拡大政策と対立
〜第2次マケドニア戦争前夜〜


  • 東方進出への道
  • 第1次マケドニア戦争が集結した後、フィリッポス5世はエーゲ海・小アジア方面への進出を積極的に行うようになる。前204年の フィリッポスの活動については曖昧な点も多いが、バルカン半島の安定、クレタ島の海賊との連携、そして必要な軍艦の建艦費用を調達 するための海賊行為といったことが知られている。エーゲ海方面での勢力拡大を図るためには艦隊が必要であり、そのための軍艦建設に ついては前208年よりカッサンドレイアにて始めていた。しかし資金不足もあって第1次マケドニア戦争終結時点でもまだ船は未完であ った。その資金を調達するためにフィリッポスがとったのが海賊行為であった。

    マケドニア、エジプトがエーゲ海を支配下に置こうとして争った時代は過去の物となり、当時エーゲ海で強い力を持ち、海上の安全のため 力を尽くした国はロドスであった。エーゲ海きっての海運国家ロドスにとり戦争や海賊行為は時刻に不利益をもたらす物であったため、 ロドスが海上安全の維持をになうようになり、海賊討伐もおこなっていた。一方当時海賊行為で有名だったのはクレタ島であり、ロドスは クレタに対して戦争を仕掛け、両者の間であらそいが激しくなっていった。この両者の争いにおいてフィリッポスはクレタを支援し、ロドス を牽制する動きを見せた。フィリッポスはクレタを支援するのみならず、アイトリア人ディカイアルコスをつかってトローアス地方の都市や キュクラデス諸島を標的に海賊行為をおこなわせた。さらにロドスに対してもヘラクレイデスの策略をもってロドスの三段櫂船を焼き討ちに したという。

    いっぽう、バルカン半島でも前204年の夏頃、フィリッポスはイリュリア、トラキア方面で戦闘を繰り返していた。トラキア方面ではかつて この地域で強い力を持っていたオドリュサイ人たちと交渉して何らかの合意を取り付けることに成功し、イリュリア方面ではマケドニアの 長年の敵であるダルダノイ人と戦い、1万人の敵を死に至らせる大勝利を収めた(参考までに、フィリッポス2世がバルデュリスに勝利した ときの敵の死者は7000人である)。このようなトラキア、イリュリア方面での軍事行動によりマケドニアの辺境地帯はしばし安定したようで あり、以後前200/199年冬までは安定していたようである。そして、前203年春頃にはディカイアルコスの海賊行為による蓄積を資金とし て 艦隊建造に着手した。

    このようにしてフィリッポスがバルカン半島安定や艦隊建造、海賊行為をおこなっているころ、地中海の勢力バランスが変化しつつあった。 まず前205/4年の冬にセレウコス朝のアンティオコス3世が東征を成功裏のうちにおわらせて東方世界から帰還し、ついで前204年秋には プトレマイオス朝のプトレマイオス4世が死去した(なお、アンティオコスの侵入を恐れたエジプトにより死んだことは隠された)。 アンティオコスへの恐れから当時エジプトはフィリッポスとも同盟を結ぼうとした。王家の婚姻を計画したり、コイレ=シリアへのシリア の侵攻に対してマケドニアの助けを求める使者を送るなどしたが、結局こうした努力は報われなかった。というのも、フィリッポスは前203/2 年の冬にアンティオコス3世と同盟を結び、エジプトの海外領土の分割所有を秘密裏に約束したためである。アンティオコスはコイレ=シリアへ、 フィリッポスはトラキアやエーゲ海方面のエジプト領と言った具合でそれぞれの進出先を決めると、フィリッポスはその後しばらくして行動を 開始するのであった。

  • 成功と失敗と
  • アンティオコス3世と同盟を結んだフィリッポスは前202年、エーゲ海ではなくプロポンティス、黒海方面へと向かった。新しく作った 艦隊を使ってリュシマケイアとカルケドンにアイトリア同盟から離脱するよう圧力をかけ彼らをマケドニアと同盟を結ばせ、マケドニア の指導者を受け入れさせ手実質的にマケドニア王国の一部とした。さらにプロポンティス北岸の町ペリントスが併合され、その後にキオス と言う町を攻撃した。リュシマケイア、カルケドン、キオスはアイトリアと同盟を結んでいた町であり、当初のフィリッポスの活動は アイトリア同盟に対して向けられた物であった。キオスの町に対するフィリッポスの処遇は苛烈であり、住民は奴隷とされ、都市は劫略 されたのち、フィリッポスに協力するビテュニア王プルシアスに与えられた。

