王としての自立
〜同盟市戦争とフィリッポス5世〜


  • 同盟市戦争勃発
  • 前220年夏、コリントスにてヘラス同盟の評議会が開かれ、フィリッポス出席のもとで次のようなことが取り決められた。まず、 アイトリア同盟はデメトリオス2世の死去以来占領している都市や領土をすべて引き渡すこと、アイトリア同盟に強制加入させ された諸都市を解放して父祖の国制を復活させること、デルフィのアンフィクテュオニアとデルフィをアイトリアの支配下から 解放すること。以上の事柄が評議会で決定され、アイトリア同盟に対する「同盟市戦争」が開始された。同盟市戦争は3年にわ たって続くが、アイトリア同盟とヘラス同盟の戦いはギリシア本土に限らず、クレタ島の内部抗争にもその影響が及んでいるこ とが知られている。クレタ島の一都市リュットスはアイトリア同盟と手を結んだクノッソスの軍勢により占領され、ヘラス同盟に 加わり、同盟から援軍を得て闘ったことが知られている。

    評議会の決議は直ちに全加盟国に送られたが、フィリッポスはさらにアイトリアにも同じものを送りつけて交渉によって事態の 収拾を図ろうとした。しかしアイトリア同盟はそれを拒んだために失敗に終わった。前220年夏の評議会でアイトリア同盟に対し 宣戦が布告されたが、決議を受け取った各国の反応は様々であった。宣戦布告の決議にたいして真っ先に反応したアカイア同盟 では総会の場で満場一致で可決され、アイトリア同盟では秋の総会でスコパスが将軍に選ばれたことがこの決議に対する答えで あった。アカルナニアは決議を承認し隣国のアイトリアに宣戦を布告し、エペイロスはフィリッポスがアイトリアに対して行動 を起こすまでは用心深く対応した。フォキスやボイオティア、ロクリス、テッサリアについては史料からは分からないがペロポ ネソスではメッセニアがフィガレイアがアイトリア領である限り参戦しないという申し出があったほかスパルタが裏切ってアイ トリアと手を結びアルゴスへ侵攻し、エリスもアイトリアと手を結んだ事が知られている。

    しかし参戦するにせよそうでないにせよ、それまではヘラス同盟に加盟している各連邦国家内部で決議について話し合って判断し、 それから兵を集めて軍を整備するため、目立った動きが見られるようになるのは翌前219年の冬が終わってからのことになる。 それはフィリッポスにとっても同じ事であり、前220/19年の冬の頃は兵士を動員して訓練したり、北方のダルダノイ人に対して 守りを固めることに力を注いでいた事が知られている。そして前219年の夏になるとフィリッポスは騎兵800騎、盾隊5000人、 マケドニア密集歩兵10,000人を率いてマケドニアを出発し、アイトリア同盟側も様々な活動を展開し始めるのである。

  • フィリッポスの遠征
  • 前219年夏にフィリッポスはマケドニアから軍を率いて出発したが、彼はテッサリアとエペイロスへ進み、道中でエペイロスで 動員された軍勢、アカイアから投石兵300人、クレタ人兵士500により軍を強化しながら進んでいった。この時フィリッポスは アンブラキアを40日ほどで攻略してアンブラキア湾を押さえ、アカルナニアへの路を確保した。さらにフィリッポスはコリントス 湾入り口にあるオイニアダイという港を確保すると城壁で造船所と港を囲んで海軍基地として利用できるようにした。フィリッポス の遠征が行われている頃、アイトリア同盟側ではスコパス、ドリマコス、エリス人(アイトリア人指揮下)の3つの軍勢を繰り出 していた。ドーリマコスの軍勢はコリントス湾に面する都市であり、ドリマコスの軍勢は夜襲をかけて都市を占領したが夜が明け てから反撃に遭い、結局追い返されてしまった。一方スコパスの軍勢はテッサリアを通ってマケドニアに侵入し、マケドニアの重要 な都市ディオンを攻略し、神殿などを略奪して破壊した。またエリス人達はアカイア西部を攻撃し、アカイア同盟のアラトスが有効 な反撃ができないうちに攻撃を受けた。結局アカイアはフィリッポスに助けを求めるが、そのころフィリッポスの許にはダルダノイ 人が国境を脅かしているという情報が入り、急遽彼はマケドニアへととって返したがダルダノイ人達は撤退していたという。結局 フィリッポスは兵士達は収穫のためにマケドニアに帰し、自らはテッサリアのラリッサにてすごした。ちなみにこの遠征を切り上げ て撤退するためアンブラキア湾を渡ろうとしたとき、彼はローマに追放されたファロスのデメトリオスに出会っている。この出会い が後のフィリッポスの運命に大きな影響を与えることになる。

