趙孟頫
〜逆引き人物伝第20回〜


逆引き人物伝第2周目の区切りとなる20回では、趙孟頫を取り上げようと思います。この人誰?と思う人が多いとおもいますが、 元の時代に活躍した文人としてのちの時代にまで高い評価を得た人物です。一方で、その経歴ゆえに後の時代からは批判的な目で みられるところもあるようで、明の文人董其昌は意図的に彼を批判し、元末四大家のほうを賞賛したりもしています。

では、実際の所、彼はどのような活動をしていたのか、そのあたりを少し追いかけてみようかと思います。


  • 二朝に仕える
  • 今回の題材に取り上げた趙孟頫(1254〜1322)は、趙という姓からもしかしてと思う人もいるかもしれませんが、南宋の2代目 皇帝孝宗の兄の子孫という、宋王朝の皇族に連なる人物です。彼は南宋の皇帝一族の血を引きながら元に仕えた男ということで、 明代以降、破廉恥漢、裏切り者としてさげすまれることもありました。日本においても、儒学の大義名分論を受けいれた江戸時代 の漢学教育でも同様だったようで、幕末の尊王攘夷論で名高い藤田東湖は、若いころ趙孟頫の書を学んだがやがて彼がニ朝に仕えた ことを知り、自分の筆記用具は机の上に置きながら、手本の趙孟頫の法帖を机からおろし、学びながらあざけったという逸話が 残されていたりします。

    趙孟頫が最初に官職に就いたのは南宋末期のことで、これは父親の蔭によるものだったようです。元が南宋を征服すると、 クビライは江南から人材を登用しようとして勧誘させ、それに応じた者が20名程度いましたが、その第一等として推挙 されたのが彼でした。元に使えることをよしとしない者もいる中で応じた背景は一体何だったのかが気になるところで はあります。一方、元のほうでは中国支配のために江南の文人達も取り込み、懐柔することが必要であり、それを考えた ときに旧王朝の皇族である趙孟頫のような人材は目玉といってもよかったでしょう。モンゴルと江南の「融和」を示す 絶好の人材といったところでしょうか。

    クビライの招きに応じて大都にやってきた趙孟頫は、早速クビライに謁見し、気に入られたようで早速出仕しています。 正式な官位に着く前から出仕し、かなりよい席を与えられた彼は至元鈔(元で発行された紙幣)について意見を求められ、 周りとの見解の相違はありながらも自説をきっちりと主張した姿が書き残されています。それから暫く間が開くのですが、 クビライは彼を兵部郎中に任じています。兵部とはいっても文人として育ってきた彼がなんか軍隊関係の仕事をしたとは 考えにくいところはありますが、兵部時代の彼の活動として至元鈔の流通がはかばかしくないことから江南へ派遣された 際、地方官をむやみに厳しく咎め立てしないように振る舞ったことが知られています。また江南派遣の際には当然駅伝制も 利用しているわけですが、駅伝制の費用膨張による弊害(足りない分を地方で強制的に取り立てるなどにより苦しんでいた ようです)を改めさせると言うことも趙孟頫たちの江南派遣と深く関連があるようです。モンゴル帝国の主要な政策として 駅伝制の実施や紙幣の発行は必ず取り上げられることですが、趙孟頫もわずかながらも関わりのある様子が見てとれます。

    それ以降の趙孟頫の経歴を見ると、済南路の副長官として現地に赴いたことや江浙行省の儒学提挙として赴任したことが 知られていますが、何かしらの官職について働くときは集賢殿や翰林院で何かしらの地位に就いていることが多いようで す。彼の仕事をみると、クビライの治世以後は文教行政や文章の作成、そして碑文の書の作成が中心で、実際彼を高位に 取り立てた仁宗アユルバルワダも書家としての彼に期待してのことだと言われています。こういった経歴を見ると、彼は 書家としての才はあるが、他の事柄は全く駄目だったようにも見えてしまいます。しかし単なる世間知らずの文人ではない ことはクビライに招かれた頃の立ち居振る舞いをみると分かるかと思います。また彼は元朝の宮廷や地方において、人間 関係の軋轢や権力闘争に巻き込まれそうになったりはしています。しかし本当に危なくなる前に地方へ転出したり大都へ 移ったりしていますし、専横をふるい自分に危害を加えそうになったサンガを失脚に追いやる際には弾劾に間接的に関わり、 さらにその辺りのことを行状に功績として記録して自らの姿勢をそれとなくしめすなど、うまく状況を判断して立ち回って いる姿も見受けられます。政界と巧みに距離を取りながら書家、画家としての活動も行っていたというところでしょうか。

  • 書画の第一人者
  • 趙孟頫というと、やはりこの時代の書画の第一人者という扱いがなされています。元朝では建国して間もない時期から宮廷に 書家や画家、職人などを多数集めていました。その中には趙孟頫が働いていた翰林院や集賢院に集められた漢人の文人達もおり、 こうした人々も元朝の宮廷美術を支える人材となっていたようです。クビライの時代から多くの人を集め、宮廷美術を発展させ ようとしていた元朝ですが、クビライ以後も宮廷美術は発展をつづけ、趙孟頫もその発展に寄与するところは大きかったとも 言われ、彼の推薦により宮廷に入った画家もおり、文人絵画がさらに発展したとされています

