東征軍の規模


アレクサンドロスの10年にわたる遠征を支えたのは彼が率いた軍団であった。彼らは圧倒的な兵力差をものともせず ペルシア軍を打ち破り、ヒンドゥークシュ山脈を越え、インダス川を下り、ゲドロシアの砂漠を横断し、アレクサンドロス と行動を共にしたのであった。

(東征初期の戦力)

出発時 歩兵 32000、騎兵5100(マケドニア・ギリシア諸ポリ ス・バルカン諸民族)
先遣隊 歩兵10000、騎兵1000(小アジアで合流)

前336年にフィリッポス2世がパルメニオン、アッタロスに率いさせた先遣隊は正確な構成は不明だが主に傭兵からなって いたという。東征軍の兵力については史料によって実数に差が大きいが、最も細かい編成が書かれているディオドロスに 従ってこの数字をあげておく。その構成はマケドニア軍密集歩兵12000人 (ヒュパスピスタイ(近衛歩兵)3000、密集歩兵9000人)ギリシア同盟軍重装歩兵7000人、ギリシア人傭兵5000人オドリュサイ・トリバッロイ・イリュリア人軽装歩兵7000人、弓兵とアグリアネス人 部隊1000人ヘタイロイ騎兵1800騎テッサリア騎兵1800騎ギリシア同盟軍騎兵600騎トラキア人・パイオネス人前哨騎兵(プロドロモイ)900騎であった。 なおアレクサンドロスの東征軍にはこれを支援する車両部隊(糧秣や軍用機材の輸送)、攻城機械などを扱うための様々な技術者 や職人、馬丁、医者、記録係、学者などを連れていた。この大軍を維持するためにアレクサンドロスは王領地や港湾収入の権利を 売却したり、さらに借金をして(アリアノスに依ると800タランタ)何とか補ったが、1ヶ月分の準備しかできなかったという。 そのため、速やかに小アジアの拠点となる都市や大都市を落とし、そこから財貨を得る必要があったと考えられる。もし、ペルシア 王ダレイオスが正々堂々戦え等という命令をださず、焦土作戦を主張していたメムノンにすべて一任していたとしたら、恐らく 東征は失敗に終わっていたであろう。

(増援)

歩兵300(ギリシア人傭兵、ミレトスにて)
歩兵3150、騎兵500(ゴルディオンにて、マケドニア人3000、エリス人150、マケドニア騎兵300、テッサリア騎兵200)
4000人(テュロスにて、ギリシア人傭兵)
歩兵400、騎兵500(エジプトにて、ギリシア人、トラキア人)
歩騎併せて15000ほど(スサにて、マケドニア人6000、トラキア人3500、ギリシア人4000、マケドニア騎兵500、トラキア騎兵600、その 他騎兵1000)
アラコシア、パラパミサダイ人の騎兵(数は不明)
歩兵19400、騎兵2600(アンティパトロスや各地の太守が集めた傭兵)
現地人兵士(スキュタイ、ソグディアナ、ダハイア、バクトリア人の騎兵)
ニュサの騎兵300(インド人)
騎兵700(インド人、タクシラ王の増援)
5000人(インド人?)
騎兵5000、歩兵7000(ギリシア人?、メムノンがトラキアから率いてきた騎兵とハルパロスから託された傭兵歩兵)
2500騎(マッロイ人、オクシュドラカイ人。一種の人質)
1000人、500両の戦車(オクシュドラカイ人。一種の人質。ただしこの人々は返したという話もある)
30000人(イラン系兵士、各地で集めて鍛えていた兵士達をスサに呼び集める)

