つかの間の平和
〜対ローマ戦へ〜


  • 同盟市戦争終結
  • 前218年夏から秋にかけて、マケドニアの宮廷ではフィリッポス5世がアンティゴノス3世の残したアペッレスら側近たちを処刑し、追放 することにより自らの権力基盤を固めていった。そして彼は軍勢を越冬させるべくマケドニアに帰して自らはテッサリアのデメトリアスに入り、 レオンティオス派のプトレマイオスをを裁判を行って死刑とした。一方、その年の冬にアイトリアとエリスがアカイア西部を攻撃した。 前217年になるとフィリッポスはまずマケドニアへと向かったが、当時北方でダルダノイ人がマケドニアの北辺を脅かしていたためである。 そして前217年にパイオニアのビュラゾラという街を占拠してダルダノイ人のマケドニアへの侵入を食い止めることに成功した。この都市を 占拠して安全にすると、マケドニア各地に対して動員をかけてエデッサに軍勢を集結させ、そこからラリサへと向かった。

    前217年に入っても同盟市戦争が終わる気配はなく、各地で争いが続いていた。アカイア同盟とマケドニアがナウパクトスとカリュドンを 荒らし回った。前217年春にアラトスが将軍に再任されて軍を立て直し、メッセニアを敵の襲撃から救うとともにアカイア襲撃をもくろむ アイトリア同盟とエリスを破るなどの成果を上げていたが、この襲撃アカイア同盟の勢力が復活してきたことと関係するようである。一方 アイトリア同盟はアカルナニアやエペイロスを荒らし回った。その他、イリュリアのスケルディライダスがフィリッポスによる金の未払い が協定違反にあたるとして金を手に入れるべく快速艇15隻を送り出し、彼らはレウカス島に入港して4隻の船を捕らえたのみならず商人に 対する襲撃を行うなどフィリッポスと対立した。このような事が起きている頃フィリッポスはテッサリアへと入っていたのであった。

    エデッサを出て6日でラリサにたどり着き(200キロほどの距離を6日で進んだ)、さらに夜も行軍を続けて早朝にメリタイアという都市へ 到着するとすぐさま攻撃を仕掛けた。城壁に梯子をかけて急襲して都市を攻略しようとしたが梯子の長さが足りないという準備不足故に失敗した。 しかしフィリッポスはこの失敗の後にラリサなどから冬の間に作った攻城具を集めてフティオティス・テーベを攻撃した。フィリッポスの真の 目的はフティオティス・テーベであり、マグネシアとテッサリアに対して好位置にあるこの都市は当時アイトリア人が占領しており、彼らの テッサリア侵入の拠点となっていたためである。激戦の末にこの都市を攻略したフィリッポスは都市の住民を奴隷に売り、マケドニア人を入植 させて名前もフィリッポリスと名付けた。丁度都市を攻略した頃にフィリッポスの元にキオス、ロドス、ビュザンティオン、プトレマイオス王の もとから使者がやって来た。使者を迎えたフィリッポスは彼らをアイトリアへと送り出し、自らはスケルディライダスを討つことを名目に軍船を 集め、イストモスからコリントス地峡を越えてコリントス湾へ入る船とペロポネソス半島をまわりコリントス湾のパトライとアイギオンへはいる 船に分けたうえで自らはネメア競技会を目指してアルゴスへと向かった。

    艦隊を送り出して時点ではフィリッポスはアイトリア攻略に全力を注いでころであった。しかし前217年夏、ネメア競技会を見物していた彼の もとにイタリアでハンニバルがローマ軍を破った(トラシメヌス湖の戦い)という知られが伝えられた。この時フィリッポスはファロスのデメ トリオスにのみこっそり相談しフィリッポスに野心を抱かせたということを伝えるポリュビオスの記述がある。デメトリオスはポリュビオス では悪い相談役としての役目を負わされており、実際には彼一人の意見で決定が下された訳ではないであろうが、ローマとの関係では側近中で は彼が最も詳しく、彼にも意見が求められたことはあった程度のようである。いずれにせよハンニバル勝利の知らせを聞いたフィリッポスが 自軍優位の状況でアイトリアとの講和を結ぶことを考えはじめ、前217年夏(8月頃)にナウパクトスの和約が結ばれて同盟市戦争は終結した。 和約の内容は現状維持であり、当初の目的は達成されていないがフィリッポスやアカイア同盟側の勝利という形で戦争が終結したのであった。

