アンティゴノスの王国
〜ヘレニズム諸王国の原型〜


前323年にアレクサンドロス大王が死んでから、彼の部下達の間で征服地が分割されて各地にヘレニズム王国が建国 された。この時代に出現したヘレニズム王国はいずれも王を名乗った人物の個人的権威、カリスマ、軍事的勝利から 出発した。ヘレニズム王国はマケドニア人による建国であるが、その中にはオリエント的要素も見られる王国である。 そして、マケドニアの要素とオリエントの要素を利用・再編成しながら王国組織を作り上げ、後のヘレニズム王国の 原型を作り上げたのはアンティゴノスであった。

  • 2つの遺産
  • アンティゴノス(「隻眼の」アンティゴノス。なお、彼がいつ片眼を失ったのかについては詳細は不明である。一説には ペリントス包囲戦(前340〜前339)において片眼を失ったと言われるが定かでない)は、アレクサンドロス大王の東征初期に コリントス同盟軍の歩兵部隊の指揮官に任命されていたが、その後、遠征の通信・補給・援軍派遣の要となる プリュギア太守に任ぜられ、アレクサンドロスが征服したプリュギア周辺を平定した人物である。彼は13年にわたってペルシア 流の太守としてプリュギアを支配した。一方で彼はマケドニア王フィリッポス2世と同年で、フィリッポス2世治下のマケドニア が急激に発展していく様を身をもって体験している。つまり彼はフィリッポス2世治下の軍制改革や都市建設、植民といった 改革活動と、ペルシア流の太守としての統治という2つの要素を引き継いでいた。そしてこの2つの要素は彼が小アジア とシリアに王国を築き上げるうえで大いに役立つことになる。

  • 領域
  • 従来、アンティゴノスは広大なアレクサンドロス大王の征服地全てを支配下におこうとしてプトレマイオスやカッサンドロスら と激しく争ったと言われてきた。しかし帝国支配の野望を持つアンティゴノスというイメージは同時代の歴史家ヒエロニュモス によって形成されたと言われる。彼はアンティゴノスに対しては批判的な叙述を行い、現在まで引き継がれたというわけである。 帝国支配の野望でなかったとすれば、それでは、実際の所アンティゴノスはどのように考えていたのか。

    近年の研究動向では、アンティゴノスの野心は東地中海地域に集中し、ユーフラテス川以東の東方領に関心を持っていなかったと 言われるようになっている。アンティゴノスが前317〜前316年にエウメネスと戦って彼に勝利すると共に、東方への遠征を行っ て 上部属州(バクトリア、カルマニア、メディアなどの東方領)を支配下においた。彼は上部属州を管轄する将軍を任命している が、この地域に対する関心は余り強く無かったようである。前315年に彼はエクバタナ、スサに蓄えられていた王室財宝を西方の 宝庫(キュインダなど)に全て移動しているが、これは東方領に対して東地中海地域と比べると関心が薄かったことを窺わせる 出来事である。前311年〜前308年にセレウコスと戦っているが、これも東方領を取り返すことよりもセレウコスが強大化すること へのおそれが大きかったためと考えられている。結局彼の支配した領域は小アジア、シリアを中心にメソポタミア北部やギリシアの 島嶼部などであり、中心は東地中海地域におかれていた。

    また、アンティゴノスは広大な領土の各地に都市を建設し、マケドニア人を入植させた。都市の建設はフィリッポス2世や アレクサンドロス大王の政策を継承したものであり、その後セレウコス朝により継承される政策であった。アンティゴノス によって建てられた都市は18ほどあるという。重要な都市として、オロンテス河畔に建てられたアンティゴネイア、小アジア 西端のアンティゴネイア・トロアス、ビテュニアに建てられたアンティゴネイア・ニカイアがあげられる。アンティゴネイアは 後にセレウコスがその近郊にアンティオケイアを建設して住民はそこに移され、アンティゴネイア・トロアスはのちに リュシマコスにより改名されるが、これら3つの都市はヘレニズム時代、ローマ帝国時代に重要な都市として栄えた。また セレウコス朝の時代に作られるアパメイアはもとはアンティゴノスが築いた軍事植民地であるという。

  • 属州支配
  • 属州の統治はきわめて流動的であったとされる。東方では太守(サトラップ)とよばれていたが、西方では太守にかわり ストラテゴス、ヒュパルコス、エピメレテス、エピスタテスなど様々な称号が見られる。そして支配区域についても西方では従来 の太守領をそのまま残すのではなく、太守領をさらに細かく分割し、そこにストラテゴスなどの支配者を任命していたようである。 東方では上部属州には東方人がそのまま太守として残っている地域も見られ、アンティゴノスが東方人の機嫌をとり協調していこう としている様子も見られる。またメソポタミアとバビロニアはセレウコスに奪われるまで、2つを1人の人間が統治していた。これ は西方と東方をつなぐこの地域が重要だと見ていたためであろう。