アレクサンドロスは東征開始当初は戦費の不足に悩まされた。フィリッポスはマケドニアの国力を増すと共に歳入も 増やしたが、同時に支出も莫大であり、王国財政は赤字であった。アレクサンドロスの即位当初には莫大な借金が残 っていた。そのため遠征開始当初は1ヶ月分ほどの戦費しかなかったという。しかしイッソスの戦いでダレイオスが 残していった戦利品を獲得するなどして、ようやく潤沢な金銀の蓄えができてくると、それを用いて傭兵を多数雇い はじめたようである。一方マケドニア本国からも増援部隊を集めているが、マケドニア本国からの増援は前331年を 最後に行われておらず、その後マケドニア人兵士が増えることはなかった。遠征後半はギリシア人傭兵、さらに東方 の騎兵が数多く用いられるようになる。スキタイ人などとの戦いを通じて、騎射の有効性を知ったために東方系の騎兵 を多数採用したのであろう。また、騎兵の採用に関しては、アレクサンドロスが騎兵の再編成を行ったときに、東方系の 騎兵のなかからヘタイロイ騎兵に編入されるものも現れる。またイラン系の若者をマケドニア式に鍛え上げ、彼らを軍 に組み込もうとしている様子も窺える。このような東方系住民の兵士達はマケドニア密集歩兵や騎兵を補う戦力として 期待された。しかし急激にイラン系の兵士をマケドニア軍に組み込もうとしたことがマケドニア兵の不安を呼び、 オピス騒擾事件につながるのである。

マケドニア式の訓練・装備をほどこされた東方系兵士の育成や、東方系の騎兵のヘタイロイ騎兵への編入といった アレクサンドロス最晩年の軍の再編成について、これらの事例は単純に東西融合として理解することは難しいと 思われる。軍への組み込み方は彼らの伝統的な戦闘スタイルではなく、マケドニア式の兵制、装備を採用させている ことからもこれが東西文明の融合などではなく、あくまでマケドニア軍の兵制に東方系住民を組み込んで兵力減少分を 補っていくというきわめて現実的な政策であったと考えられる。また、東方系住民を多数軍に組み込んでいく時期は、 マケドニア人兵士達がアレクサンドロスに対して以前ほど従順ではなくなりつつあった時期であり、東方の人々にマケドニア式 の訓練を施して新たに軍に組み込むことは、彼に対して反抗的な態度を見せるようになったマケドニア人兵士たちを 牽制する意味があった。また、これら東方系の兵士たちは地域から切り離された存在となり、アレクサンドロスにのみ 従う兵士として用いることが可能となるほか、一種の人質として、東方諸地域の反乱勃発を抑制するという効果も 期待されたのではないかと言われている。

(守備隊・除隊などによる減少)

アルゴス人兵士(守備隊、サルディスに)
歩兵3000、騎兵200(傭兵、ハリカルナッソス)
1500人(ゴルディオン出発前にケライナイに)
4000人(エジプトに)
1000人(バビロンに、マケドニア人700、傭兵300)
2000人(バビロニアなどの太守につけた兵隊)
4000人(スサに)
3000人(ペルセポリスに)
*6000人(財貨警備のため、一時的にマケドニア人を置く。その後まもなく本隊に合流)
ギリシア同盟軍のなかで傭兵雇用を望まなかった人々(東征軍を解散)
歩兵4000、騎兵600(太守にカウカサスのアレクサンドレイアや周辺地域の守備隊として与えた。都市への植民として用いられたこと から、ギリシア系傭兵か?)
900人(マケドニア人やテッサリア人の老兵達が帰国、オクソス川にて)
歩兵1000、騎兵3500(バクトリアの守備のため)
マケドニア人守備隊(ペウケラオティスに)
守備隊(アオルノスに)
守備隊(タクシラに)
守備隊(アケシネスに、トラキア人)
守備隊(ムシカノスの都市、国に)
守備隊(パッタラに)
守備隊(オレイタイ人の地の太守に与えた兵力、アグリアネス人全員、弓兵と騎兵の一部、ギリシア人傭兵の歩兵騎兵)
10000人(マケドニア人の除隊)

