カタストロフ
〜第2次マケドニア戦争〜


  • 第2次マケドニア戦争開始
  • 前200年夏、元老院の主戦派ガルバの説得により会戦を決議したローマはその年の秋になると2万〜2万5千のローマ軍を率いてガルバが バルカン半島に上陸した。アポロニアに上陸したガルバ率いるローマ軍はアンティパトレイアに進撃して攻め落とし、この町を破壊し住民を 虐殺した。ローマはさらにいくつかの都市を攻め落としたが、それを見ていたダルダノイ人やイリュリア人、アタマニア人の王達はローマの 陣営を訪れ、ローマを支援することになった。また、ローマの艦隊の活動はかなり速やかに行われた。30隻の船でコルキュラを制し、エペイ ロスを封鎖し、20隻の船がペイライエウスを占領するために派遣され、ロドスやアテナイの船とともにカルキスを襲撃した。このような動き に対し、アビュドスを陥落させた後マケドニアに戻っていたフィリッポスは前200年秋にアッティカを襲撃した後、アルゴスへ向かい、アカ イア同盟の総会に赴いた。そこでアカイア同盟に対して、スパルタ王ナビスとの戦争を支援する代わりに自分に協力するように訴えたがアカ イア同盟はそれを拒否した。アルゴスから本国へ戻る途中でフィリッポスはアッティカを襲撃し、前200/199年の冬をマケドニアで過ごすこ と となった。前200年の秋、ローマもロドス、アテナイと同盟を結び、アンティオコス3世(シリア王)のもとに使者を派遣してフィリッポス支援 の意思がないことを確認し、エジプトとも良好な関係を築きあげた。クレタ島の反フィリッポス派の年はアテナイ、ローマを支援した。一方、 アイトリア同盟はアテナイやアミュナンドロス(アタマニアの王)の働きかけにもかかわらず中立を保っていた。

    ローマの外交が概ね成功した理由の一つをあげるなら、ギリシアの自由の守護者であるという姿勢をとったことが挙げられる。アイトリア 同盟からの乖離、ロドスやアテナイとの友好関係というローマの姿勢は同盟のヘゲモンとして自由を指示するというフィリッポスより好ましく 見えたようである。またローマの軍事力がマケドニアを遙かに上回ることから、ローマにつく方が勝算が高いということも関係するであろう。 また第1次マケドニア戦争ではローマは攻略した都市を占領せずギリシアを自由にしておく一方、マケドニアは常にギリシアに圧力をかける 存在であったこともマケドニアよりローマにつこうと考える勢力を増やす要因であった。

    前199年、フィリッポスはマケドニアの防衛のために艦隊はデメトリアスにおき、北西部ではペラゴニアの山道にペルセウスの指揮する部隊を 配置し、主力部隊はリュンコスのヘラクレイア付近に軍を配置した。これによりローマ軍とイリュリア・ダルダニアを分断しようとしたという。 一方ローマ軍は基地を経って湖水地帯へ入り糧秣を補給した。そしてローマ軍とマケドニア軍のあらそいはマケドニアの北西部において始まった。 フィリッポスは歩兵2万、騎兵2000を率い、3万のローマ軍と戦うことになった。真正面からあたるのでなく、守りを固め、糧秣調達部隊を襲 い、 ローマ軍が物資の不足で撤退せざるを得ない状況に追い込もうとし、その作戦はリュクニティス湖の南側地域で成功しかけた。しかし作戦が失敗、 彼は夜のうちに逃げ去ることを余儀なくされ、ローマ軍はリュクニティス湖を北上しペラゴニアに入りそこでも糧秣を集めようとしたときに道中 でマケドニア軍がローマ軍を襲撃、ローマ軍は一時撤退した。またマケドニア軍が要所を固めているのを見たローマ軍はイリュリア人やダルダノ イ人の助けでマケドニア軍を撃退、フィリッポスはまた別の場所の守りを固めて備えた。結局フィリッポスはマケドニア中心部への進路を抑え、 ローマ軍はエオルダイア、エリメイア、オレスティスを掠奪する作戦をとり、その結果オレスティスはローマ側についた。ローマ軍はさらに進み、 ペリオンという町を攻略し、前進基地とした。ローマ軍がマケドニア西部を荒らしているのをみてアイトリア同盟もローマ側について参戦、アイ トリアとアタマニアの軍勢がテッサリアとペライビアへ侵入した。この時、フィリッポスは速やかに軍を送り彼らを撃退した。一方、海上でも ローマ側の艦隊が活発な活動を見せ、エーゲ海上で作戦を展開し、マケドニアを苦しめていた。このような形で前199年の戦いは続いていった。

