エウメネスの戦い(1)
〜ヘレスポントスからノラまで〜


後継者戦争の時代、エウメネスは自ら軍を率いてクラテロスやアンティゴノスたちと戦いました。元来は書記官であった にもかかわらず、エウメネスには武将としての才能もあり、後継者戦争時代にはアレクサンドロスのもとで数々の手柄を立てた 武将達と互角以上の戦いを演じました。本コーナーではエウメネスが軍を率いて戦った数々の戦いについてまとめていくことに します。

  • ヘレスポントス近郊における戦い

  • (それまでの状況)

    エウメネスが後継者戦争において自ら大軍を率いて戦った事例としてまず取り上げるべき戦いは、前320年(前321年説も)に ヘレスポントス近郊で起きたクラテロス・ネオプトレモス連合軍との戦いでしょう。戦いが始まるまでの経緯をまずまとめると、 アンティパトロスとクラテロスがヨーロッパからアジアへ渡ってくるという情報を聞いたペルディッカスがカッパドキア太守の エウメネスを指揮官に任命した事から始めた方がよいようです。ペルディッカス自身はエジプトのプトレマイオスに対し遠征し、 エウメネスを総司令官とし、アルケタスとネオプトレモスを配下に加えた軍勢を以てアンティパトロスとクラテロスに当たらせよう としました。しかしここで当初はともに進軍するはずであったアルケタスが進軍を拒み、さらにネオプトレモスが裏切るという事態 が発生します。結局アルケタスは離脱し、ネオプトレモスはエウメネスと争って敗れた挙げ句クラテロスのもとに身を寄せて救援を 要請します。そして、クラテロスはプトレマイオスを支援するためにアンティパトロスを先にキリキアへ向けて送り出すと、自らは ネオプトレモスとともに進軍し、ついにエウメネスとの戦いが始まることになります。

    (対クラテロス対策)

    こうしてエウメネスはクラテロス・ネオプトレモス連合軍と戦うことになりましたが、大きな問題がありました。それは相手の 指揮官がクラテロスであると言うことです。クラテロスはアレクサンドロス大王の東征において活躍した将軍であり、東征途中 からは副将格として活動していましたが、彼はマケドニア人兵士達の間で非常に人気の高い将軍でした。理由としては、東征の 過程でアレクサンドロスが東方協調路線を打ち出す中でも彼はアレクサンドロスの不興を買うこともおそれずにあくまでマケド ニアの伝統的な習慣を変えず、それを守ったと多くの兵士達が信じていたと言うことが挙げられます。そのため、クラテロスの かぶる帽子が見えただけでもマケドニア人達は武器を取って彼に付き従うとまで言われたほどであり、事実将兵が寝返ることを おそれたアルケタスはエウメネスとともに従軍することを拒否したほどでした。

    このような人物を相手に戦わねばならなくなったエウメネスが打った手は、敵の指揮官がクラテロスであることをいっさい伝えず、 自分たちが戦う相手はネオプトレモスであると知らせることでした。こうすることによりクラテロスが相手だと言うことで兵士 達が突然寝返るという心配はしないで済むようになります。しかしそれだけではなく実際の軍の布陣でもクラテロス対策は徹底し ていました。エウメネスはクラテロスと対峙することになる部隊にはマケドニア人はいっさい配置せずに外国人部隊のみで固め、 しかも指揮官達には目の前に敵が現れたら全速力で突撃して敵に宣戦布告や物を言ったりする時間をいっさい与えるなと厳命します。 こうしてエウメネスは自軍から敵軍へ反旗を翻す心配がないように備えて戦いを行ったのです。

    (戦いの展開)

    このようにしてクラテロス・ネオプトレモス連合軍を迎え撃ったエウメネスですが、両軍の兵力についてもまとめておきます。 まず攻めてきたクラテロス・ネオプトレモス連合軍にはマケドニア密集歩兵部隊を主とする2万の歩兵部隊と2000騎の騎兵が いました。そしてクラテロスは右翼、ネオプトレモスは左翼の指揮を執っていました。一方のエウメネスの軍勢はあらゆる種族 からなる歩兵2万、騎兵5000騎を率い、自らは騎兵の選抜部隊300騎を率いて右翼に陣取り、左翼には外国人騎兵部隊を配置 してクラテロスに備えました。

    そして両軍の激突はエウメネス側による急襲によって始まります。エウメネス自ら率いる300騎の騎兵がネオプトレモスのほう へと突撃し、クラテロスはネオプトレモスがマケドニア兵が自分の側につくという事を信じていたために驚きますがすぐさま 軍を動かして応戦します。歩兵隊が進むより先に両軍の騎兵同士が激突し、クラテロスは善戦したもののトラキア騎兵に回り込 まれて攻撃され、馬から落ちて戦死します。彼が死ぬとともに右翼の騎兵隊は潰走して後退していきます。一方左翼ではエウメ ネスとネオプトレモスが激突し、両者は激しく斬り合った末にネオプトレモスはエウメネスに討たれます。また、エウメネス に続いて他の騎兵隊もネオプトレモス軍左翼騎兵を撃破します。エウメネス軍によりクラテロス・ネオプトレモス軍の右翼左翼 の騎兵隊は撃破されて退き、歩兵部隊も両翼を破られたこともあり結局後退を余儀なくされます。そしてエウメネスはトランペット をならして戦いが終わったことを告げ、死者を埋葬するとともに、追いつめていた敵方のマケドニア兵達に降伏を呼びかけます。 こうしてヘレスポントス近郊の戦いはエウメネスの勝利に終わりました。両軍ともに両翼に騎兵隊を並べて戦われたこの戦闘では 騎兵戦力に勝るエウメネス軍がクラテロス・ネオプトレモス軍を打ち破りました。この戦いよりかなり前、エウメネスはアルメニア 遠征を行う前にカッパドキアの現地住民を騎兵に組み込んでいますが、そのような形で養われた騎兵戦力がこの戦いでも役に立った ようです。

