ギリシアの覇権を巡って

  • ギリシアの支配
  • アンティゴノス・ゴナタスはマケドニアを支配するようになる前から、コリントスなどギリシア本土の各地に拠点を 有していた。それらの拠点は前276年にマケドニアの王となってから後も重要な拠点として存在し続けた。 その支配の方法は、拠点と して重要な場所に主に傭兵からなる守備隊を置いてアンティゴノス朝のコントロール下に おくことや、各ポリスの僭主や有力者、「友人達」との結びつきを介して影響力を及ぼすといった方法がとられた。

  • コリントス
  • 前303年にデメトリオス1世攻城王が守備隊を置いて以来アンティゴノス家の拠点となる。自治を尊重し、 政体もかわらないが、アクロコリントス(コリントス市の城塞)に守備隊を置いた。クラテロス(ゴナ タスの異父兄弟)が守備隊の指揮官を務め、彼の任務は単なる守備隊長にとどまらずゴナタスとコリン トス市内の政治家達の間を仲介する。またクラテロスの他に海賊の頭領と呼ばれるアメイニアスもコリ ントス守備隊で重要な地位を占めていた。クラテロスはゴナタスの異父兄弟、アメイニアスは長年ゴナ タスの許で働き個人的に強い結びつきを有している人物であり、そのようなことが彼らがコリントスに おいて指導的な立場に立つことを可能にしていたようである。コリントス守備隊の指揮官に関し、特殊 な称号や明確な職務の規定が存在したのかどうか定かでない。後に、クラテロスの子でコリントスの 守備隊となっていたアレクサンドロスが反乱を起こし、カルキス、エレトリアもこれに呼応した時に コリントスはゴナタスの支配を一時離れている。

  • トロイゼン、エピダウロス、メガラ
  • トロイゼンではいつ頃からかは不明であるが、ゴナタスの時代には守備隊が置かれていた。またエピダ ウロスに関しては確たる証拠はないが、地理的にきわめて重要な場所であることから(サロニカ湾を支 配下に置くためには重要)、ゴナタスの時代に守備隊は置かれていたであろう。メガラはデメトリオス 1世の時代から支配下に置かれ、守備隊が置かれていた。

  • ペイライエウス、アテナイ
  • コリントスと並んで強力な守備隊が置かれていた場所はアテナイの外港ペイライエウスである。 デメトリオスによって前295年に守備隊が置かれるようになって以来、前229年までの間守備隊が置かれ 続けていた。ペイライエウス守備隊の隊長を務める人物にはアテナイの哲学者を友とする物がいたり、 アテナイ市民でありながらゴナタスの許で働く者がいたことが史料から窺える。なお、アテナイとゴナタス の関係は基本的に良好であった。またアッティカ地方各地の砦(ラムノス、スニオン、エレウシスなど)も アンティゴノス・ゴナタスの支配下に置かれるようになる。

  • カルキス、エレトリア
  • エウボイアのカルキストエレトリアもアンティゴノス家の支配下にあった。カルキスはデメトリオスが アジア侵攻軍を集結させていた場所としてその名が見られる。その後カルキスにいつ頃から守備隊がい たのかは不明であるが、カルキスはアレクサンドロスの反乱に呼応してゴナタスに反旗を翻し、一時支配を離れ ている。その後前196年にローマの手で「解放」されるまでアンティゴノス朝の支配下に戻り、支配下に置かれた のであった。エレトリアに関しては確固たる証拠はない。しかし哲学者エレトリアのメネデモスとゴナタスの 個人的な友好関係などから、この地にも影響力を及ぼし、守備隊を置いていたと考えられる。エレトリアも アレクサンドロスの反乱に加わった後、アンティゴノス朝の支配下に戻ったようである。

  • デメトリアス
  • テッサリアはデメトリオス1世の時代から支配を広げていた地域であり、デメトリオス1世が自らの名に ちなんでデメトリアスという都市を造った。この年がテッサリアにおけるアンティゴノス朝の拠点となっていた。

  • アルゴス、メガロポリス、エリス
  • ペロポネソス半島をコントロールする上でアルゴスは重要な都市である。前272年にアルゴス内部の内紛 にピュロスとゴナタスが介入した。アンティゴノス朝とアルゴスの友好関係はその後も続き、アレクサン ドロスが反乱を起こしたときにはそれに対抗する動きを見せている。その他、メガロポリスはエリスなどの ペロポネソス半島の諸都市もそこを支配する僭主などを通じてゴナタスと友好関係を持っていたと推測されている。

  • アイトリア連邦、アカイア連邦
  • 紀元前3世紀のギリシア世界では連邦国家という新しい携帯の国家が出現していた。前280年に創設されたアカイア 連邦とは当初は友好関係を築いていたと考えられる。シキュオンのクレイニアスと友好関係を持ち、都市の近く には王家の牧があった。しかしクレイニアスの息子アラトスが力を持つようになると関係は一変することになる(詳細は 後述)。このようにアカイア連邦とはあとで関係が悪化するが、当時力を持っていたもう一つの連邦国家である アイトリア連邦とゴナタスは友好関係を保っていた。プトレマイオス・ケラウノスと争っていた頃に同盟を結んで いたともいわれるほか、クレモニデス戦争ではアイトリアは中立を守っていた。その後もアイトリアに対して軍事 行動に出ることはなく、友好的な関係が続いていた。