    このような状況でフィリッポスはリュシマケイア(ケルソネソスの)から守備隊を撤退させるとともに、オルコメノス、ヘライア、アリフェイラ、 トリフュィアなどに置いていたマケドニア守備隊を撤退させて軍勢を手許に集めた(オルコメノス以下の場所はアカイア同盟に譲り渡すつもり であった)。しかしアカイア同盟は彼の期待通りにマケドニア側につく、ということはなかった。前199/8の冬の間にフィリッポスは軍勢の強 化を 進め、前198年の作戦行動としては今までと同じように敵を疲弊させ、妥当な条件で協定を結ぶことを考えていたようである。前198年、彼は エペイロスとの境界にあるアオオス峡谷を占領しローマ軍の侵入を阻止する動きに出た。一方、ローマの ほうでも動きがあった。前199年の秋にガルバが退き、タプルスが新たな指揮官となったが、タプルスはマケドニア軍との戦闘に入る前に交替 させられた。タプルスはイタリアでの兵集めにとまどったり、バルカン半島上陸後は軍隊に反抗されるなどうまくいっていなかったが、マケド ニア軍と対峙しつつ何もせぬ儘時間を浪費して任期を終えてしまったわけである。しかしタプルスの後任としてやって来た指揮官が戦局を大きく かえることになる。

  • フラミニヌス登場
  • 結局何もしなかったタプルスにかわって新たに指揮官としてやって来たのはまだ30歳に満たないにもかかわらず最高司令官に任命されたフラミ ニヌスであった。彼は下位の公職についた経歴もなくいきなりコンスルに当選し、マケドニア遠征軍司令官に任命され、前198年5月頃に司令官 が交代した。そしてその年の夏、アオオス河岸にてフィリッポスとフラミニヌスの会談が行われた。この時両者は川を隔てて話し合いをした が、ローマからは掠奪した国々への賠償、全ギリシアからの撤退要求が出され、フィリッポスからは占領地からの撤退が提案された。この時、 フィリッポスからフラミニヌスに対して撤退すべき国はどこかという問いかけがなされ、フラミニヌスはテッサリア諸国であると答えた。この 答えはフィリッポスにはとうてい承伏しかねるものであった。そして会談は中断、再び戦闘が再開された。この時ローマ軍はカロポスという エペイロスの有力者の助けを得てフィリッポスをアオオス河畔の阻止地点から追い出すことに成功した。その時の作戦は次のような形であった。 マケドニア軍の攻撃(投石機による攻撃や高所からの散兵による攻撃、峡谷の最狭部では平らなところに密集歩兵がいる)に苦しむローマ軍に 対して、迂回路を通り3日目に山の上にでるという作戦がカロポスの支持により可能となった。騎兵300騎、歩兵4000を送り出し、昼は休み 夜に 進軍していった。フラミニヌスは2日間軍を平静にさせ、敵を引きつけながら軍勢が山の上に現れるはずの日に夜明けとともに行動を起こした。 全軍を3つに分けてマケドニア軍と戦い、山の上に出た兵士たちもマケドニア軍に襲いかかり、勝利を収めた。フィリッポスは2000の犠牲を出 し 撤退したという(ローマ側の犠牲は不明)。

    フラミニヌスは現地人の支持を得る努力をしながらその後も進軍を続けてテッサリアに入った。エペイロス連邦に対しては過去の敵対関係を わび、彼らの中立を勝ち取ることに成功した。また軍に掠奪を許さなかったことも人々の心をつかんだ。そして、アタマニア、アイトリア同盟 の支援やローマ艦隊に助けられて戦果を挙げていった。アイトリア同盟やアタマニアによりテッサリアにおけるマケドニアの拠点が攻略され、 フラミニウスの兄が率いるローマ側の艦隊がエーゲ海で活発な活動を展開しエウボイアのマケドニア軍拠点が攻撃され、艦隊はケンクレアイを 攻略しコリントスを脅かすべく南へ向かった。一方、フィリッポスはローマやアタマニア、アイトリア同盟の攻撃からテッサリア南部を守る 事が難しいと考えて人々をマケドニアに移し、都市を焼き払ったほか、アイギニオン、ファロリア、アトラクスという要衝となる場所に兵を 配置したが、このなかでファロリアはローマ軍により破壊された。フラミニウスは南へ動き、フォキスへ入りそこを制圧していった。そして 前198年10月にはアカイア同盟をローマ側につける事に成功した。アカイア同盟がローマと同盟を結んでマケドニアと戦うことを選んだ。 この間フォキスではエラテイアが降伏し、オプスもローマが攻略した。一方、アクロコリントス攻略は失敗し、アルゴスもマケドニア側に留ま った。前198年の晩秋、フィリッポスから使者が送られてきて、ニカイアで話し合いが行われ始めた。