    太守やストラテゴスたちは個人的なスタッフをもっており、その下にキリアルコス(地方長官)や下級役人をかかえていた。 アンティゴノスの統治がきわめて流動的であることがしばしば言われているが、アンティゴノスが経験した太守としての統治という しくみそのものが元来流動的なものであったといわれている。アケメネス朝ペルシアの支配下でも小アジアの属州には確固たる 行政組織の体型は見られず、州の役人達の権限は王や宮廷との関係に左右されるものであった。アンティゴノスはアケメネス 朝の支配の仕組み引き継ぎつつ、州をさらに細分化してストラテゴスを送り支配させる体制を作っていったのである。

  • 中央の統治機構
  • 中央の統治機構に関しては、アンティゴノスの側近である「フィロイ」が重要な役割を果たしていたことがうかがえる。 フィリッポス2世以来、マケドニア王の側近集団であった「ヘタイロイ」がその名を変えて存続し、彼らによって構成される 幕僚会議が重要な決定を下していた。また軍隊の指揮や属州支配、各地の要塞や宝物庫の守備、他国への使者、裁判や財政、 王への助言など多岐にわたる任務をこなしていた人々である。フィロイ達の多くはマケドニア人、ギリシア人であったが、 中にはアジア人 のフィロイも存在したと考えられる。アンティゴノスに仕えた人物で出身地を特定できる者が82人いるが、うち 9人はアジア人であった。マケドニア人を中核としつつ、有能なアジア人を積極的に登用するしくみをとっていたことが分かる。 また特定のフィロイ達が重要な事柄だが公に諮りにくい事柄を話し合うために集まることもあったという。

    王国の支配に関して、支配する領土の各地から様々な知らせが届けられるが、おおむね次のように処理されたという。

    情報や要求を携えた人々が到着すると、職務に応じてそれらの用件を承った役人がアンティゴノスやフィロイとの謁見を 設定する。その際、重要な場合には会議を招集することもある。そして決定事項は決議や勅令、あるいは書簡が書記局に より起草され、写しが残された後、情報や要求を携えてきた者や王の情報伝達局を通じて宛先に送られる。

    アンティゴノスの王国では情報伝達の必要性から王国内のネットワークが整備されていた。それにより王国各地に王の命令が 伝達されていったのである。このような仕組みはアケメネス朝ペルシアによりつくられたものであり、アンティゴノスはそれを 引き継いだと考えられる。

    財政に関しては、アンティゴノスはアレクサンドロス帝国にあった莫大な財産を手中に収め、各地の宝物庫に保管していた。 前述のキュインダの宝物庫などにそれらの財産は保管され、それは役人により管理されていた。またアンティゴノス自身とともに 移動する宝物庫もあり、そこから資金を出して傭兵を集めたり作戦活動を進めていたようでもある。さらに収入として領内から の貢租や、ギ リシア諸都市からの顕彰による金銀の「冠」の贈与も財政を支えたほか、ギリシア諸都市への 戦争中の臨時税などが あった。

    そしてその集めた財貨の多くはアンティゴノスが抱える強力な軍に用いられた。アンティゴノスは領土各地に守備隊を置いたほか、 マケドニア人を中核とする常備軍(歩兵40000人、騎兵5000騎)を備えていた。マケドニア人はおそらく全体の四分の一ほど で、 残りはギリシア人傭兵やアジア人の兵士から構成される常備軍であった。アンティゴノスの常備軍には親衛隊や近衛騎兵部隊、 近習部隊などの特殊な名前を持った部隊が含まれているが、これは恐らくフィリッポス2世やアレクサンドロス大王の軍隊を モデルとしたためであろう。


    アンティゴノスの王権は個人的なカリスマ、軍事力や軍事的的勝利により支えられていることや、当時の傭兵やマケドニア人 兵士の気風、王国を築いた小アジアはアケメネス朝もしっかりした行政組織等を築けなかった場所であること等を考えると、その 基盤は決して盤石であったとはいえない。それゆえにアンティゴノスの王国は一時的、過渡的な性格を持つものとして見られる ことが多いようである。一方で、彼の王国こそヘレニズム諸王国の原型となったものとして積極的に評価することもできるという。 彼はフィリッポス2世からは軍事組織や都市建設、植民、側近集団の形成などを引き継ぎ、アケメネス朝からは交通と通信 のシステム、柔軟な統治機構と異民族登用をひきついだ。もちろん都市建設や軍事組織、異民族等用意はアレクサンドロス から引き継いだ面もあると考えられる。マケドニア王国とアケメネス朝の仕組みをうまくまとめたアンティゴノスの王国は 前301年に滅びるが、その後セレウコス朝シリアに引き継がているためである。


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