重装歩兵の戦闘
〜「ヒストリエ」第33〜35話〜


(第33話の概略)

ボアの村を征服しようとするティオス市の実力者フィレタイロスの長男ダイマコスの軍勢に包囲される中、エウメネスは一計を案じて ダイマコスとその手勢を村の中に引き込みます。そして村へ入ったダイマコス率いるギリシア式重装歩兵軍とボアの村人たちの戦いが はじまりますが、エウメネスの計略が見事にあたり、ダイマコスは戦死、軍勢も逃走して、村の防衛に成功しました。

この時の戦いではボアの村を守るためにギリシア重装歩兵と同じ装備をして訓練を施されたダイマコス軍にたいしエウメネスがいかに 活躍したのかが描かれていますが、当初は「ギリシアの歩兵はあらゆる蛮人どもを蹴散らしてきた」と豪語していたダイマコスの台詞 と、最終局面での部下の叫びやダイマコスの切れっぷりは何とも言えぬものがあります。では、ギリシアの歩兵はダイマコスが豪語する ほどのものだったのでしょうか。


  • 重装歩兵の戦い
  • 古代ギリシア世界で軍の中核をになっていたのは重装歩兵であることはよく知られています。では、重装歩兵とはいつ頃から登場し、 どのような装備、隊形のもとで戦闘を行っていたのでしょうか。まず、重装歩兵は時代によって変化はありますが、盾(木の上に青銅 板を張り付けたもの)、槍、剣、兜、胸当て、臑当てと言ったところを装備する兵士でした。重装歩兵の盾はマケドニア密集歩兵の盾 より遙かに大きく(直径1メートル近い)、サリッサより短い槍(2.5メートルくらい)を装備し、密集隊形(ファランクス)を組んで 戦っていました。重装歩兵戦術がいつ頃から登場したのかについては20世紀初頭より議論が続いており、劇的な変化があったとするか段階 的変化があったとするか、どの階層の人々によってどんな風に導入されたのかといったことで様々な説が出されています。いちいち 挙げるのはここですべきではないと思うのですべて省略しますが(興味がある方は最近の動向は「ローマと地中海世界の展開」晃洋書房 の中井義明論文を参照してください)、前8世紀後半から前7世紀前半にかけて変化があり、その過程で重装歩兵戦術が登場したようです。 ポリスでは大体10代終わりから60代の比較的富裕な人間(通常は農民)が自分で武具を用意して重装歩兵として戦っていました。

    では、重装歩兵の戦いとはどのような物だったのでしょうか。重装歩兵はファランクスの一員として戦闘に参加します。戦いを始める 前に犠牲獣が捧げられ、戦闘前にワインを飲み、司令官が兵たちに対し檄を飛ばし、ファランクス隊形を組んだまま前進し、敵に接近 すると駆け足で鬨の声を上げながら敵にぶつかっていくことになります。敵にぶつかる瞬間に1列目の兵士たちは相手の防具の隙間を 狙って槍を突き出しますが、この兵士たちの背後にいる(通常は)7人分の兵士の体重がのしかかってきますし、後ろの兵士たちは味方 の兵士の側面や背中、肩を盾で押し込んだり、後ろからとにかく槍で敵を突こうとしたり(3列目当たりまでは槍が敵に届く)、まるで ラグビーのスクラムのように相手を押し込むような感じで両軍がぶつかり続けることになります。しかしどちらかのファランクスが崩れ て潰走し、勝ち負けがはっきりつくことになります。死者は勝者の側で5%くらい、敗者の側で15%くらいといわれています。なお、 戦い方については諸説あり,後衛は単なる精神的支えだったとか密集していない隊形で戦っていた等々の説もあります。

    このような戦い方をする重装歩兵はペルシア戦争ではマラトンやプラタイアイでペルシア軍を打ち破り、テルモピュライでも(最後は 玉砕ですが)ペルシアの大軍と真っ向からぶつかってこれを暫く押さえているなど、ペルシア戦争でギリシア側勝利の原動力の一つと みてもよいでしょう。また、前4世紀には傭兵としてペルシアの太守たちがギリシア人を使っていたことがクセノフォン「アナバシス」 やアレクサンドロス関連史料にも登場しており、彼らが地中海世界で戦力としてかなり高く評価されていたことの証とされています。 もっとも、領民への負担・損失を避けたいがために金でギリシア人を雇う形でやっていたのかもしれませんが。

