ミエザのペウケスタス
〜「ヒストリエ」第65話〜


(第65話のあらすじ)

アレクサンドロス王子とその一行に出会い、滝壺に落っこちたハルパロスを助けた後、ペウケスタスは色々と気になったようで、 ミエザの学校をふらっと訪ねます。その時に不審者扱いされて捕まった彼を解き放つように命じたのはアレクサンドロス王子 でした。そして後日、アレクサンドロスはペウケスタスもミエザの学校に来るように誘いにやってきます…。

ミエザの学校に来るように誘われたペウケスタスは、恐らくアレクサンドロス大王の東征後半になって登場するペウケスタスに なるのだろうという推測のもと(前の、アンティゴノスが実はフィリッポス2世だったという展開のような事態がなきにしもあらず なので、断定してもいいものか迷いますが)、ペウケスタスの経歴、その後の事柄についてまとめてみようと思います。


  • 東征期のペウケスタス
  • ペウケスタスはミエザの出身で、生年は不明ですが恐らく前350年代前半とされています(没年も分かりません…)。東征において、 彼の名前が最初に登場するのは、アレクサンドロスがさらなる前進を断念し、川下りをする時です。アレクサンドロスは部下のマケドニア 人たちを三段櫂船艤装担当者として、艦隊を作らせていますが、艤装担当者の一人としてペウケスタスが登場します(インド誌18.6)。 それ以前の彼が何をしていたのかと言うことはよく分かっていませんが、王の近くに仕える立場ではあったと考えられています。

    まず、川下り開始後、彼の人生における一世一大の大仕事といってもよい、マッロイ人を攻撃したときに窮地に陥った王を真っ先に救いに 行き、自分が傷を負いながらも楯で王をかばって守ったと言う出来事がありました。この時のペウケスタスが真っ先に王の側に駆けつけた ということで諸史料は一致しており、それができる状況にあったことから、王の近くに仕えていた事はまず確かでしょう。また、彼がどの ような資格で王の近くにいられたのかと言うことに関しては、イリオン(トロイア)でもらった聖楯を捧持する「楯持ち」を務めていたと いう記述もあり、文字通り王の「楯持ち」をしていたのかもしれませんし、アレクサンドロスが戦闘時には常にアグリアネス人部隊と近衛 歩兵部隊(ヒュパスピスタイ)を率いていることから、近衛歩兵の一人だった可能性もあります。

    マッロイ人との戦いで彼は傷を負いながらも王を守るという活躍を見せたことが評価され、その後通常7人しかいない側近護衛官(ソマト フュラケス)に、特別に8人目として任命されるとともに、インドから帰還した後で東方系太守たちを次々に取り替えていったときに ペルシスの太守にも任命されました。そしてスサに帰還したアレクサンドロスが将兵に対する論功行賞を行ったときには勲功第1位として 黄金の冠が贈られました。

    ペルシス太守として、ペウケスタスがどのように統治を行ったのか、具体的に何かが記録されているわけではありません。しかし、彼の 統治の方針としては、アレクサンドロスがそれまで進めてきた東方との協調路線をとっていたようです。彼がペルシア風の衣服をまとい、 ペルシア語を使うなど、現地の習俗に合わせようとする姿勢を取っていたことがうかがえますし、就任してまもなく、アレクサンドロス のもとに2万のペルシア人部隊をつれてやってきたことなどを見ると手腕もそこそこはあったのかなとも思われます。そして、現地人も ペウケスタスに対する支持は高く、現地人からは好意を持って迎えられ、後に一部の貴族からはペウケスタス以外には従うつもりはないと 公言する者も現れたほどでした。