  • アンティゴノスとの戦い(1)〜ノラの包囲まで〜

  • (アンティゴノスとの戦い)

    クラテロスに勝利したエウメネスであったが、エジプトに遠征していたマケドニア軍にエウメネス勝利の知らせが伝わった時点で ペルディッカスが殺害されていました。そしてマケドニア軍は軍会を開きエウメネスやペルディッカス派の人物に対し死刑判決を 下していたのでした。その後開かれたトリパラデイソスの会議で隻眼のアンティゴノスが王国軍の総司令官に任命されるとともに エウメネス追討の任務を請け負うこととなり、ここにアンティゴノスとエウメネスの長きにわたる戦いの幕が斬って落とされるこ とになります。この時点でアンティゴノスはアンティパトロスから新たにマケドニア人歩兵8500、かなりの数の騎兵、象70頭を受 け取っています。一方でクラテロスに勝利した後のエウメネスはヘレスポントスから移動し、上納金をかき集めたり敵対勢力に対し 略奪を行って兵を養う元手をかき集め、サルディスにいるクレオパトラの支援を得ようとしてリュディアへ向かいますが、厄介を さけたいクレオパトラは彼を支援せず、結局フリュギアのケライナイで前320/19年の冬を過ごすこととなりました。

    前320/19年の冬は冬営中のアンティゴノス軍ではマケドニア兵3000人(パラエタケネの戦いに関する記述からアンティパトロス からもらった兵ではなく、旧ペルディッカス軍の残党と思われる)の造反が起きましたが、同じくケライナイにて冬営中の エウメネス側でもアルケタスやドキモス、アッタロスといったペルディッカス派の統合に失敗しています。ペルディッカス派が一 つにまとまらなかったことは兵力で劣るアンティゴノスにとり幸運だったと思われます(ペルディッカス派が結集していれば、兵力 の点でアンティゴノス軍をはるかに上回る勢力となる)。そして前319年、冬営を終えたエウメネスはケライナイからカッパドキアへ 動きオルキュニアにおいてアンティゴノスと戦うことになります。エウメネスは歩兵2万、騎兵5千騎、アンティゴノスは歩兵1万( 半分はマケドニア人の兵士)、騎兵2千騎、象30頭という兵力でしたが、アンティゴノスの事前工作により騎兵隊長アポロニデスが エウメネスを裏切ったことからアンティゴノスが勝利します。8000人の犠牲者を出して敗れたエウメネスはアルメニアに向かい、 そこで体勢を立て直そうとします。エウメネスは追撃するアンティゴノス軍を行軍中に襲撃したり、直接交戦するのでなく少数で 多数を相手にできる場で戦いを仕掛けたりして抵抗を続けていましたが、アンティゴノス軍による追撃が続き闘争が困難であるこ とをさとると兵士達を自分の元からさらせていき、ノラの城塞に追い込まれた時には700人程度(プルタルコスによる。ディオドロ スは600人程度)にまで数を減らしていきました。そしてノラの城塞に立てこもったエウメネスをアンティゴノスが包囲し、ノラに おいて長期にわたる戦いが続くことになります。

    (ノラ包囲戦)

    ノラは小規模ながら難攻不落の要塞であり、さらにエウメネス達が長期間籠城するには十分なだけの蓄えがあったようです。対する アンティゴノスは障壁や柵、壕を周囲に巡らせたうえで、エウメネスと会談すべく彼を招きます。古い友人同士であった両者の会談 は長時間にわたりましたが、エウメネスは己の身の安全や講和には触れず、太守領の確保と今までもらった物の回復を要求してきま した。結局両者の会談は物別れに終わり、アンティゴノスは軍勢を残して包囲を続行しつつ、アルケタスやドキモスなど他のペルデ ィッカス派を討つべくさらに進軍していきました。一方、エウメネスはノラ包囲の最中に包囲された要塞の中で馬を鍛えたり人々を 元気づけたりしつつ、アンティゴノス軍の攻城施設などを攻撃していましたが、包囲が終わる気配はありませんでした。

    その状況下で遂にエウメネスはアンティパトロスの許にヒエロニュモス(エウメネスの友人で後継者戦争期の歴史書を書いた)を使 者として降伏協定を交渉するために派遣します。使者を派遣した時期については正確な時期は不明ですが、おそらくアルケタスなど のペルディッカス派がアンティゴノスにより破られ、もはやこれまでと観念したための行動であると考えられます。しかしその後の 事態の展開から察するに、おそらくヒエロニュモスはアンティゴノスに捕らえられアンティパトロスの許にはたどり着けなかったか、 エウメネスの元に戻る途中でアンティゴノスに捕まってしまったようです。なぜかというと、前319/8年冬、アンティゴノスはヒエ ロニュモスをエウメネスへの使者として派遣して降伏条件の交渉を行っているためです。両者の間で降伏に関して交渉が持たれ、 前318年の始めにはエウメネスはアンティゴノスに降伏すると言うことでノラの包囲は解かれたのでした。ノラの包囲が解けた後の エウメネスについては一時的にアンティゴノスの家来となったことを伺わせる史料がある一方で、降伏して従うふりをしてすぐさま よそに逃げ去ったと伝える史料もありますが、これによってエウメネスとアンティゴノスの戦いはいったんストップします。しかし それからまもなく両者はアジアにおいて再び激しい戦いを繰り広げることになるのです。


    エウメネスと「ヒストリエ」の世界へ
    歴史の頁へ
    トップへ戻る

    inserted by FC2 system