らいおんハント
〜「ヒストリエ」第92話〜


(第92話の概略)

カイロネイアの戦いが終わってからある程度経ったある日のこと、マケドニアにアレクサンドロス王子にかなりそっくりで、 やや年上くらいの男がいました。その男の名前はパウサニアス、上部マケドニア・オレステスの有力者の子で、かつては フィリッポス王もアレクサンドロス王子と並べてみて似ていると思うほどそっくりだったようですが、今は顔に大きな傷 を負い、護衛兵として働く日々が続いています。

その傷が何故出来たのか、それは王の護衛としてライオン狩りに付き従ったときのこと、一頭の非常に立派なライオン を仕留めようとしたときに、ライオンの顔にただならぬものを見て取り、攻撃が遅れたため一撃を食らってしまったからでした。


  • ギリシアのライオン
  • 古代ギリシアとライオンというと、真っ先に上がりそうなのはヘラクレスの12の功業でしょうか。ネメアの巨大なライオンを仕留めて くることを求められたヘラクレスが、武器が通じない相手を結局は素手で倒してしまうという、なかなか凄い話が伝わっています。 なお、その時に手に入れたライオンの皮はヘラクレスの衣装となり、ライオンの皮を被るヘラクレスというのは後の美術にもよく でてきますし、アレクサンドロスの石棺にみられる兜やアレクサンドロスの顔を打刻した銀貨にもそのデザインは使われていたりします。 では、古代ギリシアにライオンはいたのか。

    現代人にとり、ライオンというとアフリカにいるというイメージが強いとおもいます。しかし、かつてはライオンの生息地はもっと 広かったことが知られています。しかしインドでは今でもごく一部の地域にインドライオンが生息しています(日本の動物園にも 上野動物園などにインドライオンは数頭います)。かつては中東にもライオンがいたのですが、20世紀に絶滅し、インドでも300頭 くらいがいる程度のようです。なお、アフリカのライオンとインドのライオンは一寸違うようで、大きさが小さく、たてがみも少し短め、 そして群れの規模が小さい、狩りを単独で行うなどの特徴が見られるとのことです。

    そして、古代ギリシアにおいてもライオンがいたということはヘロドトス「歴史」の7巻125章と126章の次のような記述にも見て取れます。 内容としてはクセルクセスの軍隊の進軍中の出来事が書かれています(訳文は岩波文庫の松平千秋訳)。

    このあたりを行進中、ライオンの群が食糧輸送の駱駝部隊を襲撃してきた。ライオンは夜間に巣を出て出没するのであるが、他の荷曳用の 獣や人間には一向に危害を加えず、ただ駱駝のみを襲ったのである(ヘロドトス7巻125)

    この地方には多数のライオンや野牛が棲息しており、この野牛の巨大な角はギリシアへも多く輸入されている。アブデラの町を貫流する ネストス河と、アカルナニア地方を流れるアケロス河とがライオンの棲息地の限界となっており、事実ネストス河以東のヨーロッパ全域、 およびアケロオス河以西の大陸全土にわたって、ライオンの姿は一頭も見られず、両河の中間地域にだけ生息しているのである(ヘロドトス7巻 126)

    このほかに、アリストテレス「動物誌」にもライオンに関する記述があります。こうした史料から、古典期ギリシアにはどうやらライオンがいた と考えても良さそうで、古代のマケドニアの辺りもちょうどライオンの棲息地が存在していたようです。

  • マケドニアにおける狩猟
  • マケドニアの豊かな森林には野生の獣が多数棲息し、マケドニアの王族、貴族にとって格好の獲物となっていたことは、色々な史料の 記述からも知られています。かなり後の時代ですが、ポリュビオスは「マケドニア王家は狩猟にひとかたならぬ情熱を傾けていて、 それゆえマケドニアの人々も獲物となる動物の生育のために最適の場所を確保していた(31巻29章3。城江良和訳(京都大学学術出版会))」 という記述を残しています。マケドニアでは野生の獣を囲い込む狩猟用の庭園がつくられ、そこで狩りが行われていましたが、狩猟庭園 のルーツはペルシアにあります。古代地中海世界においてマケドニアとペルシアにはそれなりのつながりがあったり、アレクサンドロス 東征によりペルシア風の文化も流入した形跡も見られますが、マケドニアに狩猟庭園がいつ頃造られるようになったのかは、これを東征 の影響と考え、アレクサンドロス以後とみなすか、それ以前からの交流によりフィリッポス2世時代にはすでに狩猟庭園が存在したとする 議論にわかれているようです。