    キオスから戻る途中でフィリッポスはタソスの自由都市を攻略し、ここも住民が奴隷として売られた。タソスはマケドニアとトラキアの 向かい側にある島であり、エーゲ海へ進出しようとするフィリッポスにとってきわめて重要な場所であったため、ここを攻撃したのであろう。 前202年の遠征はフィリッポスの勢力拡大という結果をもたらし、その点では成功したと言える。なお、このころアイトリア同盟はフィリッポス の行動をローマに訴えて支援を求めるがローマに拒否された。このこともフィリッポスにはきわめて都合の良いことであった。

    翌前201年春、フィリッポスは再び艦隊を率いて遠征に乗り出した。今度はキュクラデス諸島、小アジア方面へと向かっていき、キュクラデス 諸島はフィリッポスによりその多くが攻略された。当時キュクラデス諸島はロドスの保護下にあり、これを攻略したと言うことはロドスとの対決 を避けがたい物とし、ロドスはフィリッポスと戦うことを決定した。一方、フィリッポスは当時エジプトの支配下にあったサモス島も攻略し、 そこに停泊していたエジプトの艦隊および乗組員を接収し自軍に加えた。このようにフィリッポスはキュクラデス諸島を攻略、さらにサモス島 もおさえて勢力を拡大していたが、この動きは当然他の諸国から警戒されることとなり、ビュザンティオン、ロドスやペルガモン王国といった 勢力が反マケドニア側に立ち参戦してきた。

    前201年、フィリッポスとロドス、ペルガモンの関わった戦いはキオスの海戦、ラデの海戦、フィリッポスのペルガモン攻撃といったものがあ る。 これらの出来事の編年を巡っては議論があり、史料であるポリュビオスの記述順に従いキオスの海戦の次にラデの海戦があったとする説と、 ラデの海戦をキオスの海戦より先にあったと見る説がある(注:Walbank,F.W. a historical commentary on Polybius IIにおいて議論されているが、そこでの結論でもある前者の説に従 う)。

    前201年、サモス島を押さえたフィリッポスはキオス島への攻撃を行い、キオスの町を包囲・攻撃した。一方ロドスの艦隊がビュザンティオン、 ペルガモンの艦隊と合流すべくロドスを出発しており、キオスからサモスへ向かおうとするフィリッポスにロドス、ペルガモン等同盟軍の艦隊 が迫り、ここにキオスの海戦がおこった。キオスの海戦は激戦になったがアッタロスがエリュトライへ逃げ、ロドス艦隊はキオスへと撤退し、 フィリッポスは勝利を主張した。ポリュビオスによると損害はマケドニア軍の方がはるかに多く、大型船(28隻/53隻)、レンボス(半数以 上) を多数失い、兵士や船員の死者・捕虜を多数出したというがこれは誇張されている可能性がある。同様に誇張の可能性が大きいが兵士3000、 船員6000、捕虜が3000と書かれている。いっぽう同盟軍は損失ははるかに少なく65隻中8隻の大型船、軽い船1隻という書かれ方であ る。

    キオスの海戦の損害の実際の数はさておき、かなりの損害を出しつつもフィリッポスは勝利し、今度は逃げたアッタロスをおって自ら軍を率 いてペルガモンへと向かった(前201年夏)。しかしフィリッポスによる収穫物などの略奪を未然に防ぐというアッタロスの抵抗に遭い、それ に対してフィリッポスは市壁外の神域に侵入して神像や神殿を徹底的に破壊し、ニケフォリオンの神聖なオリーブの木を切り倒したという。 なお、アッタロスはアイトリア同盟にマケドニア侵攻を求めるが試みは失敗した。その後フィリッポスは内陸部を移動しながら各地を攻撃 しつつ南へ進み、この時にアンティオコスとの秘密同盟のおかげでサルディスにいるセレウコス朝の支配者ゼウクシスから支援を受けること が出来た。そして南へと下っていったフィリッポスは恐らくサモスからそう遠くないところで艦隊と合流して南へ向かい、ロドスの艦隊と ラデ島沖にて激突した。ラデ沖の戦いの結果はフィリッポスの勝利におわり、その後彼はミレトスへと入り、ここで彼とヘラクレイデスが冠 を授けられた。

