再び盟主の座へ
〜アンティゴノス3世とギリシア〜


  • ペロポネソスの動乱
  • アンティゴノス3世がメガロポリスから来た使者を迎えた頃、ギリシア本土では新たな戦いが起きていた。その 戦いはギリシア南部のペロポネソス半島を舞台に起こり、一方の当事者はアカイア同盟、もう一方はスパルタで あった。アカイア同盟は前280年に結成されてから徐々に加盟ポリスを増やしてペロポネソス半島で力を持ち始め、 前243年にシキュオンのアラトスがゴナタスからコリントスを奪ってから一気に力を強めていたギリシアの連邦国家 である。一方、前3世紀のスパルタでは富の偏在と弱体化が進んでいたが、クレオメネス3世は対外的にはペロポネソス 半島を掌握しようする一方で、前227年にクーデタをおこしてエフォロイ(監督官)を排除し、敵対者を追放すると、 一部市民に偏っていた土地の再配分や市民数の増加にとりくみ、さらにマケドニアと同じようなタイプの密集歩兵部隊 を編成するなどの改革を行った。そして、ペロポネソス半島でスパルタの力は強まり、前229年頃よりアカイア同盟と スパルタの間で争いが起こるようになるが、この争いにおいてクレオメネスはたびたび勝利し、そのような情勢がアカ イア同盟の加盟諸ポリスにも影響を与え、ポリスの大衆の中にはクレオメネスを支持する者たちも現れ、アカイア同盟 は分解の危機にさらされることになる。

    クレオメネスとの戦いで劣勢に立たされたアラトスはマケドニアと手を組むことを考え、アカイア同盟と敵対していた マケドニアが直接接触を持つことは自軍兵士の士気に影響することやクレオメネスとアイトリア同盟がこれを妨害する 可能性を考えメガロポリスを通じて働きかけると言う形をとった。アラトスは前243年にゴナタスからコリントスを奪い、 その後もマケドニアの勢力下にあった都市を次々に奪い取りアカイア同盟に加えてきたが、ここに来て態度を一変した のである。そのため前227/6年にマケドニアにメガロポリスから使者がやってきたのである。メガロポリスの使者は マケドニアから支援の言質を取ってきたが、アラトスはアカイア同盟の会合で単独で戦うことを主張し、しばらくはアカイア 同盟とスパルタの争いが続いた。そして前226/5年冬に両者の間で話し合いがもたれることになったが不首尾に終わり、 前225年にはクレオメネスの勢力はさらに広がり、アルゴスやトロイゼン、エピダウロスやヘルミオネまでも支配下に納める ほどにペロポネソス半島においてスパルタの勢力が強まり、アカイア同盟は危機にさらされることになるのである。

    クレオメネスの勢力がペロポネソス半島で強まるなか、アラトスはマケドニアにさらなる使いを出すことを決意した。 そして前224年春、アカイア同盟の会合においてマケドニアから帰還した使者たちはアンティゴノスがアカイア同盟に 助力する見返りとして提示した条件を報告した。当時のアカイア同盟にとり、その条件を受け入れてマケドニアを味方に つける事以外の選択肢はなく、アンティゴノスが提示した条件を認めることとなった。

    アンティゴノスがアカイア同盟に協力する代わりに提示した条件は様々な事柄が含まれていた。まず、アンティゴノスを 「陸および海における支配者」として認めること、彼の許可なく勝手に他国の王たちと交渉を持たぬ事が含まれていたと 考えられる。またマケドニア王との同盟に反するいかなる動きをも禁ずる法も制定されたという。さらに民会は王の許可 のもとで開かねばならなくなった。また、アカイア同盟はマケドニア軍に戦費や食料を提供すること、保障としてペラに 人質を送ること(その中にはアラトスの息子も含まれていた)も含まれていた。そして同盟は毎年宣誓とともに更新される ことも定められた。これらの条件は長年アラトスがマケドニアとの戦いの中で勝ち取ってきたものを放棄してしまうもので あったが、これによりアカイア同盟はマケドニアの助力が得られることとなった。