  • ハンニバルとの同盟
  • ナウパクトスの和約を締結したフィリッポスはマケドニアへと戻っていった。そこで彼はスケルディライダスがペラゴニアやダサレティスへ 侵入して都市を襲撃しているという事を知ると前217年秋にスケルディライダスに対して攻撃を仕掛け、これらの都市を取り返したのみならず さらに西方へと占領地を広げていき、アドリア海沿岸部のローマの勢力範囲の近くまでマケドニアの勢力圏を広げた。フィリッポスは冬の間 に快速艇を100隻準備し、マケドニア人に船をこぐ訓練を施すと夏の初めに軍を集めて出発しケファレニアとレウカスの領域に到達し、さらに アポロニアの方へと向かった。しかしそのときにフィリッポスのもとにある情報がもたらされ、それによってフィリッポスはマケドニアへと 撤退することになる。

    フィリッポスが耳にした情報とは、シチリア島からやって来たある船から、レギオンにてスケルディライダスのもとに向かうローマ人の船を 見かけたという情報であった。実はフィリッポスに対抗するため、スケルディライダスはローマと手を組んでおり、助けを求めていたのである。 実際にローマの軍船は10隻、搭乗員は4000人であり、それとスケルディライダスの艦隊が一緒になると、快速艇100隻しかないフィリッポ ス の艦隊では勝ち目はなかった。フィリッポスがローマの軍船に関する情報を知った時点ではローマの軍船の数は不明であったが彼がローマの軍船 とスケルディライダスの艦隊の間で挟まれる可能性があった。また彼の艦隊は急襲用であり艦隊同士の戦いに仕える船ではなく、食料や水も少な く、 停泊できる港を近隣に持たなかったため、結局ケファレニア島へと撤退し、そこからマケドニアへとかえっていったのであった。

    マケドニアへと戻ったフィリッポスのもとにハンニバルがカンネーの戦いでローマ軍を破り、南イタリアがローマに反抗したという知らせが 伝わってきた。そして前216年冬よりフィリッポスはハンニバルとの交渉を開始し、前215年にハンニバルと同盟を結んだのであった。なお ローマはマケドニアの使者クセノファネスを捕らえたときにマケドニアとハンニバルの同盟を知ったという。両者の同盟はフィリッポスが ハンニバルに助力することや、ハンニバルとローマの平和条約にはフィリッポスに対する和平や攻撃禁止もふくむこと、フィリッポスが イリュリア保護の権利を持つこと、ローマが攻撃してきた場合は相互に援助することが定められていたという。そして、この条約を締結した ことによりフィリッポスはローマと敵対関係になり、第1次マケドニア戦争が勃発したのであった。

    ハンニバルとの同盟を結んだフィリッポスは前215年にコルキュラを攻撃し、それは成功した。さらに前214年夏にはアポロニアへと120隻 の快速艇からなる艦隊を送ってこれを襲撃し、フィリッポス自身もエペイロスを経由して軍を率いて攻撃した。しかしアポロニア攻略には 失敗し、その後オリクムを攻略して占領した後でアポロニア攻撃を継続した。しかしローマの艦隊がカラブリアから出航してオリクムを占領 した。そして夜陰に乗じて2000の兵がアポロニアに入ると彼らはアポロニアを攻撃していたマケドニア軍に夜襲をかけた。フィリッポスは 3000 の兵を失い、攻城具を失った。さらにローマ軍はマケドニアの艦隊を捕らえてしまい、フィリッポスは結局アポロニア攻略を諦めざるをえなく なった。陸海ともに敗北を喫したフィリッポスはイリュリアの沿岸に港を得ることに失敗し、一方でローマはオリクムに艦隊を置きオトラント 海峡はローマによっておさえられた。

    フィリッポスのアポロニア攻撃にはギリシアの同盟軍も参加していたが、アカイア同盟のアラトスは遠征参加を拒んだ。アラトスとフィリッポス の関係はアポロニア攻撃以前、前215年の秋頃メッセニアで民主派と寡頭派の党争がおこり、そのときの処置をめぐって両者の関係は冷え つつあった。その後アポロニア攻撃に失敗してフィリッポスが撤退し、前214年に再びメッセニアへ介入した。この時フィリッポスはファロスの デメトリオスに指揮を任せて送り出したがデメトリオスはそこで戦死し、その後やって来たフィリッポスがメッセニアで略奪を働いたという。 その後前213〜前211年まではローマはシラクサやスペインで闘い、タレントゥムでハンニバルと闘っていたためにギリシアへと介入する余裕 は なく、その間フィリッポスはイリュリアで勢力を拡大していた。デマッルム、パルティニ、アティンタニを支配下に置き、アポロニアとエピダム ノスを孤立させた。彼の目はそれにとどまらずローマの勢力圏のイリュリア都市にも向けられ、リッソスを攻撃してこれを落とし、それを見た 他の都市もフィリッポスに対して門を開いた。このような動きを取るフィリッポスに対抗すべく、ローマはアイトリア同盟と手を結ぶことになる。 そしてこれにより曲がりなりにも安定していたギリシア情勢はにわかに戦争へと向かっていくことになるのである。


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