    その後フィリッポスはカリア(小アジア南西部)進出を目論んでミレトスから出航してクニドスを攻撃しいくつかの砦などを攻略した。 その後彼はペライア地域(ロドスの小アジア本土領)へと侵攻し、この時に計略を以てプリナッソスを落としてここをおさえて、さらに北へ 進撃してイアソスを占領した。さらに内陸のエウロモス、ペダサといった町も攻略し、カリアをおさえつつあった。ここまではフィリッポス の軍事行動はおおむねうまくいっていたようであるが、状況を一変させる事態が発生した。フィリッポスはペルガモンとロドスによってバルギ ュリス湾に艦隊が閉じこめられてしまい、軍もそこから動けず前201年冬をロドスとペルガモンに封じ込められた状態で過ごさねばならなかっ た。 食料の調達にも苦労し、そのためにはミュラサ、アラバンダ、マグネシアといった辺りを略奪し、そのありさまは「狼のような生活」と後に ポリュビオスに書かれたほどであった。

  • ローマの介入
  • 前201年秋、ロドスとペルガモンはローマに使者を送り救援を求めた。夏の終わり頃にマケドニアとシリアの秘密同盟が発覚したこと もあり、ロドスとペルガモンはマケドニアとシリアの同盟がローマにとって脅威になるという方向で話をしたようで、ローマもマケドニアへ の宣戦を民会に諮るが前200年始めの時点では否決された。一方バルギュリス湾に閉じこめられていたフィリッポスは奇策を労して春に脱出し、 僅かばかりの軍勢を小アジアに残してマケドニアへ帰還した。帰還したフィリッポスのもとに届いた知らせはアカルナニア人からエレウシス 秘儀への参加を試みて捕らえられたため復讐したい、そのために助けてほしいというものであった。マケドニアとシリアの同盟が判明した 後、アテナイはマケドニアに対する態度を硬化させ、後継者戦争中に作られたアンティゴニスとデメトリアスの2部族を抹消していた。こう したこともあってフィリッポスはアカルナニア人を支援し、アッティカを略奪することを決定した。

    マケドニアはアカルナニア人を支援し、さらにアテナイの軍船4隻を奪っていったが、アテナイはロドスとペルガモンに助けを求め、かれらが 軍船の奪回と沿岸警備に協力した。さらにロドスはキュクラデス諸島の大部分をマケドニアから取り返していった。ロドス、ペルガモンの助け を受けたアテナイはやがてマケドニアに宣戦布告し、フィリッポスはニカノルに軍勢を与えてアッティカを襲わせ、さらにフィロクレスをエウ ボイア島の支配者として彼にもアテナイを攻撃させた。同じ頃フィリッポスはトラキアへの遠征を開始し、マロネイ、アイノスをとり、さらに ケルソネソス方面にも進出していった。そして夏の終わりには小アジアへ渡りアビュドスを攻撃した。しかしフィリッポスがこのような活動を 展開しているころ、事態は大きく代わり始めた。ローマが重い腰を上げて東方へと介入してきたのである。

    第1次マケドニア戦争終結後、ローマの東方への対応はあまり積極的でなかった。前202年にアイトリア同盟から救援を要請されたときも それにこたえず、ロドスとペルガモンの使節が来たときは元老院が東方派兵を決議し、民会も主戦派のガルバをコンスルに選んだにも関わ らず、同じ民会が前200年1月に開戦を否決したと言うことがあった。しかし前200年春、元老院の使節団が東方へ旅立ち、アテナイにおいて マケドニアの将軍ニカノールにギリシア撤兵を求める元老院の要求を手渡した。そしてアッティカでの状況やフィリッポスのトラキア遠征 にと言った出来事が重なったこともあり、前200年7月、ちょうどアテナイからの使者がローマに来た頃、民会が開戦を決議した。そして、 そのことが元老院の使節団にも伝えられ、使節団の一人アエミリウス・レピドゥスがロドスから当時アビュドスを攻撃していたフィリッポス のもとへ行き宣戦を伝えたのであった。ギリシア諸ポリスや小国家は大国と結ぶことによって何とか生き残っており、それらの国にとり フィリッポスの拡大路線は脅威以外の何者でもなく、それゆえに自らを守るためにローマに使者を派遣して助けを求めたのであった。


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