トラペザス、パフラゴニアと言った地域の太守に任命された。ただし王位を巡る対立の際に彼はバビロンに 残って調停活動を行っているが実際にはペルディッカスら騎兵側の側にたって活動していたようである。また、エウメネスに太守領として 与えられたカッパドキアなどの地域はアリアラテースという王が支配している地域であり、完全にマケドニアの勢力下に置かれたいた わけではなかった。そのためこの地域を制圧するためにエウメネスは始めはレオンナトスとアンティゴノスの助けを借りる予定であった。 しかしアンティゴノスはペルディッカスがよこした命令に従わず、レオンナトスもラミア戦争で劣勢に立たされたアンティパトロスの救援 に向かってしまったために、エウメネスはペルディッカスの力を借りることとなり、結局彼の力を借りてこれらの地域を制圧したという。

    エウメネスの太守職就任は前333年よりプリュギア太守を勤め、小アジアで大きな力を持っていたアンティゴノスの力を押さえようと いう意図をもつことは想像するに難くない。カッパドキアはアレクサンドロスの東征によって完全に征服されたわけではなく、南部は マケドニアの支配下にはいり北部はそのまま残され、アレクサンドロス死去の時点ではアリアラテースが支配していた。またアンティゴノス はプリュギア太守のほかにリュキアなど隣接する他の太守領も支配下に置くなど小アジアで大きな力を持っていた。その間アリアラテース とアンティゴノスの争いがあったという話は特になく、安定した状態を保っていたようである。エウメネスのカッパドキア太守職就任は 10年間にわたり特に目立った争いも無かった小アジアの現状を変更するものであった。アンティゴノスがエウメネスのカッパドキア制圧 に協力的でなかったのもこうしたことが関係するという。そしてペルディッカスはエウメネスに支配を任せ、エウメネスは以後カッパド キア太守として地方の諸都市を友人たちに委ね、行政官や守備隊長、裁判官を自分の望むように任命していった。ペルディッカスは エジプトではプトレマイオスとクレオメネスの2人に統治を任せ、権力の分散化を図っているが、カッパドキアではエウメネス一人 にすべてを任せているように見える。こうして太守となったエウメネスは後継者戦争初期の段階ではペルディッカス側について戦う ことになるのである。


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