王朝の滅亡


  • ピュドナの戦い
  • アエミリウス・パウルスとペルセウスの間で戦われたピュドナの戦いは紀元前168年6月22日の午後におこった。この戦いの前日 に月食があり、そのことも月日の特定に影響していると思われる。戦いが始まるきっかけについては、水場での軽装兵同士の小競り合い があった、飼葉を運ぶローマ兵をマケドニア軍のトラキア人兵士たちが襲ったことからはじまった、アエミリウス・パウルスがわざと馬を 放ってローマ兵にそれを追わせ、マケドニアから攻撃を仕掛けなくてはいけない状況を作った等、様々な説がある。このときの小規模 な衝突に対し、両軍は直ちに兵士を繰り出して布陣を開始し、全面的な戦いに突入していくことになる。

    このとき、ペルセウス率いるマケドニア軍は密集歩兵21,000を含む約44,000もの大軍を擁していた。マケドニア軍はマケドニア密集 歩兵を中央に置き、マケドニア精鋭部隊3,000を左翼に、軽装歩兵部隊や各国からの傭兵、および同盟国のトラキア歩兵も配置した。 さらに騎兵については、ペルセウス自身が率いる神聖部隊、マケドニア騎兵部隊やトラキアのオドリュサイ人騎兵部隊が配置された。 さらに、マケドニア軍ではかつてキュノスケファライの戦いで苦しめられた戦象に対する対策も講じていた。あらかじめ象の模型を 使って特殊武装を施した兵士や騎兵の訓練を行っていた。

    両軍の激突は、まずはマケドニア軍がローマ軍陣地に向かって、徐々に距離を詰めにかかった。このときのマケドニア密集歩兵の 圧力はローマ軍にとっても相当に厄介なものであったらしく、指揮官に対し驚愕と恐怖を与え、のちの日にもそのことを思い出して 語っていたという。ローマ軍はマケドニア密集歩兵を前にして、なかなか突破することができずに苦戦し、ペリグニ人やマルキニ族 が打ち取られ、潰走とまではいかないがオロクロンとよばれる山に退却した。他の部隊も引き下がっていった。

    さらにマケドニアはローマ軍を追撃したが、この段階で問題が生じ始めた。マケドニア密集歩兵はサリッサを構え、密集隊形 を組むことによって攻撃力と防御力を発揮することができる兵士である。盾は小型であり、剣もけっして大型ではない。そして、 このような密集隊形を維持するには平坦な土地で戦うことが必要となるが、山地や丘のような場所では密集状態を維持するのが 難しく、隊列が間延びし、所々に割れ目や隙間が発生しはじめた。

    このとき、アエミリウスはローマ軍団に対して、密集隊形が崩れはじめて戦列に隙間が出来ていたマケドニア密集歩兵部隊の 隙間を狙い、大隊ごとにわけて隊列の隙間に割り込み、側面、背後を攻撃するように命じた。ローマの軍団兵はピルムを投げた後は 剣と盾で戦うが、彼らの用いる剣はマケドニア兵のもつものより重量があり長さもあり、盾もマケドニア兵より大型のものを用いて いた。彼らの長い剣や重装備に対し、マケドニア密集歩兵の短い剣や小型の盾、軽装の防具では太刀打ちできず、密集歩兵たちは 潰走へと向かっていった。また、ローマ軍の戦象部隊に対して、結局特殊装備の兵士などは役に立たず、マケドニア軍左翼は潰走 した。

    この状況下で、もはや戦場での勝敗が決したことを悟ったペルセウスは未だ戦闘に参加していなかった神聖部隊や騎兵部隊と共に 逃亡した。ペルセウスや騎兵部隊が戦場から離れた後もマケドニア軍はローマ軍と戦ったが壊滅し、最後まで踏みとどまって戦った 3000の精鋭部隊も打ち取られた。この戦いでのマケドニア軍の戦死者は20000とも25000とも言われ、逃亡したが捕らえられた、ある いは 殺されたものが11000という惨憺たるものであった。これに対してローマ側の死傷者は極めて少なかったと伝えられている。

