苦闘は続く

クレモニデス戦争に勝利した後のゴナタスの生涯に関しても史料は少なく、記録されている出来事 はごくわずかである。まずセレウコス朝のアンティオコス2世に嫁いでいたストラトニケ(ゴナタス の姉妹)が亡くなり、ゴナタスは前253年頃にデロス島において「ストラトニケイア」という祭を創 始したが、それと同時に「アンティゴネイア」という祭をデロス島を聖域としているアポロン、アル テミス、レトに捧げる祭として創始したという。新祭創始は恐らくコス島沖海戦でのアンティゴノス 朝艦隊の勝利を記念したものであると推測されているが定かではない。

しかし、それから間もなくアンティゴノス朝のギリシア支配を揺るがす事態がギリシア支配の要とな っているコリントスから起こった。前 252年(前249年説もある)、コリントス駐留のマケドニア軍司 令官アレクサンドロスが反旗を翻して独立し、自らを王と称した。ア レクサンドロスはゴナタスの異 母兄クラテロスの子で、クラテロスの跡を継いでコリントスを支配していた。アレクサンドロスがゴ ナタスに反旗を翻した理由は定かではないが、叔父に反旗を翻して王を称し、独立勢力となっていっ た。アレクサンドロスの反乱はプトレマイオス朝が裏で操っていたとする見方もあり、ギリシアへの 野心を抱き続けるプトレマイオス朝はその後反マケドニアのシキュオンのアラトスに資金を提供して いることなどをみると、証拠はないが可能性としては考えられることである。

アレクサンドロスが反旗を翻すと、まもなくカルキスとエレトリアもアレクサンドロスに味方するよ うになり、ゴナタスによるギリシア支配が動揺し始めた。ゴナタスはコリントスを奪回しようとして アルゴスのアリストマコスにアレクサンドロスを攻撃するよう指示したり、ペイライエウス駐留のマ ケドニア軍を出撃させるなどの動きを見せ、それに対しアレクサンドロスはコリントスの領域から海 賊を出撃させてサラミス島を攻撃させるなどの手段を執って対抗した。結局ゴナタスはアレクサンド ロスの手からコリントスを取り返すことはできず、アテナイ、アルゴスはアレクサンドロスと講和を 結んだ。この時アレクサンドロスはアルゴスから賠償金50タランタを取り立てた。

ゴナタスはコリントス奪回の機会を狙い続けていたがなかなか果たせぬままであった。しかし前247年 (or 前246年)にアレクサンドロスが没したときに策略を用いてコリントスを奪回した。アレクサン ドロス没後、彼の妻であったニカイアがコリントスを支配していた。ゴナタスはニカイアに対して息 子デメトリオスとの結婚話を持ちかけ、ニカイアはそれに応じた。しかしこの結婚話自体がコリント ス奪回のための策略であった。コリントスにおいてデメトリオスとニカイアの婚礼がおこなわれ、宴 会が盛り上がり、そちらの警備を重くせねばならなくなった時を狙ってゴナタスはアクロコリントス (コリントの城塞)を乗っ取り、再びコリントスを支配下に置いたのであった。なおこの後ニカイア の名は歴史から消える。また前246 年(あるいは前245年)にはプトレマイオス朝の艦隊とアンティゴ ノス朝の艦隊がアンドロスにて戦い、アンティゴノス朝がまたしても勝利を収めた。ゴナタスはこの 勝利を記念してデロス島において2つの祭を創始し、勝利を祝ったのであった。アンドロス海戦にお いてゴナタスは勝利を収めたが、コリントスを奪回して艦隊を再び取り戻したためであると考えられる。

このようにしてコリントスをゴナタスは奪回し、プトレマイオス朝の勢力を再び破ってギリシアの支 配を再び安定させていったが、その支配は長くは続かなかった。前243年にシキュオンのアラトスが わずかな手勢を率いて夜襲をかけ、アクロコリントスを奪い取った。この時マケドニア軍の間に造反 者がでたという。マケドニア軍の指揮官テオフラストスとペルサイオス(ストア派の哲学者でもあっ た)は殺され、コリントスはアラトスの手に落ちた。アラトスはコリントスをアカイア同盟に組み込 み、時を同じくしてゴナタスの支配下にあったトロイゼン、エピダウロス、メガラもアカイア同盟に 加わった。アラトスはさらにアテナイも見方に引き入れようとしたがそれは果たせず、ペイライエウス にはその後もマケドニア軍は駐留し、アテナイはアンティゴノス朝に忠実であり続けた。こうして ゴナタスの治世末期にギリシアにおけるアンティゴノス朝の支配はそれまでとくらべると後退し、結局 前240年にアカイア同盟とマケドニアは講和を結ぶがゴナタス存命中にはコリントスは奪回できなかった。 そして前239年、ゴナタスは80年にわたる生涯に幕を閉じた。そしてゴナタスの跡を継いで息子のデメトリオス が即位した。

ゴナタスのギリシア支配を揺るがせたアラトスは、かつてゴナタスと友好関係にあったクレイニアス の息子であったため、はじめはゴナタスとも友好関係を保っていた。しかしその後アラトスはプトレマイオス に接近し、ゴナタスと敵対するようになる。これに関して、アラトスがシキュオンの独裁者を打倒しよう としていままで友好的だった諸王の協力を期待したがゴナタスはそれに対して非協力的であったという 逸話が関係するように思われる。かつてはアラトスの父クレイニアスとゴナタスは友好関係を持っていた が、その後は安定した支配を維持するために、シキュオンを実際に支配している者との間に友好関係を築 いていくことを重視し、たとえ友好関係にあったとしても体制を転覆しようとするアラトスの企てをよし としなかったのではないかと思われる。しかしその結果、マケドニアにとり重要な拠点であったコリントス を失ってしまうことになるのである。なお、コリントス奪回はゴナタスの死から15年後、アンティゴノス3世 ドーソーンによってようやく達成されることになる。


続・古代マケドニア王国史へ戻る
前へ戻る
次へ進む
トップへ戻る

inserted by FC2 system