故郷カルディア
〜「ヒストリエ」第2話〜


(第2話の概略)

小舟で海峡を渡って小アジアからヨーロッパへ渡ったエウメネスは、迎えの馬車に乗って先に行ったアリストテレス 一行からはなれ、徒歩で故郷カルディアへ向かいます。そしてカルディアに近いところまで出てきたエウメネスの目 に映ったマケドニアの大軍に包囲される故郷の姿でした。

物語は小アジアから舞台をヨーロッパに移し、故郷カルディアがしばらく物語の舞台となります。エウメネスの故郷 カルディアとはそもそもどのような都市だったのでしょうか。カルディア市の歴史やエウメネスの生きた時代の状況 について軽くまとめてみようと思います。


  • カルディア市の歴史
  • カルディアはケルソネソス半島西岸にある都市で、ミレトス人とクラゾメナイ人によって前7世紀に作られました。 しかし、その後のカルディアの歴史に大きな影響を与えるのは都市を建設したこれらの人々ではなく、アテナイでした。 アテナイ人ミルティアデス(マラトンの指揮官ミルティアデスの祖先)により率いられた植民団がケルソネソスに入り、 カルディアもアテナイ人の植民市として発展していきます。ミルティアデスはこの地域に入植すると、ケルソネソスの 地峡に城壁を築きますが、その城壁はカルディアからはじまっています。その後、ケルソネソスの僭主で、マラトンの 戦いで活躍したミルティアデスがカルディアを出発してアテナイへと向かったという記録が見られ、その後カルディア が登場するときにはペルシアの支配下に入っていることから、ミルティアデスがケルソネソスからアテナイへ向かった 前493年頃にカルディアはペルシアの支配下に入ったようです。ペルシアの支配下に入った後、アテナイの将軍キモンに よって前466年にケルソネソスはアテナイの支配下に入ります。おそらくカルディアもこのころに再びアテナイの支配下 に入っていたと考えられます。

    その後、アテナイがデロス同盟の盟主として強大な力を持つ間はカルディアもアテナイの支配に服していましたが、 ペロポネソス戦争でアテナイが敗北してデロス同盟が解体された後、カルディアはアテナイからは独立した一都市 として活動するようになります。その後前353年頃にオドリュサイ王国の王ケルセブレプテスがアテナイと同盟を結んだ 時、ケルソネソス一帯はアテナイに譲渡されたのに、カルディアはそこから除外されています。カルディアは当時 ケルセブレプテと同盟を結んでいたのですが、フィロクラテスの和約の結ばれた前346年にはカルディアはマケドニア王 の同盟者として認識されるようになっています。この間に同盟相手をケルセブレプテスからマケドニア王に変えた原因と して、ケルセブレプテスとアテナイの同盟のことを知り、ケルセブレプテスには彼らを守るほどの力がないと分かり、 新たな同盟相手として前352年にトラキア遠征を行い東方に力を伸ばしてきたマケドニアを選んだのでしょう。恐らくこの 遠征の頃にカルディアはマケドニアと同盟を結んだのではないかとおもわれます。

    いっぽう、カルディアは自分たちのものであると考えているアテナイはカルディアに対する要求を取り下げることは無く、 前344年にヘゲシッポスを使者としてマケドニアに送り、カルディアはアテナイに譲られるべきであるという主張を繰り 返します。アテナイは前343/2年にはケルソネソス方面へさらに多くの入植者を送り出し、カルディアにも送り込もうと します。この時アテナイは傭兵隊長ディオペイテスに指揮を執らせ、ディオペイテスはカルディアを攻撃しています。 これに対してカルディアはフィリッポスに助けを求め、前341年初頭にはフィリッポスはカルディアを支援したようで、 カルディアにはマケドニアの守備隊が送り込まれています。アテナイのケルソネソス植民と共に発展したものの、 あくまでアテナイとは独立した都市としての発展を願うカルディアは、アテナイからの独立を守るためにマケドニアと 同盟を結び、それはフィリッポス2世の後の時代にも引き継がれていったようです。