    各地の拠点に守備隊を置いたり、ポリスの僭主を支援したり「友人達」との友好関係を許に安定した関係を築きあげ ることによって、ゴナタスはマケドニアによるギリシアの支配を安定させようとした。コリントスやカルキスなど後の 時代に「ギリシアの足枷」などと呼ばれるようになるこれらの拠点を通じてギリシアの情勢を安定させておくことが、 マケドニア王国の安定のために重要だったためである。

  • クレモニデス戦争
  • アンティゴノス・ゴナタスは上記のような形でギリシアにおいて影響力を行使できる仕組みを作っていたが、この 仕組みが最大限にその力を発揮したと言われている出来事が紀元前260年代におきたクレモニデス戦争である。ゴナタス がマケドニアの王としての地位を固めていた頃のヘレニズム世界の情勢について簡単に見ておくと、まずセレウコス朝 とプトレマイオス朝の間でシリアを巡る戦争がおきていた。クレモニデス戦争が戦われた頃には、第2次シリア戦争が おきていた。一方アンティゴノス朝とセレウコス朝は敵対関係にはなく、同盟が結ばれていたかどうかは定かでないが 友好関係を築いていた。そしてクレモニデス戦争へと発展することになる関係は、アンティゴノス朝とプトレマイオス朝 の間の敵対関係である。

    エジプトを支配するプトレマイオス朝は当時エーゲ海において強大な力を持っていたといわれている。島嶼同盟をデメトリオス の手から奪い取った後、プトレマイオス朝はエーゲ海の島々を支配下に置いていた。そしてプトレマイオス2世フィラデルフォス はギリシア本土にもその手を伸ばそうとしていた。そのためにプトレマイオス朝はアテナイとスパルタを味方に引き込んだ。 プトレマイ オス朝の活発な活動の結果、アテナイとスパルタに加えてマンティネイア、オルコメノス、エリス、テゲア、 アカイア、フィガリア、カフュイア等々スパルタの影響下にある都市が同盟に加わり、反ゴナタスの同盟が結成された。 同盟と宣戦布告に関する決議が碑文に残され、その動議を出したアテナイ人クレモニデス(プトレマイオスの許で傭兵として 働いていた)の名を取って、クレモニデス戦争と呼ばれるようになっている。

    クレモニデス戦争の経過は詳細は不明であり、しかも年代に関しても諸説ある。戦争の開始年からして、前264年とする説 があるかと思えば、前268年とする説もあり定かでない。出来事を列挙していくと、プトレマイオス朝はパトロクレス指揮 の艦隊を派遣し、スパルタ王アレウスの軍勢がコリントスを攻撃するという出来事が起きた。しかしプトレマイオスの艦隊は 大した働きを見せることもできず、アレウスの軍勢も結局守備隊に追い払われてスパルタへと撤退した。そしてゴナタスは アテナイを包囲するに至った。しかしその後メガラのガリア人傭兵の反乱が起こり、ゴナタスはアテナイの包囲を一時中断 して反乱鎮圧に向かい、ガリア人の反乱は鎮圧された。また戦争中にエペイロス王アレクサンドロスがマケドニアへ侵攻したが、 デメトリオス(ゴナタスの子)の指揮する(といっても年齢から名目上の指揮権であると思われるが)マケドニア軍により マケドニアから撃退された。反乱鎮圧後、ゴナタスはアテナイ包囲を再開した。一方スパルタではアレウスが再びコリントスへ 侵攻したが失敗、アレウスも戦死し、スパルタ軍は引き返した。またパトロクレスも大した成果を上げられぬうちに撤退した。 そして、アテナイが降伏し、クレモニデスは逃亡し、反ゴナタス派のフィロコロスは処刑された。ゴナタスはムーセイオンの丘 に守備隊を置き、アテナイにおいて彼が信用できると考えた人々を公職に就けた。プトレマイオス朝とゴナタスの争いは、 アテナイ降伏の後に起こったコス島沖の海戦でアンティゴノス朝の艦隊がプトレマイオス朝の艦隊に勝利したことで、ギリシア へのプトレマイオス朝の勢力拡大は阻止されることとなった。

    こうしてクレモニデス戦争はアンティゴノス朝の勝利に終わった。ゴナタスは一連の戦いに勝つことによりギリシア本土 へのプトレマイオス朝の野心を抑え、ギリシアにおいて守備隊の設置と友好関係の樹立による支配をさらに安定させてい くことになるはずであった。しかしプトレマイオス朝はなおもギリシアへの野心を抱き続けてアンティゴノス朝と争い続けた。 また、ゴナタスのギリシア支配を脅かす事態がその後、自らの身内により引き起こされ、さらにそれを抑えた後にギリシア本土 の新たな勢力により拠点を奪われるという事態が起こることになる。


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