帝国の分裂


前321(or前320)年に行われたトリパラデイソスの会議では、アンティパトロス側の部将は太守領を安堵されたほか、 ペルディッカス殺害に功績のあったセレウコスがバビロニア太守に任ぜられるなど、アレクサンドロスの帝国は新たな体制 のもとで再出発することになった。摂政となったアンティパトロスは前321(or前320)末に、クレオパトラのみはアンティゴノス のもとに残し、他の王族をつれてマケドニアへ帰国した。その結果、アジアの支配はアンティゴノスに任されることとなった。 ここではトリパラデイソスの会議以降の帝国分裂の過程を追っていくことにする。

  • アンティゴノス対エウメネス
  • トリパラデイソスの会議の結果、帝国軍総司令官として、アジアの最高権力者となったアンティゴノスがその後激しく 争った相手はエウメネスであった。エウメネスはケルソネソス半島のカルディア出身のギリシア人で、フィリッポス2世に 見いだされ、フィリッポス2世、アレクサンドロス大王のもとで書記官を勤めた人物である。しかし書記官でありながら軍事的 才能にも恵まれ、前321(前320)年には軍を率いてヘレスポントスの戦いでクラテロスを打ち破った。しかしエウメネス がクラテロスに勝利したという情報がマケドニア軍に伝わるよりも前にペルディッカスが殺されており、ペルディッカス死後の マケドニアの軍会においてエウメネスの死刑が宣告されていた。そしてトリパラデイソスの会議でエウメネスをはじめとする ペルディッカス派残党の討伐の任務はアンティゴノスに任されたのであった。アンティゴノスはエウメネスをカッパドキア内陸部 へと追いつめ、前319年春にはカッパドキアとリュカオニアの境にあるノラにて包囲したが、エウメネスはこれに頑強に抵抗 しつづけた。エウメネス包囲を続ける間、アンティゴノスはさらに支配領域を拡大しようとして、リュディアやヘレスポントス・ プリュギアを攻撃したが、これはトリパラデイソスの会議で作られた新体制を崩す動きであった。

    アンティゴノスが小アジアの支配権を確立しようとして戦っていた前319年、摂政アンティパトロスが死去した。享年80歳、 フィリッポス2世の時代以前からマケドニア王国に仕え、忠勤に励んできた重臣の死は帝国分裂への新たな火種を生み出した。 アンティパトロスにはカッサンドロスという息子がいた。彼は東征軍に従軍せず本国で父親の支配を手伝っていたが、父親 が死んだ後に摂政の地位についたのは彼ではなかった。アンティパトロスは東征軍で密集歩兵部隊を指揮したポリュペルコン という将軍を摂政に据え、カッサンドロスは無視された。ポリュペルコンの過大評価と、カッサンドロスの過小評価 がマケドニアで新たな争いを引き起こした。不満を抱いたカッサンドロスは密かに同志を募り、プトレマイオスなどの太守と 同盟を結んだことに加えて、これまで不仲であったアンティゴノスと手を組んでポリュペルコンに対抗した。エペイロスに 滞在していたオリュンピアスに、ポリュペルコンがマケドニアへの帰国を要請したことをきっかけに、カッサンドロスは小 アジアへ渡ってアンティゴノスに協力を求め(前319/8冬)、彼もそれに協力した。しかしその実、ポリュペルコンを追い落 として本国で権力を握るためにカッサンドロスとの同盟に踏み切ったのであった。

    カッサンドロスと同盟し、マケドニア情勢への介入を開始するにあたり、アンティゴノスはエウメネスに対する包囲 を解除し、彼を味方につけようとしたがその試みは失敗に終わった。エウメネスはオリュンピアスやポリュペルコンから協力を 要請され、前318年夏に王家を奉じて戦うことを選んだためである。エウメネスは包囲解除後に一時的にアンティゴノス に服属したともいわれるが、けっきょく離れていったようである。他の貴族と比べてマケドニアにおいて基盤の弱いエウメネス にとり、王家とのつながりは権力の正当性を与えてくれる物であり、そのことは支持者を求めて東方諸州を巡っているとき、 自分に従わない指揮官をアレクサンドロス大王の玉座のおかれたテントに招き入れ、王の前であるかのように空席の玉座の前 で彼らを説得したことからも明らかである。こうしてポリュペルコン・エウメネス陣営とカッサンドロス・アンティゴノス ・プトレマイオスらの陣営に分かれた争いが展開された。