    では、彼がはじめから第一人者のような存在と見なされていたのかというとこの辺りはなかなか難しいようです。趙孟頫 の交友関係を民族集団や出身地、彼の活動時期などから考えた研究がありますが、仕官する前は一部地域のごく限られた 人々としか交流が無かったことがあきらかになっています。出仕するようになってから交流範囲が徐々に増え、さらに江浙の 儒学提挙となった時期には江南の文人サークルとの交流が増えたことや、仕官前からの友人達の活動が活発化したことなど もあり、彼の名声が徐々に高まっていったと考えられています。そして仁宗のもとで働くようになった時期には文人として の名声を得ており、そのこともあり多くの碑文を頼まれるようになっていったようです。

    しかし、書画の第一人者となり、文人として名声を得るような人物であったにもかかわらず、死後、文集を出そうとしたときに 自費出版のような形になってしまったことや序を寄せた人物が大したことの無い人であるというのはかなり不思議なことのよう に思えます。彼の生涯における交流関係を見ると、華北と江南で過ごした時期は1対2位の差があるが、漢人と南人の人数にあまり 差が無いと言うことが指摘されています。彼が出仕した時代は南人がまだ元の中央政府や地方であまり働いていなかったから というのがその大きな要因のようですが、旧王朝の皇族でありながら元に仕えた彼に対しあまりよい感情を抱いていない者も いたようで(彼の訪問を受けた人物があまり打ち解けた話もしなかったうえ、彼が帰った後に坐具をすすがせたという逸話も 残されています)、彼に対する複雑な感情のようなものがあったのかもしれません。

  • 伝統を橋渡しする者
  • 彼の業績について、現代の中国美術や書に関する書籍を見ると、復古主義的と言う表現がよく登場します。彼自身の言葉 として「作画は古意有るを貴しとす。若し古意無ければ、工(たくみ)なりと雖も益無し」と語っているように、復古主義 については当の本人が明確に表明していることがわかっています。

    書については、宋の高宗の書を最初にまなび、やがて古人の書、特に王羲之を手本として学び、晩年は唐代の書家の処方を取り入れ たといったことが言われています。中国の書というと東晋時代の王羲之がその代表として扱われますが、趙孟頫の書は王羲之をはじめ とする晋唐の書家をよくまなび、のちの時代にもそれらを引き継いでいったというところがあるようです。晋唐の書の仲介者のような ものでしょうか。ただ、王羲之の書を形だけ学びその気を得ていない、そろっていて綺麗だがそれだけという批判も受けています( 書道のお手本を見ているようだといった人もいたような、石川九楊『説き語り中国書史』(新潮選書)だったかな)。

    行儀よく整っているけれどつまらない、色々な分野で批判コメントとして目にするような言葉ですね。ただ、「お手本みたい」な書 ゆえに後世の人たちが王羲之などに接近していく手引きとして彼の書を愛好したのでしょう。本をよむにしても、いきなり原典を読む より、まずは手引書を読んだ方が理解が正しくなることもあります。おそらくそういった役割を果たしたのでしょう(随分と贅沢な 手引きだとは思いますが)。

    絵画についても同様で(この項目の最初の段にある「古意有るを貴しとす」は絵画について語った言葉です)、唐や五代、宋初期の絵画の 画家たちの手法を指し、院体画風の写実的絵画とは違うものを目指していたと言われています。彼は山水画から墨竹画、鳥獣、人物など 様々な絵画を残していますが、特に馬の絵を好んで描いたといわれています。彼が馬の絵を学ぶにあたり手本にしたと考えられている画家 の一人に、昨年(2019年)に東京国立博物館に寄贈されていたことが明らかになった『五馬図巻』を書いた李公麟があげられています。 唐代の白描画(墨の筆線を主体として描く)を復興した名手であり馬の絵に優れていたといわれる李公麟に学び、それと似たスタイルを 身につけていたとすると、『五馬図巻』で見られる結構たくましく肥えた、体格の良い馬の描き方をしていたのでしょう。

    彼が昔の絵画や書を手本として自らの作品を残し、それが広く受け入れられるようになることで中国の書画の伝統が後世にも伝えられ、 残されていったとして、なぜ彼はそのようなスタイルをとったのでしょう。それについて趙孟頫関連の書籍を見ると、モンゴル人王朝 である元に仕える中で、自分の果たすべき責務として宋、中国の文化的伝統を守ろうとしたという解釈が見られます。元への出仕も 後半の仁宗期には書家としての能力を期待されての登用であるとも言われており、元の宮廷での彼の期待された役割の一部として文化 的な活動もあるとすると、そういう解釈もあるのかなと思います。それこそ世界の色々なところから様々なものを取り込んでいる帝国 の宮廷において、文化面での活動で成果を上げようとした時、己が寄って立つものが何かを見つめて選び取ったのが復古主義的な中国 美術の様式の採用だった、そういうことなのかなと思いますが果たしてどうなのか。彼に関する文献をみていると、結構中国文化中心 の視点から捉えられた叙述が多いのですが、それと違う視点で誰か伝記を書いてくれると面白いと思う人物です。


    (本項目のタネ本)

    井波律子「奇人と異才の中国史」岩波書店(岩波新書)、2005年
    櫻井智美“趙孟頫の活動とその背景”「東洋史研究」56-4(1998)733〜784頁
    田村実造"元代画壇の復古運動と文人画家”「史林」64-5(1981)686〜713頁
    外山軍治「中国の書と人」創元社、1971年
    吉田良次(著)・吉田實(編)「超子昂 人と芸術」二玄社、1991年
    王凱「中国絵画の源流」秀作社出版、2014年
    王凱「中国宮廷美術史」大学教育出版、2015年

    今回はこれらの本や論文の内容をもとにまとめてみました。

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