    時代は下って、アレクサンドロス大王が死んだ後のカルディアについて、プルタルコスの記述から、僭主ヘカタイオスに より支配されていたと言うことがわかります。ヘカタイオスはエウメネスとは親の代から対立していたと言われるほどの 敵対関係にあり、エウメネスにとってはヘカタイオスは親の代からの仇敵であったようです。彼らの敵対関係が一体いつ 頃から始まり、いつエウメネスが追放されヘカタイオスが僭主となったのか、具体的な年代は分かっていません。 断片的な情報を挙げてみると、まず、エウメネスは前342年ころよりマケドニア宮廷に仕えるようになっています。 また、カルディアは前346年の時点でマケドニアの同盟国としてみられていますが、その時点ではカルディア市民が都市の 意志決定能力を有していたようで、ヘカタイオスの名は見あたりません。一方、コリントス同盟結成後は同盟の規定により 勝手に政体を変えることは出来なくなっており、それ以降にヘカタイオスが僭主になることは難しいと考えられます。 そして、プルタルコスはエウメネス伝と並列でセルトリウス伝を書いていますが、両者の伝記を対にして書く理由に、両者とも 祖国を追われた者であるということをあげています。エウメネス伝にそのことが書かれていないので詳しいことは分からない のですが、前340年代後半にエウメネスは親の代からの仇敵ヘカタイオスが権力を握ったことで祖国を追われたと考えられます。

    そして、故郷カルディアを追われたエウメネスにとり、頼るべき所は父親の代から友好関係を築いていたマケドニア王 フィリッポスの宮廷しかなく、フィリッポスの宮廷において書記官として働くようになります。フィリッポスがヘカタイオス が支配するカルディアを政治体制は残したままで同盟にとどめ、ヘカタイオスと敵対するエウメネスを自らの下に留めておく にあたり、フィリッポスとカルディアのあいだで何らかの取引があったのではないかと思われます。

    ここから先は勝手な推測にすぎませんが、ヘカタイオスは、古くから敵対するエウメネスがマケドニア宮廷にはいる ことは、マケドニアとの友好関係をタテに自分たちを権力の座から追い落とそうとする策略かもしれないと考えたかもしれません。 エウメネスがヘカタイオスの僭主政を転覆すべしと言い続けていたことがプルタルコスに記されていることから、エウメネスが そのような圧力をかけることも十分考えられますし、エウメネスがマケドニアを頼ったのも、マケドニアの力をバックにヘカタイ オスをカルディアの支配者の座から引きずり落としてやろうといった考えがあったのかもしれません。

    このような状況下で、フィリッポスは当時のカルディアを取り巻く政治状況を利用しつつ、ヘカタイオスの僭主政を認めつつ、 エウメネスを宮廷に迎えたのではないでしょうか。古くからの友好関係のみを重視しエウメネスに一方的に肩入れすることは カルディアにおいて新たな争いの火種を抱える可能性もあり、それは当時エーゲ海北岸でマケドニアと対立し、ケルソネソス 全体を支配下におきたいアテナイがカルディアを勢力圏に加える機会を与えてしまう可能性もあります。カルディアにおける 対立をうまくおさえるうえで、ヘカタイオスの僭主政は容認するかわり、エウメネスを自分の所に引き取ったのかもしれません。 フィリッポスにとっては、エウメネスは旧友の息子であるということもありマケドニアの宮廷に迎えていますが、カルディアが 自分たちの側に付くのであれば、政治体制がヘカタイオスの僭主政であっても構わないという計算もあり、ヘカタイオスの僭主 政治はそのままにしておいたのでしょう。カルディアとエウメネスに対するフィリッポスの態度からは、個人的な友好関係を 大事にする人間フィリッポスと、冷徹な現実主義者である政治家フィリッポスの2つの面が現れているように思われます。 パウサニアスによる暗殺事件前のフィリッポスの行動からの推測ですが(この時は失敗したから彼は暗殺されてますが)、個人 的なことを考慮することと大局をふまえて行動することを巧みに両立させてより良い結果を引き出そうとする際、カルディア を味方に付けつつ、エウメネスにも何らかの便宜を図るとなると、そういうこともありえるのではないでしょうか。

      (参考文献)
      Hornblower,S.&Spawforth,A(ed),The Oxford Classical Dictionary(3rd.ed.1996) s.v. "Cardia"
      Hammond,N.G.L. Philip of Macedon (Baltimore,1994)

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