ガウガメラの戦い


紀元前331年10月1日、マケドニア王アレクサンドロス3世(大王)率いるマケドニア・ギリシア連合軍とペルシア王 ダレイオス3世率いるペルシア帝国軍が激突した。マケドニア軍は騎兵7000騎、歩兵4万人と推定されている。ペルシア 軍の数は史料により差があり一定しないが恐らくクルティウスの伝える騎兵4万5000、歩兵20万人が妥当だと思われる (他の総勢100万に達する大軍勢という記述は誇張であろう)。なお、ガウガメラの戦いにおけるペルシア軍の布陣は、 合戦の後に没収したペルシア軍の文書をもとに書くことができたため、他の戦いと比べて詳しい記述が残されている(ただし、 あくまで書面上での布陣のため合戦当日に実際にその通りに配置されていたのかどうかは少々気にかかるところもある)。

  • ペルシア軍左翼
  • ペルシア軍左翼はバクトリアの太守であるベッソスが指揮しており、そこにはバクトリア騎兵(8000騎) が配置され、さらにその前には1000騎のバクトリア騎兵と2000騎のスキタイ人騎兵が並べられた。そのほかに 帝国東部から集められた騎兵部隊(アラコシア、スシア、カドゥーシオイ人が各2000くらいづつ)、ペルシア人歩兵と騎兵の混成部隊(5000〜 6000)が配置された。ダレイオスは帝国東部からも大軍を集め、そのなかでも帝国最強の騎兵と言ってもよい バクトリア騎兵とスキタイ人騎兵を左翼に配置してマケドニア軍に備えたのであった。

  • ペルシア軍中央・右翼
  • ペルシア軍中央部はダレイオスが指揮を執り、王の「同胞」と呼ばれる精鋭騎兵部隊1000騎と「金林檎の槍持ち」と 呼ばれる親衛部隊1000人が陣取った。その横を固めるのはペルシア軍最強の歩兵戦力であるギリシア人傭兵部隊であった。 中央部にはインド人やカリア人、マルドイ人やバビロニア人、紅海沿岸諸族、シッタケノイ人などが配置されたほか、 ゾウ部隊もここにおかれた。後にインド侵攻後にゾウ部隊とマケドニア軍は激しく戦うが、始めてゾウ部隊に遭遇したのは ガウガメラの戦いであった。ペルシア軍右翼はサカイ人、パルティア人、カッパドキア人、ヒュルカニア人などの騎兵部隊 が配置された。右翼はシリア・バビロニア太守マザイオスが指揮を執っていた。

    そしてダレイオスがかなり期待をかけていた兵器である大鎌付き戦車は左翼に100両、中央・右翼に各50両配置された。 ガウガメラの平原を戦場に選び、しかも戦場を前もってならしていたと言われることからもこの兵器によりマケドニア軍に損害 を与えようとしたのであろう。

    ダレイオス3世は推定25万の軍勢を率いてガウガメラの平原に布陣したが、唯一の不安点はアレクサンドロスを恐れるあまり 一晩中完全装備の状態で警戒態勢をとらせ続けた事だと言われている。これによりペルシア軍の兵士たちは疲労してしまい、 恐怖心が心の中にわき上がり、結果としてペルシア軍の士気が低下してしまうことになったと言われている。

  • マケドニア軍の陣容
  • 一方、アレクサンドロスの軍勢は中央にマケドニア密集歩兵部隊と近衛歩兵部隊が位置し、その両翼は騎兵が固めていた。 左翼はテッサリア騎兵と同盟軍騎兵、オドリュサイ人騎兵、弓兵と投槍兵が位置し、右翼はヘタイロイ騎兵、アグリアネス 人軽装兵、弓兵、傭兵騎兵(メニダス指揮)、パイオネス人騎兵、前哨騎兵、古参傭兵部隊が配置された。アレクサンドロスは メニダス指揮の傭兵騎兵部隊に、敵が側面包囲を試みたならば方向を転じてそれを迎え撃つように命じていた。中央の歩兵部隊の 背後にはギリシア人歩兵部隊が第2列として配置され、ペルシア軍が包囲しようとしたならば方向を転じて迎え撃つように命じ られていた。マケドニア軍の総勢は歩兵4万人、騎兵7000騎であったという。


    ガウガメラの戦いにおける両軍の布陣(P.ブリアン「アレクサンダー大王」、170頁より)
  • 戦いの展開
  • このような陣立ての両軍の戦いは、マケドニア軍右翼において開始された。以下、その経過を順に追っていく。

  • (1)マケドニア軍の右方向への展開・右翼の激戦
  • アレクサンドロスはマケドニア軍を右方向へと進めていった。それに対してペルシア軍はこれを包囲しようとして動き始め、 戦列が左へと伸びていった。しかしマケドニア軍の右方向への前進は止まらず、ペルシア軍の戦列が左へと伸び続ける様子 を見たダレイオスは、せっかく大鎌付き戦車を使いやすいようにならした土地からマケドニア軍がはみ出して戦車が役に立た なくなることを恐れて、ペルシア軍左翼の騎兵部隊に攻撃命令を下した。バクトリア騎兵とスキタイ人騎兵が マケドニア軍右翼に襲いかかり、マケドニア軍ではメニダス指揮の騎兵部隊が応戦したがあっさり敗退した。しかし前哨騎兵と パイオネス人騎兵、傭兵歩兵部隊が駆けつけてこれに応戦し、ペルシア側もバクトリア騎兵の主力部隊が合流し、両軍の間で激戦 が展開され、結局マケドニア軍はペルシア軍を撃退した。