    そして前318〜前316(or前315)年にかけアンティゴノスとエウメネスの間で激しい戦いが展開された。まず、エウメネスは キリキアにおいて銀盾隊と合流し(前318夏)、さらにフェニキアへはいり(前318秋or前318/7の冬)、フェニキアからバビロニア (前318秋〜冬or前317秋〜冬)へ入り、セレウコスとペイトンと交渉して味方につけようとした。その試みが失敗すると、さらに イランへ移動し、東方で大軍を集めてアンティゴノスに対抗しようとした(前317春or前316春頃まで)。アンティゴノスはバビロニア太守 セレウコスとメディア太守ペイトンを味方につけ、前317(or前316)年夏にコプラテス川で両軍が衝突した後、前317(or前316) 年の 晩秋頃にパラエタケネにて激突し大規模な戦いになった。この戦いの 結果、エウメネスの軍は指揮系統がうまくいかないなどの問題をのこし、アンティゴノスは損害は大きかったが以後優位に立つこと ができるようになった。エウメネス軍は指揮官の命令を無視して勝手に散らばって冬営し、これに対してアンティゴノスが奇襲を試み、 それを察知したエウメネスが策を巡らしてアンティゴノス軍の進軍を遅らせた。またアンティゴノスがエウメネス軍の戦象を 奪おうとしたときには速やかに救援を送って撃退した。前317/6(or前316/5)年の冬の時期にアンティゴノスとエウメネスという 後継者戦争時代有数の戦上手どうしの間で以上のような巧みな用兵が行われた様が史料などから見て取れる。

    この冬の出来事はエウメネス軍を団結させ、今までは従ってこなかったエウメネスのことをようやく全軍の指揮官と認め、 部隊がまとまるという結果をもたらした。そして遂にアンティゴノスとエウメネスの決戦が前316(or前315)年初頭 にガビエネで行われた。戦いは激戦になったが、アンティゴノスが勝利し、エウメネスは残った手勢をまとめて今後の 方針を決めるべく協議した。しかしこの時、エウメネスに従っていた銀楯隊がアンティゴノスと裏取引し、エウメネスは とらえられた。マケドニア人兵士達はこの土壇場にきてエウメネスを裏切ったのである。ガビエネの戦いにおいて アンティゴノスはエウメネス軍の輜重を襲撃してそれを奪い取っており、取られた物を返してほしいがゆえに銀盾隊はアンテ ィゴノスと取引してエウメネスを裏切ったのであった。このようにしてエウメネスをとらえたアンティゴノスは当初デメトリオス やネアルコスの嘆願もあり、彼自らもエウメネスの助命を考えていたようであうが、それが難しいことがわかると、部下達には ライオンや象のように扱えと命じ、彼を餓死させることにした。しかし移動の途中でエウメネスはアンティゴノスが知らない 間に彼の部下によって殺された(前316or前315年の1月頃)。このときエウメネスは45歳、20年にわたってマケドニア王家に仕え、 王家のために戦った男の最後であった。彼の死により王家は最後の“忠臣”を失ったのであった。

    エウメネスに勝利したアンティゴノスの力はさらに強大化し、アンティゴノスは支配領域のさらなる拡大、支配権掌握を めざすようになる。メディア太守ペイトンが殺害され、バビロニア太守セレウコスやペルシス大守ペウケスタスが大守の座を おわれた。彼に大守の座をおわれたセレウコスはエジプトのプトレマイオスのもとに逃げていった。こうして前315年末 までの間に小アジアからインドに至るまでの広大な領域がアンティゴノスの手中に収まり、これに対してカッサンドロスやプトレ マイオスらが敵対心を強めていくことになる。

  • カッサンドロスの野心
  • 話をアンティゴノスとエウメネスが東方で争っている頃のギリシアの情勢に転ずると、こちらではカッサンドロスが優位に 事を進めていた。ポリュペルコンは摂政に任命されたがそれを担うだけの能力はなく、打つ手はことごとく裏目に出た。彼は カッサンドロスに対抗するためにギリシア諸ポリスに対し、カッサンドロスの支持基盤となっている寡頭政を廃して民主政を 樹立する戦略を立てたが、これはギリシアに対するマケドニアの支配を弱めることになりかねないものであった。しかし彼は この方針で臨み、前318年初頭にギリシア各地に遠征して寡頭政を廃し、民主政を復活させた。これに従わないメガロポリスに対し 包囲戦を行ったが、これに失敗した。また、クレイトス率いるマケドニア海軍がアンティゴノスに敗北して壊滅した(前318or前 317年の夏)。海戦の敗北とメガロポリス包囲の失敗によりポリュペルコンは求心力を失い、逆にカッサンドロスの側につく者が 増えていった。カッサンドロスは勢力を盛り返し、アテナイでも民主制を廃して、ファレロンのデメトリオスに支配させる体制を 樹立した。