アレクサンドロスは征服した都市に守備隊を置いたり、征服地防衛のため太守にかなりの数の軍勢を与えて防衛にあたらせた ことがわかる。また東方で都市を建設した際にはその都市の入植・守備のためにギリシア人傭兵などが送られたようである。 このようにアレクサンドロスの征服に伴い、征服地の各地に置かれた守備隊であるが、かれらは純粋に占領地の守備のために駐屯 させられただけではなく、隔離の意味もあった。守備隊としてはギリシア人の傭兵達が用いられたが、こうした地域に入植さ せられたギリシア人達はアレクサンドロスに反抗する可能性を持った兵士達であり、それを隔離する必要があったためである。東 方へ傭兵として送られてくるギリシア人の中には、前331年のアギス蜂起の際にマケドニアに反抗した人々やペルシア軍で働いてい て投降した兵士達も含まれていたためである。ギリシア本土や東征軍からこれらの人々を切り離すことが必要だったのである。また アレクサンドロスの方針に不満を抱くマケドニア人も存在していたが、東征軍内部にいるこれら不満分子も軍隊から切り離されて 都市に入植させられた。守備隊や入植者たちは潜在的な不満分子であり、前326年にアレクサンドロスが戦死したという情報が伝わ るとソグディアナやバクトリアで武装蜂起したり、アレクサンドロス死後の前323年には歩兵20000、騎兵3000がバクトリアで大反乱 を起こしている。そのため、アレクサンドロスによるギリシア人の入植が即ヘレニズム文明につながると考えるのは少々話が先に 進みすぎていると考えて良いと思う。彼らが東方に定着してヘレニズム文明の担い手の一部となるのは後継者戦争後にセレウコス朝 が積極的に植民を行い都市を建設したためであろう。

(戦死などによる損失)

騎兵85騎、歩兵30人(グラニコス川)
56人(ハリカルナッソス)
20人(サガラッソス)
歩兵300人、騎兵150騎(イッソス)
400人(テュロス)
かなりの損害(ガザ)
100〜500人(ガウガメラ)
若干名(タナイス川)
歩兵1212以上、騎兵842以上(ソグディアナでの作戦活動)
25人(マッサガ)
歩兵700、騎兵280(ヒュダスペス)
100人(サンガラにて、1200人負傷)
25人(マッロイ人との戦闘)
幾ばくかの損害(ガドロソイ人との戦闘)
かなりの損害(マクラン砂漠横断による)

会戦における損害や攻城戦における損害については、それが実数を伝えているとは限らない事例もある。また史料によって その数に大きな差がついているものもある。またマケドニア側の損害が全く触れられていない軍事活動もある。こうしたこと から正確な数字は分からないが、戦闘によるマケドニア軍の損害は敵に与えたものと比べるとかなり少ない。ただし、数字 に表れぬ数多くの人々が遠征で傷つき、故郷から遙か遠い地に入植させられて、苦しんでいた。このような損害を受けつつ スサ、バビロンまで帰り着いた東征軍であるが、彼らの多くはアレクサンドロス死後の後継者戦争期に兵士としてさらに用い られ、ギリシアやマケドニアに帰ってゆっくりと過ごすことは出来なかったと考えられる。

東征軍は当初はマケドニア・ギリシア連合軍として編成された。しかしグラニコス川の戦いでは用いられず、ガウガメラの戦い では後詰めに回されるなど、ギリシア人部隊(特に歩兵)はあまり重要視されておらず、主力はマケドニア軍であった。 そして東征が進むにつれて、騎馬弓兵などに中央アジアの騎馬民族を兵士として用いたり、イラン人にマケドニア式の訓練を 施して軍に組み込もうとするなど、徐々に東方系住民の占める比率が増していくことになる。合戦での死傷者に関してそれが 合戦全体の死傷者を伝えているかはっきりとしないがマケドニア軍の損害はそれほど大きくはなかった。しかし行軍が長くなり、 さらに故郷から遠く離れていったことが兵士達の不満を引き起こすことになり、ヒュファシス川で引き返すことになったのである。


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