「最も優れた者へ」


前323年にアレクサンドロス大王がバビロンで急死したとき、彼は後継者を正式に指名していなかった。 彼には異母兄弟のアリダイオスがいたが、彼は精神障害があるといわれていた。また愛人バルシネとの間にヘラクレス という子がいたが、庶子扱いであり考慮されていなかった。またロクサネが妊娠中であったが男子が産まれると 言う保証はなかった。一方、バビロンには彼と苦楽を共にしてきた部将達が多数おり、彼らは皆それなりの力は 有していた。アレクサンド ロスは死に臨んで彼らに対し「最も優れた者に」帝国をゆだねると言うことを言った とされ、彼の死後、部将達の間で権力闘争が展開されていく。一方アレクサンドロスの死は帝国の東と西で ギリシア人の反乱を引き起こした。東方各地の軍事拠点や都市に入植させられていたギリシア人傭兵達が王の死を 知ると反乱を起こしギリシアへ帰還しようとした。その数は歩兵20000、騎兵3000であったという。メディア太守の ペイトンが鎮圧を任され、反乱そのものは鎮圧された(一説には反乱を起こした兵士達が全員殺害されたわけではなく、 残ったギリシア人達はその後の後継者戦争に登場するという)。一方西側ではアテナイを中心に反マケドニア連合が作られ、 前323年にレオステネスを指揮官としてラミア戦争をおこして一時はアンティパトロスを追いつめたが結局敗れ、 アテナイは降伏した。その後アンティパトロスはアテナイと共に戦ったアイトリアに対して攻撃を仕掛けることになる。

話をもどすと、アレクサンドロス大王の死後、最初に主導権を握り、有力な地位についたのはペルディッカスで あった。彼は 幼少時よりアレクサンドロスと共に学んだ仲であり、東征軍では密集歩兵隊長、側近護衛官をつとめ、 ヘタイロイ騎兵の指揮官にもなった人物であった。王位継承を巡ってロクサネが出産するであろう男児を後継者と する騎兵部隊と、アリダイオスを後継者とする歩兵集団の間で対立が起きたが、彼は前者の意見を最初に提案した。 これに対して、歩兵達は反発してアリダイオスを支持し、メレアグロスという部将がこちらに荷担した。結局ペルディッカス の説得に歩兵部隊が応じて、アリダイオスをフィリッポス3世として即位させ、ロクサネが出産した子供が男児であれ ば共同統治者とする妥協案をとりまとめた。この過程で彼は実権を握り、征服地各地を部将達の間で割り振ると (プトレマイオスはエジプト、アンティゴノスはフリュギア、リュシマコスはトラキア等々)、フィリッポス3世の 後見に東征後半の副将クラテロスを任命し、ヨーロッパの統治をアンティパトロスに任せ、自らは帝国摂政として アジア部分を支配した。な お、メレアグロスは当初ペルディッカスの副官ということになっていたが、まもなく殺害 され、排除されてしまった。

しかし前322年に入るとペルディッカスの地位も危うくなってしまう。ペルディッカスはアンティパトロスと協調する ため、前323年にアンティパトロスの娘ニカイアに求婚していた。一方、マケドニアで度々アンティパトロスと対立して きたオリュンピアスは自らの生き残りをかけて、娘クレオパトラをペルディッカスに嫁がせようとして、前322年 夏に小アジアのサルデスへ送り出した。当時アンティパトロスもペルディッカスの求婚に応じて娘ニカイアを送り出 していた。この状況でペ ルディッカスはニカイアと結婚し、のちにクレオパトラをめとるという方針を立てたようで あるが、このことが彼にとり命取りとなった。当 時プリュギアなどの太守を勤め、彼と対立関係に入ったアンティゴノス が小アジアから密かにギリシアへと脱出して王族の娘との結婚で王家に接近し、彼自身が王位を目指しているという彼の野心を アンティパトロスに告げたのである。当時アイトリア人との戦いの最中であったアンティパトロスはプトレマイオスらと ともに対ペルディッカス同盟を結成し、ペルディッカスと戦うべく動き始めた(前321年or前320年の春)結局ペルディ ッカスは小アジアにはエウメネスを派遣して本国軍に当たらせ、自ら対立するプトレマイオスのいるエジプトへ侵攻しが、 ナイル川渡河に失敗し、戦わずして多数の将兵を失ったのち彼の威信は地に落ち、彼はペイトン、アンティゲネス、セレウコス らに率いられた騎兵により殺害されてしまった。

ペルディッカスの死と同じ前321(or前320)年に王の後見役であったクラテロスも戦死した。ペルディッカスは 小アジア方面にはエウメネスを派遣して、本国から侵攻してくるアンティパトロス、アンティゴノス、クラテロスに備えさせ ていた。うち前2名はペルディッカスを追って進路を変えており、エウメネスはマケドニア軍中で声望高きクラテロスと戦うことに なった。この時クラテロスの声望の高さから兵士達が寝返ることをおそれたエウメネスはクラテロスと戦うことを兵士達 には秘密にして戦いに臨み、クラテロスを敗死させた。こうして前321年夏(or前320年夏)までに帝国の暫定体制を支える 3人の有力者中2名が死んでしまった。

ペルディッカスを失った軍はエジプトからシリアのトリパラデイソスという場所へと移動していった。そしてこの時に 軍中で大きな変化が起きる。話は前322年夏に遡る。フィリッポス2世の娘キュンナが軍勢と自分の娘アデアを伴い、 一路バビロンへ向けて進発した。目的はバビロンのマケドニア軍と合流したうえで、娘をフィリッポス3世(アリダイオス) に嫁がせることであった。アンティパトロスの妨害も振り切ってマケドニアを出国し、小アジアに上陸したキュンナ はペルディッカスが差し向けたアルケタスに殺害されるが、娘をアリダイオスと結婚させることに成功し、彼女は アデアからエウリュディケーと改名した。そのエウリュディケーがトリパラデイソスで行動を起こし、王の妻として 軍に命令する権利を要求したのであった。それからまもなくアンティパトロスの軍勢もトリパラデイソスに到着するが、 給与遅配に不満を強めていた兵士達を前にエウリュディケーが弁舌をふるい、アンティパトロスを弾劾した。その弁舌に 動かされた兵士達はアンティパトロスに敵意を向け暴動が発生、彼はアンティゴノスとセレウコスによって救われた。 これを機に形勢は逆転し、ア ンティパトロスはエウリュディケーを抑えることに何とか成功した。そして彼は会議を開き、 自ら摂政の地位につき、王国軍隊の総司令官としてアンティゴノスを任命した。そして、アンティパトロスはアジアに関心 を示すことなく、王2名を伴ってマケドニアへと帰国してしまったこともあり、これ以降20年にわたる後継者間の領土や権力を めぐる争いのなかでアンティゴノスが大権をふるうようになっていくのである。


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