    ポリュペルコンの失策はギリシア政策の失敗にとどまらなかった。彼はマケドニア本国にフィリッポス3世とエウリュディケー をのこし、自らはアレクサンドロス4世と母親ロクサネを伴って移動していた。しかし、ポリュペルコンが本国を留守にしている 間にクーデターが発生し、エウリュディケー達が権力を握ると、彼女はカッサンドロスを摂政に任じた(前317年春or夏)。 孫の王位が危うくなったため、オリュンピアスが帰国することになり、オリュンピアス帰国を阻止するべくエウリュディケーは 自ら出陣した。一方オリュンピアスはポリュペルコン、アレクサンドロス4世と共にマケドニアへ向かい、両軍は前317年9月 に対峙した。しかし戦いによって決着がつくのではなく、エウリュディケー側の兵士達がオリュンピアスのほうに寝返り、彼女 と夫フィリッポス3世はとらえられた。オリュンピアスは両者をさんざんいたぶった後にフィリッポス3世を槍で刺し殺させ、 エウリュディケーを自殺に追いやった(前317年10〜11月頃)。そしてマケドニアへと帰国したオリュンピアスはカッサンドロス派の 大粛清を行い始めたのであった。カッサンドロスの弟ニカノールを殺し、同じく弟でアレクサンドロス大王の献酒係イオラオスの墓 を暴いた。さらにカッサンドロス派貴族100人を殺害した。

    ペロポネソス半島でギリシア諸都市の争奪戦を展開していたカッサンドロスは北へ向かった(前316年春頃?)。一方オリュンピアスもそれを聞 き、 ピュドナへ向かった。マケドニアに攻め込んだカッサンドロスはオリュンピアスに味方していたエペイロスを自分の側につけたりマケドニア国内 でオリュンピアス・ポリュペルコン側の切り崩しを進めて孤立させ、そして遂にカッサンドロスはピュドナでオリュンピアスとその軍勢を 包囲し、前317年冬〜前316年春(or前316〜315)まで包囲を続けた。エペイロスとカッサンドロスの同盟、マケドニア人のオリュン ピア ス からの離反、カッサンドロスの工作によるポリュペルコンの軍勢の弱体化という状況に加えて、頼みのエウメネスは前316年(or前315)初 冬に ガビエネでアンティゴノスと戦ったあとに捕らえられ処刑されてしまった。孤立したオリュンピアスは降伏し、カッサンドロスは民会を開き 彼女に死刑判決を下したのが前316年春(or前315年春)のことである。その後オリュンピアスは彼女に身内を殺された者たちの 手で(カッサンドロスによりそのような人物達が選ばれて派遣された)殺され、約60年にわたる波乱の生涯を終えた。こうしてマケドニア で実権を握ったカッサンドロスは前316年夏(or前315年夏)にアイガイでフィリッポス3世とエウリュディケーの壮大な葬儀を執り行っ た。一方アレクサンドロス4世とロクサネの親子はアンフィポリスに移した。またフィリッポス2世の娘テッサロニケと結婚した のもこのころのことである。王家の娘と結婚し、王の葬儀を盛大に執り行った彼のねらいはただ一つ、マケドニアの王となること であった。

  • 帝国分割さる
  • アンティゴノスがエウメネスを破り、広大な領域を手に入れようとして活発な活動を見せると、それまで同盟を結んでいた カッサンドロスらもアンティゴノスを脅威と見なすようになり、対アンティゴノス同盟が結成されるに至った。プトレマイオス、 カッサンドロス、リュシマコスは前314年はじめに、アンティゴノスに領土分割と財宝分配を要求したが、これは当然のごとく 拒否された。そしてアンティゴノスと反アンティゴノス同盟が激突することは避けられない事態となったのである。全面対決に 備えて同盟国獲得や海軍の整備に精を出すアンティゴノスはシリアやフェニキア諸都市を支配下におくという動きを見せた。 前314年にテュロスを包囲し、これを1年3ヶ月にわたる包囲の末に降伏させた。なお、テュロス包囲中に軍会を開いて王である アレクサンドロス4世とロクサネを幽閉したカッサンドロスを反逆者として告発したり、カッサンドロスに打撃を与えるため、 ギリシアの自由・自治の宣言をおこなった。さらに前313年にアンティゴノスは新たに建造された艦隊を就航させてエーゲ海の 島々に同盟を呼びかけた。その結果、エーゲ海の島々は島嶼同盟として組織された。一方、シリア、フェニキアをめぐって アンティゴノスはプトレマイオスと激しく争った。前312年のガザの戦いでプトレマイオスはアンティゴノスの息子デメトリオス を破るが、アンティゴノスは直ちにこちらに向かい再びシリア、フェニキアを支配下に治めた。こうして各地で争いがつづいて いたが、前311年になって彼らの間でようやく講和が結ばれた。講和の結果、そこに含まれていなかったセレウコスも含めて 5つの大きな勢力範囲に分かれ、事実上5つの王国がこの時点で出現した。そして翌前310年、アレクサンドロス4世とロクサネ が殺害され、アレクサンドロス大王の血統はとだえてしまうのであった。


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