父と子
〜フィリッポス2世とアレクサンドロス大王〜


紀元前4世紀後半に強国として発展し、世界帝国へと発展したマケドニア。その発展をもたらした2人の国王 フィリッポス2世とアレクサンドロス大王はどちらもマケドニア王国史上非常に優れた君主としてその名を残して いる。しかし両者を比べると、父と息子では違っている点も見られる。

  • 軍人、政治家として
  • フィリッポス2世もアレクサンドロス大王も、その治世を通じて幾度と無く遠征を行い、数多くの勝利を収めてきたことが しられている。フィリッポス2世は即位間もなく周辺諸民族や王位を狙う他の王族に立ち向かわねばならなかったが、この時彼 は軍事力を用いて敵を退けるやり方と、巧みな外交によって乗り切るやり方を併用していた。アテナイに対して、長年係争地 となっているアンフィポリスから兵を引くことを約束し、パイオニアやトラキアに対しては贈り物により、王族への支援を辞 めさせている。このように外交手段により敵の脅威を退けるのみ鳴らず、その後軍事力を用いてパイオネス人を攻撃したり、 イリュリア人を撃退するなど、軍事力と外交の使い分けを治世当初から行ってきた人物である。軍事・外交両面の優れた才能 はフィリッポスの治世においてアンフィポリス攻略(前357)やトラキア遠征(前347〜6)でも遺憾なく発揮されている。外交 交渉で安心させておき、その間に軍隊を送って攻略するということがしばしばみられるが、フィリッポス個人は軍事的勝利より 外交による成果の方を重んじていたとも言われている。こうした外交工作の場では国内で算出する多量の貴金属や自然資源が 大いに活用され、フィリッポスは多額の金貨・銀貨を用いて各地のポリスに親マケドニア派を育成していたのであった。 このように策略を労するのみならず、戦場での用兵はカイロネイアの戦いにみられるように巧みであり、フィリッポス自身も 戦場では勇敢に戦う戦士であった。そのため、フィリッポスの体には多数の傷が残されていたという。

    一方、アレクサンドロス大王の場合はどうであろうか。彼は治世の大半を戦場で過ごしたが、軍事作戦における彼の行動は 果断である。北方遠征中にテーバイが反乱を起こしたと聞けば、一気に南下して敵が準備を整える前に軍勢を集結させてこれを 殲滅し、イッソスの戦い前夜にダレイオス3世に背後をとられたと知るやいなや、反転して要所となるヨナの柱を抑えて軍勢 の安全な進軍路を確保した。また、合戦の最中に相手が一瞬でも隙を見せればそこをめがけて突撃して一気に敵を打ち破る様子 が史料からも伺える。合戦における用兵は巧みであり、敵の布陣を確かめると密かに兵力を移動させて布陣を巧みに展開させたり、 陽動作戦を多用するなどの様子がうかがえる。一方、彼が外交手段をもちいたり、計略を用いて敵を欺いた様子はあまり見られ ない。むしろ、テュロス包囲戦やソグディアナ、インドにおける軍事活動に見られるように力押しして敵を打ち破り、殲滅すると いう行動が目立つ。その結果、ソグディアナやインドでは大量虐殺や都市の破壊という記録が数多く残されている。また、彼の 行動も冷静に行動しているときと、何かの衝動に駆られて行動しているときの差がかなり大きいようである。イッソスやガウガメラ の戦いでは巧みな用兵によって敵軍を打ち破ったが、ダレイオスを追撃して後続の部隊を顧みないような行動をとったり、インド 人との戦いでは自ら敵のまっただ中に飛び込んでいって瀕死の重傷を負ったことなどは衝動に駆られて動いるとしか考えられない 場面であるが・・・・。アレクサンドロスも東宝系の太守をそのまま利用したりする点からは冷静な政治的判断を下す能力は十分 にあると考えられるが、フィリッポスと比べると駆け引きなどはあまり用いていないようである。

  • 個人として
  • フィリッポス2世とアレクサンドロス大王に共通していることの一つに、飲酒癖がある。フィリッポスもアレクサンドロス も頻繁に饗宴を開き、かなりの量の飲酒をしているように見える。マケドニアにおいて饗宴が単なる飲み会ではなく、政治的議論 等を展開し、物事の決定にもかなり関係するものであることを考えると、饗宴が頻繁に行われることは何ら不思議なことではない。 しかし、酩酊したときの両者の行動について、ある史料ではフィリッポスは酩酊すると宴会を飛び出して敵に向かっていき、自らの 身を危険にさらし、アレクサンドロスは敵ではなく自分の部下に凶暴に振る舞ったとつたえている(おそらくクレイトス刺殺事件 のことを念頭に置いての発言とおもわれる)。フィリッポスに関してはカイロネイアの戦いの直後、よった勢いでデモステネス をおちょくるまねをしたり、宴会の場に芸人や楽人を多数連れていたということが伝えられ、アレクサンドロスに関しては飲むと 自慢話で人に不快な思いをさせたり、軍人風になり自分を自慢し、お世辞に乗せられてまじめな人々は困り果てる、といった話 も伝えられる。アレクサンドロスの深酒に関しては実際には側近につきあって長い間宴会にいるだけであるとの見方も可能だが、 度を超した飲酒は恐らく彼の命を縮めることとなったであろう。

    女性に関しては、フィリッポスは政略結婚で6人、最後の一人は恋愛結婚というように7人の妻を迎えている。一夫多妻の マケドニアにおいては別に変わったことではなく、外交手段の一つとして結婚もフィリッポスのなかでは重要な手段となって いたためである。一方、アレクサンドロスに関してはペルシア王妃や王女に対する丁重な扱い、カリア太守アダとの関係など 女性に対し丁重な扱いをしている記述がみられるほか、愛人一人(バルシネ)、妻2人(ロクサネ、スタテイラ)がいたことが しられている。どちらかといえばこの点に関してはアレクサンドロスの方が節度があるように感じられるのは気のせいであろうか。

    友人への接し方に関しては、フィリッポスはあくまで親しく交わることを臨み、アレクサンドロスは治世後半になると幾分か 尊大な態度をとる、あるいは宴会で口論のあげく刺殺するということがみられるが、王とマケドニア人の関係の変化はバルカン 半島のみの王権であったフィリッポスの時代と、ペルシア帝国を征服し、いかに支配するのかを考えていかねばならない時代 で変化が起きている。ペルシア人を支配下において以来、マケドニア人と王の関係も色々と修正を迫られていたためであろう。 それゆえにマケドニア人にも跪拝礼を強制しようとしているのである。そういった点を考えてみてみると、友人への接し方は フィリッポスもアレクサンドロスも、あくまで親しく交わり、友情を重んずるところがあったと考えられる。


    フィリッポスとアレクサンドロスに関して、資料の書き方によって色々と違いがある。個人としての2人はいずれも宴会を好み、 それなりに女性との関係も持ち、友人とは親しく交わり、友情に厚いといった傾向が見られるようである。しかし異なる性格も 持ち合わせており、フィリッポスは事を運ぶに当たって慎重であり、アレクサンドロスは果断であったといえるのでないか。 巧みな外交手腕を見せつつ、軍事力によってギリシア世界の覇権を握っていったフィリッポスと、正面から敵に立ち向かって これを打ち破り、時として衝動的な行動をとるアレクサンドロスという違いはそこから生じてきたのであろう。


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