    前219年秋、アイトリア同盟ではドリマコスが将軍に選ばれると彼はすぐさま軍を集めて遠征し、エペイロスへ侵入してドドネ の聖域を略奪した。アイトリア同盟側の活動は初冬に入っても続き、エウリピダスを指揮官とする軍団がアルカディアに侵入して略奪 を行った。しかしエウリピダスの軍勢は途中でマケドニア軍に遭遇して敗北し、プソフィスという町に逃げ込んだが、エウリピダスは マケドニア軍の存在に気づかなかったようである。フィリッポスは前219/18年の冬に軍勢を整えてコリントスに入り、カフュアイに 向かい、そこに集結していたアカイア同盟軍などと合流しているが、その途中で遭遇したエウリピダスの軍勢をやぶり、さらに合流し て数を増した軍を率いてエウリピダスが逃げ込んだプソフィスへ向かいこれを攻略したのであった。プソフィス攻略を知ったエリス人 はフィリッポス侵攻の知らせを聞いて都市を放棄し、フィリッポスはそれらの都市を占領しながら進んでいきオリュンピアに到着した。 そしてエリス地方を荒らし回り、傭兵200人、エリス人捕虜5000人、多数の家畜や動産を手中に収めてオリュンピアへ引き返した。

    戦利品をヘライアにて売却し、それによって得た資金でフィリッポスはトリフュイア地方侵攻のために橋を造り始めた。一方でフィリッ ポスによるエリス略奪にたいし、エリス人から救援を求められたドリマコスは軍隊をトリフュイア地方におくり、都市の防備を固めて 対抗した。しかしフィリッポスはトリフュリア地方の諸都市を急襲して次々に攻略していった。前218年冬にフィリッポスはメガロポリ スにはいり、さらにアルゴスへ向かって自らはそこにとどまり、兵士達はマケドニアへと帰したのであった。こうして前219/18年冬の 遠征はマケドニアによる各地の征服という結果に終わり、エリスを完全に屈服させるには至らなかったもののフィリッポスに対する評判 は高まった。

    しかしフィリッポスはさらなる作戦を考えていた。アカイア同盟に軍資金や糧食の提供を要求して、それが何とか認められるとフィリッ ポスが次に考えたことは海戦を行う準備をすることであった。そうすることで敵に対して脅威を与えられると考えたためである。マケド ニア密集歩兵達に船の操作法などの訓練を施し、彼らはそれに従った。そして十分に訓練が施された後、彼はケファレニア侵攻を計画し たのであった。ケファレニア侵攻に際してフィリッポスはアカイアやクレタの兵隊を駐屯させてエリスからの侵攻に備えるとともに、 彼はメッセニア、エペイロス、アカルナニアおよびイリュリアのスケルディライダスからなる艦隊とケファレニアで合流して上陸した。 しかしケファレニア島に上陸したもののパルスの町の攻略は失敗に終わった。

    フィリッポスがケファレニアにおいて軍事活動を行っている丁度そのころ、フィリッポスの許にはドーリマコスがアイトリア軍の半数を 割いてテッサリアへ侵攻したという知らせが入ってきた。このときアカルナニアやメッセニアの使者から様々な要請がだされたが、フィ リッポスが選択したのは軍の半分が外征中のアイトリアへ侵攻することであった。そしてフィリッポスの迅速な行動によりアイトリア同 盟の政治的にも宗教的にも重要な都市テルモスが落とされ、フィリッポスの軍勢により略奪された。テルモスの略奪はあたかもディオン やドドナに対する略奪の報復であるかのようであった。テルモスから引き返す途中にアイトリア人との戦闘が起こったがそれも退け、 次にフィリッポスが向かったのはラコニア地方であり、ラコニア地方もフィリッポスの軍勢による略奪にさらされ、ラコニア地方を荒ら したあとフィリッポスはコリントスへと引き返した。

