「ギリシアの自由」


後継者戦争期、アンティゴノスやプトレマイオスといった武将たちがたびたび唱えたスローガンに「ギリシアの自由」という ものがある。前338年のカイロネイアの戦いでフィリッポス2世が勝利した後、スパルタを除くギリシア諸都市がマケドニアの 覇権のもとに服するようになっていたが、後継者戦争が勃発するとギリシア諸都市に対し自由や自治を認める布告がマケドニア 人の武将によって出され、さらに前3世紀に入ってもたびたび出されていることが確認される。

  • 東征中のギリシア諸ポリス
  • 前338年にカイロネイアの戦いで勝利したフィリッポス2世は前337年にスパルタを除くギリシア諸都市はコリントス同盟に加盟 させられた。加盟諸都市の自由独立や諸都市内部の現状維持、平和遵守が定められるいっぽうで、コリントスなど各地にマケドニアの 駐留軍が置かれていた。こういったことを背景にして、東征中のギリシア世界はマケドニアの軍事的優位のもとで比較的平和 な状態を保っていた。コリントス同盟に加盟していなかったスパルタがマケドニアに対してアギス戦争を起こしたが敗北し、以後 スパルタもマケドニアに従属するようになっていた。アテナイではリュクルゴスによる財政再建と大規模な建築事業が行われた事 が知られ、経済的にも繁栄していた。しかし、総じて安定した状態を保っていたギリシアの情勢はアレクサンドロスの東征からの 帰還とともに不安定な状態へと変わっていくことになる。

    前324年、インドからペルシス地方へと帰還したアレクサンドロスは彼が不在の間に弛みきった征服地統治の立て直しを図り、不正 を働いた支配者の粛清を行った。王の幼少時以来の親友で財務長官であったハルパロスが公金横領のうえアテナイへと亡命し、結果 アテナイの政界が一時紛糾した「ハルパロス事件」が発生したのもそのことが関連している。同じ頃、アレクサンドロスは追放者復帰 王令を発し、党争や困窮により都市を離れた者たちを故郷へ復帰させるよう命じている。アレクサンドロスはペルシス地方に帰還して すぐの頃に私兵解散令を発したが、それにより職を失った傭兵達の処遇問題も追放社復帰王令を発する原因と考えられる。しかしこの 王令によりギリシア諸都市は混乱をきたすこととなった。なぜならば追放者が大量に故郷に帰国することで没収した財産の返還問題 などの問題が生じてしまうためである。何よりアレクサンドロスが王令を発布して各ポリスの内部事情に干渉するということは、 コリントス同盟で定めた現状維持の原則に反する事であり、コリントス同盟結成後の政治的安定を揺るがすことになった。

  • 後継者戦争と自由の宣言
  • アレクサンドロス大王が追放社復帰王令を発布してから1年も立たぬうちに急死した後、バビロンに集う後継諸将達は諸都市に 対してフィリッポス時代の国制への復帰を告げたと言われるがその後ラミア戦争が勃発、それを収拾したアンティパトロスはアテナイ に寡頭政を敷き占領軍を駐留させたが、寡頭政治体制と軍隊の駐留はその後アンティパトロス支配下のギリシア諸都市でよく見られる 体制となっていたようである。前319年にアンティパトロスが死去してポリュペルコンが摂政となったことで、ギリシアでは彼とアン ティパトロスの子カッサンドロスの間で戦争が勃発したが、この時にポリュペルコンがギリシア諸都市に対してあるに布告を発した という。その内容をまとめると、支配下に置いた都市に軍を駐留させ、寡頭政治を敷くというアンティパトロスの統治方法をやめると ともにフィリッポス2世やアレクサンドロス大王の時代の統治の仕組みに復帰させるというもので、これがコリントス同盟復活まで 視野に入れていたのか単に諸都市の「民主派」を助けるだけだったのかは定まっていないようであるが、布告を発した理由は明らかに カッサンドロスの力を弱めるためであった。この布告が発せられた後民主派が権力を握り寡頭派市民を虐殺する事態がギリシア諸都市 で起きたという。