    ペルシア風の文化の影響をうけた狩猟庭園がいつ頃からマケドニア国内に造られたのかと言う問題も含め、実のところ、フィリッポス2世 以前および彼の時代に おいて、直接狩猟と関係する史料というものがあるかというと、それ程多いわけでは ないようです。たとえば、アレクサンドロス1世の銀貨に打刻された人物の姿は、戦支度と言うよりも狩猟支度のようであることや、 アミュンタス3世の発行した銀貨のなかに、槍をかむライオンのデザインが刻まれたものがあることや、アルケラオスが暗殺されるのが 狩猟中のことであったとする記述がディオドロスのなかにあること、そしてフィリッポス2世が猟犬を使って森に逃げた敵を追い立てた 話などがでてきたりはします。

    マケドニアの王族や貴族に鳥、狩猟は単なる娯楽にとどまらず、戦士となるための訓練としても重要なものであったと考えられています。 マケドニア人が狩猟の成功に高い価値を置いた事を示す事例が、マケドニア人貴族の間での慣習のひとつとして取り上げられています。 アテナイオスに出てくる話ですが、マケドニアではイノシシを網を使わずに槍で刺して捕らえることができた者以外は、宴会で寝椅子に横になるこ とが認められず、それを成し遂げるまでは椅子に座って食事をさせられることになっていたと言われています。どんなに優秀な人であっても、 これを達成しなければ認められないというのはなかなか厳しいものがあります。

  • マケドニア王とライオン狩り
  • マケドニア王とライオン狩りというと、フィリッポス2世時代にライオン狩りを行ったのかは文献史料からは分かりません。 ただし、マケドニアにライオンがいたであろうことを示す史料の記述やアミュンタス3世のコインの図像からは、フィリッポス2世の時代にも ライオン狩りをやっている可能性はありそうです。

    しかし、ライオン狩りがマケドニアにおいて重要な意味を持ち始めた時代がいつかというと、やはりアレクサンドロス大王の時代ではない でしょうか。まず、明確にライオン狩りに関する話題が登場するのはアレクサンドロス大王の時代です。アレクサンドロス大王によるライオン 狩りの場所については、シリアの可能性であったり、ソグディアナの可能性があったり、色々な場所があげられます。

    また、ライオン狩りにまつわる エピソードも色々語り継がれています。王によるライオン狩りは、アッシリアやアケメネス朝ペルシア帝国では王権の象徴であり、 ペルシアでは王がライオンを狩るということは王の資質を表すために重要なことだったとされています。この点ではマケドニアも 似たようなものであり、マケドニア王は狩猟であれ常に卓越した存在である事を示さなくてはいけなかったらしく、 ライオン狩りにおいても自らの手でそれを仕留めたエピソードが残されていたり、加勢しようとしたリュシマコスは叱責されたという 話も伝わっています。一方、大王のライオン狩りにおいて大王に加勢する場面を青銅像で作らせ奉納しようとしたクラテロスのような 人物もいますが、彼による青銅像の注文は大王死後、紀元前322年のラミア戦争鎮圧後と考えられています。さすがに大王存命中には そういう像は注文できなかったのでしょう。

    クラテロスによるライオン狩り像の発注は後継者戦争の時代ですが、実はこの時代にライオン狩りをモチーフとした美術が多く 現れてきます。ライオン狩りをモチーフにした美術作品は正確な年代は特定されていないようですがペラの邸宅やヴェルギナ 王墓第2墳墓からも出土しています。ヴェルギナ王墓のものについては、これの存在が被葬者特定の根拠の一つに挙げられて いたりしますが、マケドニアとペルシアの関係はアレクサンドロスの時代になって急に現れたものではありません。既に フィリッポス2世時代にペルシアからの亡命者家族(その中にバルシネも含まれます)を受け入れていたり、それこそペルシア戦争 の時代にはマケドニアがペルシアの支配下に入っていたこともあるので、過去のつながりからアレクサンドロス東征以前にペルシア 文化の要素がマケドニアに入っていて、狩猟庭園やライオン狩りの美術も存在したという可能性は無いとはいえない状況 です。

    とはいえ、アレクサンドロス死後の後継者戦争の時代になると、ライオン狩りの場面をモチーフにした美術作品が増加したようです。 前述のクラテロス発注の青銅像もそうですが、後継諸将たちは彼とともに行ったライオン狩りの図像を盛んに制作してアレクサンドロス との関係の深さをアピールしようとしたと言われています。また、後継諸将ではないですがフェニキアのシドン王アブダロニュモス が自らの石棺にアレクサンドロス大王とともに行ったライオン狩りの場面を残していますが、これもシドン王としての支配の正統性を 示すために、大王との関係性を見える形で残したのだともいえそうです。


    (参考文献)
    Carney,E. "Hunting and the Macedonian elite" in The Hellenistic World(Ogden,D.ed. 2002)
    澤田典子,“「フィリポス2世の墓」再考”古代文化63-3(2011年)、39頁〜59頁
    N.Sawada ,"Social Costums and Institutions" in A Companion to Ancient Macedonia(Roisman,J. & Worthington,I. eds., Chichester,2010)
    プルタルコス(森谷公俊訳註)「新訳アレクサンドロス大王伝」河出書房新社、2017年

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