  • アンティゴノス、盟主となる
  • アカイア同盟とマケドニアが手を結んだことを聞いたクレオメネスはどのような対応をとったのか。アラトスがマケドニア と交渉していることクレオメネスはさらに勢力を強めてコリントスまでも奪取し、シキュオンの全面に布陣していた。しかし 上記のような協定が交わされたことをしるとシキュオンから撤退し、コリントス地峡のそばに陣を移した。そしてアクロコリントス (コリントスの城塞)とオネイア山の間に柵や壕を渡してアンティゴノスの南進に備えた。いっぽうアンティゴノスは陸路では なく海路により南進した。というのも、陸路で南進する場合は必ずテルモピュレーを通ることになるが、テルモピュレーを 押さえているアイトリア人たちの妨害が予想されたためである。エウボイアへ船でわたったアンティゴノスはそこからボイオティア へはいり、さらにアッティカを回避してメガラのペーガイというところに到達し、そこでアラトスと対面して宣誓を交わした。 そしてクレオメネスが布陣するコリントス地峡そばまで到達した時アンティゴノスが率いていた軍勢はマケドニア歩兵2万、 騎兵1300騎であった。

    その後しばし両軍は対峙していたが、状況はアルゴスの反乱をきっかけに一変した。クレオメネスが支配下においていたアルゴス において反クレオメネス派のアリストテレスが反乱を起こし、さらにティモクセノス指揮下のアカイア同盟軍の協力も得てアルゴス を制圧してしまった。これを聞いたクレオメネスは急遽撤退し、アルゴスを奪還しに向かったが失敗に終わりスパルタへと帰還した。 一方アンティゴノスは難なくペロポネソスへと入り、アクロコリントスを占領したが、前243年にアラトスにより奪われてから20年 ほどの年月が経過していた。コリントスに入った後、さらにアルゴスへ向かい、さらにアイギュスとベルミナにあったスパルタ側の 砦をいくつも落としてメガロポリスに引き渡した。そして前224年秋、アイギオンに入ったアンティゴノスはアカイア同盟の会議に 参加し、その年の冬はシキュオンとコリントスで軍を越冬させると春に軍を率いて出発した。

    前224年秋、アンティゴノスはアイギオンにおいてアカイア同盟の会議に参加したが、このときにアンティゴノスは汎ギリシア的 な同盟を結成し、その盟主の座に着くこととなった。かつてはフィリッポス2世の時代にコリントス同盟が存在し、アンティゴノス 1世とデメトリオス1世がヘラス同盟を結成したが、アンティゴノス3世のもとでマケドニアが三度ギリシア世界の盟主としての 地位を確立していったのである(同盟成立の時期については前223/2年説もあるが通説では前224年)。同盟の構成員は盟主である マケドニア王、マケドニア人たちのほか、アカイア同盟やテッサリア、エペイロス、ボイオティア、フォキス、アカルナニアといった 当時のギリシアに存在した都市連邦国家であり、個々のポリスが加盟していたコリントス同盟などとは少々異なっている。同盟は アンティゴノスを盟主(ヘゲモン)とし、彼が同盟軍を率い、加盟諸国家から兵士を徴発した。また同盟には評議会があり、盟主 が求めたときに招集され、加盟諸国家の代表が集まり協議を行い、和戦の決定を下していた(ただし、加盟諸国はこの決定に対し かなりの自由を保持していたようである)。また、この同盟は独自の公庫はもっておらず、加盟諸国は個々に交戦権を保持してい たし、実際にそれを行使した(後の事例であるが、アカルナニアは同盟に諮ることなくメッセニア救援を独自に決定したことがある)。

    同盟を結成した勢力にとり、マケドニアとの同盟は自分たちの自由や自治を守るものであったことは想像するに難くない。スパルタ と争っているアカイア同盟はもちろんのこと、アイトリア同盟の勢力拡大をスパルタ以上に脅威とみているアカルナニアやフォキス、 エペイロスもそのようなことを考えて同盟を結成し、アンティゴノスを盟主としたのであった。一方アンティゴノスにとり、この同盟 はたしかにギリシア中央から南部の支配の基盤とはなるが、これだけではギリシア支配のために十分ではなかった。そのため、彼も ゴナタス同様に各地に守備隊を置くことでそれを補った。約20年ぶりに奪回したアクロコリントスはじめ、前223年に攻略した オルコメノスやヘライアにも守備隊を置いた。こういった守備隊はアカイア同盟にとっては邪魔ではあったが自分たちの安全にも 役立つという微妙な存在であったであろう。結局のところ、この同盟は一方でアイトリア同盟との敵対路線を決定づけてしまうもの であったが、ギリシアにおけるマケドニアの影響力を増すことには成功し、マケドニアが盟主としてギリシアの大部分をまとめて いくこととなった。そして、この同盟軍を率いてアンティゴノスはクレオメネスとの戦いを続けていくことになる。


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