    「ギリシアの自由」をスローガンに掲げ、寡頭政を倒して「民主政」樹立をうたったのはポリュペルコンが最初のようであるが、 「ギリシアの自由」をスローガンに掲げたことが確実な武将はプトレマイオスとアンティゴノスである。アンティゴノスは前314年 にテュロス攻撃の最中にカッサンドロスに対して発した通告の中ですべてのギリシア人が自由で駐屯軍を置かれることなく、自治を 行う事ができるべきであるということを盛り込んだ。そして前314年から前311年の間にアンティゴノスはペロポネソス半島やエウボ イアのカルキスなどを「解放」し、テルモピュレー以南の地域の大部分を「解放」していった。こうしてギリシア本土における支配 領域を拡大していくが、カッサンドロスがマケドニアとギリシアを支配する限りアンティゴノスによる「ギリシアの自由」宣言は有効 で有り続けたようである。そしてそれは前311年に後継者戦争の休戦条約が結ばれた際にも条件として含まれていたという。

    前310年にポレマイオスが反乱を起こしたことでアンティゴノスのギリシア本土での支配力が低下すると、その隙をついてギリシア 本土に力を伸ばそうとしたのがプトレマイオスである。プトレマイオスは既に前314年に「ギリシアの自由」を唱えていたが特に行動 にうつすこともなかった。しかし前310年になると彼はアンティゴノスが守備隊を各地に置いてギリシアの自由を侵害していると主張 し、遠征軍を送った(この遠征はデメトリオスにより撃退された)。翌前309年には自ら艦隊を率いてギリシアへ向かいペロポネソス 半島に侵攻したがコリントスなどごく一部の拠点を押さえたのみでとくに成果を得られぬうちにカッサンドロスと和平を結びエジプト へ撤退していった。プトレマイオスが特に成果を得られぬままエジプトへと撤退していくころ、アンティゴノスが再び態勢を立て直し 「ギリシアの自由」を掲げて活動を活発化させた。前307年、彼はデメトリオスに艦隊を与えて派遣し、当時カッサンドロスの支配下 にあったアテナイを支配下におき、アテナイとメガラで民主政を復活させたという。その後もアンティゴノスのギリシア本土での勢力 は拡大し、前304年にはエウボイア、中央ギリシア、ペロポネソスを「解放」していった。そのほか同盟を結んだ勢力としてアテナイ、 ボイオティア、アイトリア、エレトリア等があり、これらの同盟者をやがて結集して前302年のヘラス同盟結成へと至るのである。

  • 「自由」の現実
  • 後継者戦争において特にアンティゴノスが「ギリシアの自由」をスローガンとして掲げながらギリシア本土で支配を拡大していった が、実際の所「自由と自治」が額面通りに行われたのだろうか。前311年に一時的に休戦状態になった時を除きアンティゴノスは常に 戦争状態にあった。ギリシア本土の支配を巡りカッサンドロスと、小アジア沿岸部およびエーゲ海を巡ってプトレマイオスと交戦 し続けている。そのため、アンティゴノス支配下の諸都市にも守備隊は置かれていたことは確かである。「民主政」や「自由」「自治」 をかかげ、ライバルの支配下にある諸都市の守備隊撤退と寡頭政打破を宣言しつつも自分の支配下にある都市に守備隊を置き貢租を取り 立てることは「自由」や「自治」に反するのではないか。これに関してヘレニズム時代には総督や僭主を置くことや寡頭政治を行う事 は自由の侵害にあたるが、内部のことは都市の民会や公職者、評議会に任せて運営させることが都市に自由を与えることであり、そう である限りは守備隊を置こうが貢租を取り立てようが外交に関して一部制限が付こうが問題ないとする見解もある。では、実際に支配 を受けた都市はどのような対応を取っていたのだろうか。

    後継者戦争の時代、アンティゴノスなど後継者諸将が「ギリシアの自由」を掲げて支配を拡大し、ギリシア諸都市を思うが儘に支配して いるようにも見えるが、ギリシア諸都市も後継者諸将を利用しているようなところもある。ギリシア諸都市の自由・自治を保障すること を宣言している有力者の庇護を受ける事により、有力者に迎合するような形で彼らを顕彰したり神格化して祭り上げたという事例がアテ ナイやスケプシスにおいてみられる。「ギリシアの自由」を掲げることで有力諸将はギリシア諸都市の好意を得て支配を拡大することが できるし、諸都市の側でも有力諸将の庇護を受ける事ができるという点で互いにメリットがあるようである。しかし「ギリシアの自由」 のスローガンが有効に機能するのはポリュペルコンやプトレマイオスの事例から、その時々の政治状況に左右される部分が多かったので はないかとも思われる。


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