    ローマの要求はカルキス、アクロコリントス、デメトリアスなど全ギリシアからの撤退、逃亡者、捕虜引き渡し、イリュリアの占領地やエジプ トから奪った場所の引き渡しであった。交渉は難航し、フィリッポスは直接元老院に使者を送ることを提案、ローマ側もそれに同意した。交渉 参加国の全代表がローマに向かい、2ヶ月の休戦期間が設けられた。しかし元老院が厳しい態度で臨んだこともあり交渉決裂、戦争が継続された。 フラミニヌスはその間ギリシア人を解放するために戦っているという姿勢を宣伝し続けて味方を増やし、さらにプロコンスルとして指揮権を 延長された。彼は前198年から前197年にかけてスパルタと友好関係を結び、ボイオティア同盟を自分の勢力下におさめた。これによりフラミ ニヌスの権威はギリシアの大部分に及ぶようになり、一方フィリッポスはコリントス、カルキス、デメトリアスの3市やアカルナニア、テッサ リアの一部をおさえるのみという状態になった。そして前197年にフィリッポスとフラミニヌスの間で決戦が行われることになるのである。

  • 決着
  • 前197年、フィリッポスとフラミニヌスはそれぞれテッサリアに向けて進軍した。双方とも春分の頃に移動を開始、フィリッポスは基地と してディオンを選び、そこを出発してテッサリアへ入りデメトリアスを目指した。一方のフラミニヌスはエラテイアを発って海岸にそい、 テルモピュレーを通ってさらに北上した。そしてフィリッポスとフラミニヌスはフェライからそう遠くない所に陣を敷いた(北のほうにフィ リッポス、南のほうにフラミニヌス)。そして双方の偵察部隊が遭遇し、小競り合いが始まった。しかし互いにそこでの戦いは地形的にあま り都合が良くなかったためか、互いに移動を開始した。双方ともに西に移動し、スコトゥッサへ向かった。フィリッポスのほうは軍に食糧を 補給するため、フラミニヌスのほうはそれを妨害するため移動した。丘陵地帯が間にあったためにフィリッポスとフラミニヌスはお互いの 位置を知ることはできず、移動開始から3日目の朝にフィリッポスは移動しようとしたが霧が立ちこめていたため移動が難しいと判断すると 少数の偵察部隊を送り出した。そして偶然にも同じような目的でフラミニヌスが送り出したローマ軍と遭遇し、戦闘が始まったのであった。

    キュノスケファライの戦いでフィリッポスはマケドニア歩兵18000、騎兵2000、軽装歩兵5500からなる軍勢を率い、フラミニヌスは全 部で 32500の軍勢を率いていた。キュノスケファライの戦いは密集隊形を組むマケドニア軍とハンニバルとの戦いを経験し、軍団兵を巧みに運用 するローマ軍の激突となった。少数の部隊の衝突の後、両軍とも軍勢を繰り出し、霧が晴れてくると全軍がぶつかり合った。始めの衝突では フィリッポスが優勢であった。丘をおりるマケドニア密集歩兵の圧力によりローマの軍団兵は交代を余儀なくされた。しかしマケドニア軍の ほうでは丘を越えていく際に密集隊形が維持できなくなり、そこをローマ軍の別の軍団兵や象部隊によって突かれて大敗を喫したのであった。 この戦いでフィリッポス側は死者8000、捕虜となった者5000、フィリッポスはかろうじて逃げおおせたものの軍の半数以上を失う大敗北で あった。

    テンペまで逃げたフィリッポスの許にはアカルナニア人のレウカス撤退やカリアのマケドニア軍の敗北、コリントスの守備隊が追い出された ことといった状況がさらに悪化している知らせが次々に入ってきた。そしてフィリッポスは当時ラリッサにいたフラミニヌスに使者を送り 4ヶ月の休戦を申し出て認められた。しかしこの間にもダルダノイ人が上部マケドニアに侵攻し、マケドニア中心部にも侵入してきた。フィリ ッポスは騎兵500と歩兵6000を集め彼らを撃退することに成功したが、今度は西部のオレスティスが反乱を起こしたり、ボイオティアでも親 ローマ派による騒擾が発生した。前196年、ようやく講和条約の内容が元老院で決定され、フィリッポスは賠償金1000タランタを支払う、軍 艦 保有数を10隻に限定する、さらに次男デメトリオスを人質としてローマに送るといった内容が盛り込まれた。マケドニア王国そのものは残され たが、ギリシア解放の要求は受け入れざるを得ず、ギリシアと小アジアのギリシア人の自由回復、占領していたギリシアのポリスの引き渡しが さだめられた。そしてフラミニヌスは前196年6月ころ、イストミア祭にてギリシア各国の代表者を前にして「ギリシア人の自由」宣言を行っ た。 第二次マケドニア戦争では、特にフラミニヌス着任後に顕著になるが、常にローマ側が主導権を握り、フィリッポスは不利な状況に追い込まれた。 巧みな外交によりギリシア本土ではローマにつく者が増えマケドニアの勢力が弱まっただけでなく、実際の戦闘でもフラミニヌスはフィリッポス より上手だった。こうしてフィリッポス5世のもとで進められてきたマケドニア王国の拡大政策は第二次マケドニア戦争の敗北と占領地からの 撤退、軍備縮小という形で終焉を迎えた。


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