  • 宮廷を握る
  • コリントス滞在中にフィリッポスの許にロドスとキオスから使者が訪れ、フィリッポスとアイトリア同盟の間の和平交渉を取り持 とうと提案してきた。そして30日間の休戦期間が定められたがこの時にマケドニア宮廷でトラブルが発生した。同盟市戦争が勃発して 以来、フィリッポスは自ら王として軍を率い決断を下すようになっていくがその状況をよく思わぬ家臣たちが存在した。それは先代の 王アンティゴノス3世の遺言で残された彼の相談役アペッレス、メガレアス、レオンティオス、クリノン、プトレマイオスであった。

    同盟市戦争時代に関して詳しい記述を残しているポリュビオスによるとアペッレスたちはアカイア同盟のアラトスとそりが合わず対立 していたという。そのため、フィリッポスがアラトスの言うことに従うようになる中でアペッレスはことあるごとにアラトスをおと しめようとしたと言うことが書かれている。ポリュビオスの情報源はギリシア寄りでマケドニアに批判的なものだと考えられているた め、実際にフィリッポスがそこまでアラトスを頼るようになったのかどうかはわからない。しかし若いフィリッポスが同盟市戦争中に 数々の戦で勝利し、遠征を成功させてその名を高め、力を強めていく過程で、今まで王の補佐役としておかれていた側近達の間で自分 達の影響力が及ばなくなる事を畏れ、それを防ぐために様々な妨害工作を行っていったのではないかと思われる。その妨害工作として は、フィリッポスが遠征したときに補給がうまくいかなくなるようにしたり、戦闘中にわざと敵に負けるような振る舞いをしたりした という記述もある(但しそれはポリュビオスが記していることであって、実際に彼らにそう言う意図があったのかどうかは定かでない)。

    アペッレスやメガレアス、レオンティノスたちはアンティゴノス3世の遺言にしたがいフィリッポスの側近としてみな宮廷で高い地位を 占めていた人物達である。彼らはフィリッポスの後見人的な存在であり、若いフィリッポスを補佐すると言うことで今まで権力を振るっ てきた。アペッレスはカルキスに派遣されていたときにはあらゆる権限を一手に握り、マケドニアやギリシアの役人は皆彼に頼り、都市 の議決や表彰なども王のことはわずかしか言及せずアペッレスのことばかり取り上げていたという話も残されている。しかし、同盟市戦 争においてフィリッポスがめざましい活躍を見せるようになってくると、フィリッポスにとっても彼ら側近達の存在は邪魔になって 来ていたのではないかと考えられる。

    そして前218年夏に宴会の後でアラトスとメガレアス、クリノンが争ったときにフィリッポスは メガレアスとクリノンに罰金を科し、彼らを牢へ連れて行くよう命じた。そしてメガレアスとその一派に判決を下して有罪判決を受けた (メガレアスはレオンティノスが身請けして牢から出られた)。その後レオンティオス、プトレマイオス、メガレアスは護衛兵達をたき つけて騒擾を起こしてフィリッポスに圧力を加えようとしたことやアペッレスがカルキスからコリントスへ行って王に圧力を加えようと したという話が真偽のほどは定かでないが残されている。しかし彼ら側近達の最後の時は刻一刻と近づいていた。アペッレスの力で何と かしようとしたメガッレアスはそれが失敗すると逃亡し、さらにメガレアスの身請けをしていたレオンティノスを盾隊の指揮官から外し た後で殺害し、アペッレスを逮捕し、プトレマイオスを裁判の後に死刑とした。こうしてフィリッポスは即位当初からいた側近達を排除 する事に成功した。彼らがいなくなった後フィリッポスに強い影響を与える側近達はアラトスやファロスのデメトリオス、タレントゥム のヘラクレイデス、アカイア人キュクリアダス、ボイオティア人ブラキュレス達であり、彼らを幕友としてフィリッポスは王として独自 の政策を次々に実施するようになるのである。


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