    ピュドナの戦いはフィリッポス2世、アレクサンドロス3世以来強大な力を持っていたマケドニア密集歩兵部隊とローマの軍団兵 の戦いとなった。マケドニア密集歩兵の密集隊形と比べ、ローマの軍団は柔軟な戦い方が可能であり、それにより勝利したといえる。 マケドニア密集歩兵とローマ軍団兵(レギオン)の衝突はキュノスケファライの戦いにおいても、隊列が組めるところでは密集歩兵が 優勢であったが、一旦それが崩れると壊滅に至るということはあったが、それと同様の展開が発生した。また、マケドニア軍の戦い方 にも問題があったようにみえる。ペルセウスが戦場から離脱する際にマケドニア騎兵部隊はそれほど損害を受けていない状態で あり、歩兵と騎兵がうまく連動して戦っていた様子は見られない(実際、戦場を離脱した後、騎兵に対し生き残った歩兵たちが 怒りを爆発させている場面もある)。そもそも、ペルセウス自身がこの戦いで満足な指揮、指導が取れていたのか定かでない。 一説にはいち早く敵前逃亡し、ピュドナに逃げてしまった(その際にヘラクレスへの供儀を理由にした)、また別の説では 負傷していた、いろいろな理由が挙げられている。しかし、準備や段取りについては力を尽くすが、肝心のところであまりうまくない というのはペルセウスの第3次マケドニア戦争中の行動としてよく書かれていることではある。

  • 王朝の滅亡
  • ペルセウスは王都ペラまで逃れ、騎兵の多くを戦いから救い出していた。しかし後から追いついてきた歩兵たちが騎兵たちを ののしり、小競り合いが発生した。ペラに戻ったペルセウスは財貨をかきあつめるとクレタ人傭兵や近習たち、「友人」たち、家族を伴い アンフィポリスへうかった。そしてサモトラケ島まで逃亡し、カベイロイの社で命乞いをした。

    その間にマケドニアの諸都市はローマ軍に降伏し、アンフィポリス近郊に陣営を置いた。ペルセウスは使節を送って交渉を行った が不調に終わり、そうこうするうちにローマ艦隊がサモトラケ島にあらわれた。ペルセウスは島からの脱出を試みるがクレタ人に 財貨を騙し取られて失敗に終わった。そして、近習や「友人」たちもペルセウスの元を離れていくなか、とうとうペルセウスは ローマ艦隊に身を委ねた。

    アエミリウスの陣営に引き出されたペルセウスにたいし、アエミリウスはなぜ戦争を起こしたのかを尋ねたがそれにたいして満足に 答えることができず、この様子をみたアエミリウスはローマ軍将校たちに対しペルセウスの姿から教訓を得るように話したという。 紀元前167年、ローマで挙行されたアエミリウスの凱旋式において、戦利品の像や絵画、マケドニア軍の武具、銀貨や金貨、豪奢な 什器、ペルセウスの子供達、そしてペルセウス本人が引き回された。ペルセウスは凱旋式が終わった後に投獄されたが、程なく釈放 され息子と共にアルバで余生を過ごしたともいわれている。そして、マケドニア戦争の戦利品はイタリアから直接税をなくすほど のものであった。

    アンティゴノス朝が支配するマケドニア王国は消滅し、その領土は4つの共和国に分割され、相互の交通の禁止や鉱山採掘の禁止 、塩の輸入禁止や木材切り出しの禁止、さらに国境の守備隊以外は武装が解除されるなどの制約が課せられた。またかつての王国軍人や 王族、近臣、官吏はイタリアへと移住させられた。マケドニアはローマの支配下での自由が認められただけの状態となっていった。しかし、 アンティゴノス朝が滅びてから後、前148年にマケドニアで起こった反乱をきっかけに4つの共和国も廃止され、属州マケドニアとして ローマの1属州となった。こうして、マケドニア王国は地上から消え、さらにマケドニアという独立した国家も消滅したのであった。



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