  • (2)大鎌付き戦車投入・ダレイオス動く
  • ダレイオスはとっておきの大鎌付き戦車を投入したがこれは完全な失敗に終わった。確かに一部の兵士はこれの攻撃で傷 を負ったようだが、マケドニア軍の弓兵や投槍兵により御者が引きずりおろされたり攻撃を受けたほか、マケドニア軍の統制の とれた行動によりあっさりとやり過ごされたところを攻撃され、制圧されてしまったようである。ここにいたってダレイオスは 歩兵を動かすが、この段階にいたって左翼の騎兵部隊と中央のダレイオスの部隊の間に隙間が生じてしまった。そしてアレク サンドロスはそれを見逃さなかったのである。

  • (3)アレクサンドロス突撃
  • ペルシア軍の戦列に切れ目が生じたのを見て取ったアレクサンドロスはヘタイロイ騎兵、近衛歩兵部隊、右翼に布陣していた 密集歩兵部隊を率いて突撃を敢行した。これらの部隊により右翼に巨大な楔形の陣形が出現し、ペルシア軍の戦列の隙間に 襲いかかった。これによってダレイオスのいる中央部を一気に突こうとした。騎兵と歩兵が一体となってペルシア軍に襲い かかり、ダレイオスはマケドニア軍が襲いかかってくるのを見ると、真っ先に闘争し、ペルシア軍左翼も敗走した。こうし てダレイオスはイッソスの戦いに続いて、またしても敵の攻撃を受けて真っ先に逃亡するという醜態をさらすことになったので ある。

  • (4)マケドニア軍中央部の危機
  • 一方、アレクサンドロスがダレイオスめがけて突撃し、さらにダレイオス追撃に入ろうとしている頃、マケドニア軍中央部と左翼 は危機に陥っていた。上述のように、アレクサンドロスは右翼の戦力を使って巨大な楔形陣形を組んで突撃したが、マケドニア 密集歩兵部隊の間に隙間が生じてしまった。右翼はアレクサンドロスについて突撃したが、中央部では追撃に移るものとその場 にとどまるものがいたために戦列に隙間が生まれたのである。ペルシア軍がその隙間を突いて一気にマケドニア軍の戦列を突破し、 第2列のギリシア人部隊も突破した。ペルシア軍が一気に反転してマケドニア軍を背後から包囲する形をとっていたならば 危ういところであったが、ペルシア軍はそのような動きを見せることはなかった。戦列を突破したペルシア軍は後方にあった マケドニア軍補給基地の略奪に終始し、その間に第2列の歩兵部隊が反撃し、ペルシア軍を撃退した。おそらくペルシア軍が マケドニア軍中央部に生じた隙間を突いて戦列を突破した動きは包囲作戦の一環ではなく、偶発的なものであったと考えられる。

  • (5)マケドニア軍左翼の苦戦と勝利。そしてダレイオス追撃へ
  • アレクサンドロスがダレイオス追撃に取りかかっている頃、パルメニオン指揮下のマケドニア軍左翼はペルシア軍の攻撃 を受けて苦戦を強いられていた。正面のペルシア軍騎兵に圧迫されたパルメニオンはアレクサンドロスの元へ救援要請を送っ たがこれは届かなかった。結局パルメニオン率いる左翼はテッサリア騎兵らの奮戦によって何とか持ちこたえることができた。 さらにダレイオス敗走の知らせがペルシア軍右翼に広まったこともあり、彼らは敗走し始めた。ダレイオス追撃をあき らめて引き返してきたアレクサンドロスと敗走するペルシア軍騎兵部隊が激突して騎兵同士の激戦が展開された。激戦の末に ペルシア軍を撃退したアレクサンドロスは再びダレイオス追撃に取りかかったが、リュコス川を渡ったところで軍を止め て野営して兵士と馬を休ませた。一方パルメニオンも軍を反転して敵を追い、ペルシア軍の陣地を占領した。そして夜半過 ぎにアレクサンドロスはダレイオスをとらえるべくアルベラへと向かい、約100キロほどを走破して翌日にアルベラに到着した。 しかしダレイオスはすでに逃走した後であり、彼を捕獲することには失敗した。しかしアルベラにおいて多額の財貨などの 戦利品を獲得することには成功した。



    両軍の展開(前掲書、171頁より)

    ガウガメラの戦いはこのような経過の戦いであった。マケドニア軍は自らの数倍の軍勢を打ち破ることに成功したが、ダレイオス を捕獲することはできなかった。一方でこの戦いに敗北したダレイオスは体勢を立て直すべくさらに東へと逃げていくが、再起 することはできず、部下の裏切りにあって悲劇的な最期を遂げることになる。ダレイオスは自らに有利な場所を戦場に選び、帝国 全土から大軍を動員して備えたにもかかわらず、彼が率いるペルシア軍は数の優位を生かしてマケドニア軍を包囲することができ ず、マケドニア軍の中央に生まれた隙間を突くことはできてもそれを活かすこともできず、さらに頼みの戦車は全く無意味であっ た。一方でアレクサンドロスはペルシア軍の戦列にできた隙間を突いてダレイオスに突進し、彼を敗走させてペルシア軍を一気に 敗北へと追いやった。アレクサンドロスの部隊の巧みな運用と攻撃するべき時にはためらうことなく攻撃を仕掛ける果断さが勝利 をもたらした一方で、彼がダレイオスの追撃に夢中になるあまり後方に残したマケドニア軍左翼が危機的状況に陥るなどの問題も 残している。しかし、この戦いによってペルシア帝国の敗北は決定的なものとなり、アレクサンドロスがペルシア帝国の新たな支 配者としてバビロンやスサ、ペルセポリスへとはいる道を開くことになったのである。


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