  • 戦争の西洋的流儀のはじまり?
  • ギリシア重装歩兵の戦いについてなにか書くことについて果たして意味はあるのかと、書いている本人もここまで書いてきて何となく 考え込んでしまうところもありますが、このギリシアの重装歩兵戦術の登場をその後の軍事史、特に西洋の軍事史の方でことさら重視する 考え方が20世紀後半(1980年代)に唱えられ、現在もその主張が一定の支持を得ているようです。それが「戦争の西洋的流儀」という 考え方です。この流儀が作られる際に重要な意味を持つのが古代ギリシアの重装歩兵戦術であり、後々まで引き継がれたというのですが、 どのような考え方なのかを簡単にまとめてみます。

    現代にまで連綿と続く「戦争の西洋的流儀」は古代ギリシアで誕生したということが最近の古代ギリシアの軍事史では言われています。 「西洋的流儀」の戦争とは一体何かといえば、正面切っての会戦で敵を殲滅する戦い方、集団で正面から激突して戦うことを志向する もので、これは民主主義とともに古代ギリシアから現代にまで継承されていった遺産であるといわれています。この流儀が西洋の軍隊 の軍事的優位を支えたというのが、「戦争の西洋的流儀」を最初に論じた研究者ハンソンの見解で、以後彼は一貫してそのことを主張 しつづけています。もともと重装歩兵が密集隊形で正面からぶつかり合うという戦い方が、なぜ山がちなギリシアで行われたのかと言 うことに関し、ハンソンはその多くが農民(自作農)である重装歩兵たちは自らの農地を敵に荒らされるのをいやがって進んで武装し、 ゲリラ戦や籠城戦のような長期戦より短時間でケリがつく平地での会戦を好んだと主張します。戦争を農閑期に限定して短期間で終わ らせるということで、農地が荒廃したり戦死者をできるだけ抑えようとして(でも死人はでますが)始められたのがこのような戦い方で、 農民たちの意思表示としての流儀だったと考えているようです。そして、時が経つに連れ色々変わる中で背景にあった思想は消え、戦い 方だけが後世に継承された結果、殲滅戦へ至ったということであり(アレクサンドロス大王あたりから)、それが「西洋的流儀」とし て同じ地中海世界のローマ、さらには現代にまで引き継がれていったというわけです。

    正面からの会戦を志向し、市民からなる兵士が厳しい規律の下で統制されているのが西洋の軍隊であり、このような戦い方を磨き続け た西洋は非西洋世界との戦いでは必ず勝利してきたというのが「戦争の西洋的流儀」を主張するハンソンの考え方で、何となく漫画の なかのダイマコスの台詞と被っているような所があります。一方、西洋と対を為す形でとらえられた東洋の場合、まずは決戦を回避し、 飛び道具にたよる臆病で野蛮な戦い方をするものと捉えられ、西洋の東洋に対する優位を主張するような方向に進んでいるところもある わけですが(近年のハンソンの言動はそう取られるようなことが色々あるみたいです)、現代まで連続してそのような戦い方が続いて いるのかは疑問視されていますし、そもそも「戦争の西洋的流儀」自体が古代世界に実体として存在したわけではなく、あくまでも 古代人の「イデオロギー」として捉えようとする見解もありますが、果たして今後どうなるのかは私には分かりません。

    個人的な感想をちょこっとだけ書いておくと、「戦争の西洋的流儀」論には西洋と東洋の対比、そして西洋の優位という考え方がその 中にあるようですし、それを前提に世界の軍事史について論じて大丈夫なんだろうかと少々心配になってきます。西洋の研究者の場合、 非西洋世界の事について案外知らなかったり知っていたとしてもかなり古い研究をちょろっと見ただけですましているのではないかと 思われることがあるので(昔古代・中世の軍事史についての論文集で日本の軍事についての論文の参考文献を見て一般書(結構古いもの )が沢山並べられていたのを見て驚いたことがあります)、「戦争の西洋的流儀」論も、ひょっとしたらその辺の処の詰めがかなり甘い ものなのかもしれません。

    (参考文献)
    ジョン・キーガン(遠藤利国訳)戦略の歴史 抹殺・征服技術の変遷 石器時代からサダム・フセインまで」 心交社、1997年
    ヴィクター・デイヴィス・ハンセン(遠藤利国訳)「図説古代ギリシアの戦い」東洋書林、2003年
    ハリー・サイドボトム(澤田典子・吉村忠典訳)「一冊で分かる ギリシャ・ローマの戦争」岩波書店、2006年

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