  • 後継者戦争期のペウケスタス
  • 前323年にアレクサンドロスが死んだ後、バビロンの会議やトリパラデイソスの会議において、ペウケスタスは引き続きペルシス太守の地位 をみとめられています。ペウケスタスの太守在任期間はかなり長く、その間に現地人の支持もあるとしっかりと得ていきます。東方における 人気ゆえに、ペウケスタスは後にペイトンに対抗する連合軍が東部の太守たちの間で結成されたとき、そのリーダーとなりました。上部太守領に おけるギリシア人傭兵反乱の際に東方で大権を与えられたペイトンが再び東方に勢力を拡大しようとしてパルティアへ攻め込み、太守を追い落 とすうごきを見せましたが、ペウケスタスを中心とする東方太守連合軍はペイトンを撃退する事に成功しました。

    このように、東方の太守たちのリーダーとして大軍をまとめていたペウケスタスの許に、エウメネスがやってきます。ポリュペルコンから帝国 軍司令官に任ぜられ、王家の側について戦うことになったエウメネスは、東方へと向かい、各地の太守に加勢を要請していました。セレウコス とペイトンに拒まれた後、さらに東へと進み、そこでペウケスタスたちとエウメネスが合流し、彼らは王家のためにアンティゴノスなどと戦う ことになります。もっとも、ペウケスタスを含めた東方の太守たちがエウメネスと共闘することを選んだのは、王家のためというだけではなく、 アンティゴノスにより太守領を奪われる恐れもあったためだとは言われていますが。

    こうして共闘することになったペウケスタスとエウメネスですが、軍の指揮権をめぐる問題が生じ始めます。アレクサンドロス大王の生前は 両者は仲が良かったようなのですが、エウメネスはあるときはアレクサンドロス大王の天幕や玉座、王冠などの小道具を利用して、巧みに 主導権を握ったり、嘘の手紙をつかってペウケスタスの存在感を消してしまおうとしたりしていますし、ペウケスタスはペウケスタスで派手な 見世物やら懐柔策やらにより兵士の人気を得ようとしていました。しかし、どうもその辺の所ではエウメネスの方が上手だったようで、結局 エウメネスが全軍の指揮権を握ることになり、ペウケスタスはエウメネスの下につくこととなってしまいました。

    そして、エウメネス指揮下でペウケスタスはパラエタケネの戦いからガビエネの戦いに至るまでの間戦い続けます。しかし、この間の彼の 振る舞いや戦いぶりについては、相当ネガティブな描かれ方になっています。恐らく元の史料がカルディアのヒエロニュモスの手によるという こともありますが、アンティゴノスがバラバラに冬営しているエウメネス軍に奇襲をかけようとしているのを知って、ガビエネから遠く 離れた場所に逃げようとしてエウメネスに説得されたり、ガビエネの戦いではアンティゴノス軍の攻撃を受けて撤退してしまい、さらに エウメネスが再び戦いを仕掛けようとしたときにそれに従わなかったり、挙げ句の果てに1万のペルシア兵とともにエウメネスを見限り アンティゴノス側に走ってしまったりと、あまりにもひどい振る舞いが目立ちます。どこまでがバイアスで、どこからが真実なのか、判断は なかなか難しいところですが、エウメネス軍の敗因の一因であることは確実でしょう。結局、ペウケスタスはじめエウメネス軍の諸将は最後 までまとまりきれなかったということのようです。

    ガビエネの戦いの後、エウメネス軍の将兵は、銀楯隊のように指揮官は処刑、兵士は辺境防衛に回されるというケースもありましたが、多くは そのままアンティゴノス軍に吸収されたようです。ペウケスタスはペルシス太守を解任され、それ以降はアンティゴノス一族に従って生きて いたようで、イプソスの戦いの後もデメトリオスの幕僚の一人としてペウケスタスがいたらしいことを示す史料もあるようです。

    (参考文献)
      フラウィオス・アッリアノス(大牟田章訳)「アレクサンドロス東征記およびインド誌」東海大学出版会(東海大学古典叢書)、1996年
      Heckel,W. The Marshals of Alexander the Great(London&New York,1993)(東征に関わったマケドニア軍人のプロソポブラフィー。ペウケスタスについての項目がある。)

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