ヴェルギナ王墓の被葬者
(2012年改訂版)

  • ヴェルギナ王墓の発掘
  • 1977年から78年にかけ、ギリシアのヴェルギナにおいてテッサロニキ大学教授マノリス・アンドロニコス ( Andronikos, Manoles, 1919-1992)は3基の墳墓を発掘した。3基の墳墓のうち、1基は石櫃式の小型 墳墓で盗掘を受け、副葬品は持ち去られ、床に人骨がばらまかれていた。しかし残り2基の墳墓は未盗掘 であった。第2墳墓と第3墳墓は第2墳墓の方が規模が大きいという違いはあるが半円型のヴォールト天井を持ち、単室ないし副室 (主室と前室がある)からなる構造をもっている点で共通する。

    これら墳墓の被葬者がだれであるのかについては、1977年10月に発掘を開始してから1ヶ月ほど経った11月下旬に、アンドロニコスは第 2墳墓の被葬者をフィ リッポス2世であると発表した。しかし、この発表時点ではまだ第2墳墓の調査は完了していなかったこともあり、 アンドロニコスによる少々性急すぎる断定がその後のヴェルギナ王墓の被葬者を巡る混乱を引き起こすことになる。そして、21世紀に突入 した時点でも被葬者を特定する決定的証拠は挙がっていない中、議論は続けられている。

    その他、古い形式で作られ、盗掘を受けていた第1墳墓は、フィリッポス2世が埋葬されていたと考える説もある。墓の床に散らばっていた 人骨も男性、若い女性、新生児か38〜39週の胎児のものということでフィリッポス2世、クレオパトラとその子に符合するためであるが、子ど もの年代や火葬された遺骨ではないと言うことなどから 反対意見も強い。 なお、同じ作りの第3墳墓は第2墳墓に比べて規模も小さいが、 副葬品の質から王墓と考えられており、そこに埋葬されたのはアレクサンドロス4世(アレクサンドロス大王とロクサネの息子)であるとされてい る。

  • 2号墳墓について
  • まず、第2墳墓はどの様な構造であり、どの様な遺物が含まれていたのであろうか。まず、墳墓の構造は、第2墳墓は半円型のヴォールトを 持ち主室と前室の2つの部屋を持つ墓であった。このような作りの墓はマケドニアでは前4世紀から前2世紀半ば頃まで盛んに作られたという。 主室と前室の関係は、遺骨を主室に葬り、前室に副葬品を置くというパターンが多かったようであるが、第2墳墓は主室と前室の両方に被葬者の遺 骨が置かれており、前室がかなり大きいと言う点では他の同種の墓とは異なるという。第2墳墓から発見された遺物を見ていくと、武具、銀器、 王笏や冠などが出土した。

    被葬者の遺骨は、前室からは20〜30歳の女性、主室からは30〜55歳の男性の遺骨が発見された。男性について、紀元前4世紀後半のマケ ドニア王でこの年齢層に当てはまり、マケドニアで葬られた王としては候補は二人に絞られていく。発見者のアンドロニコスはこの墓 の副葬品の豪華さ、発見された象牙の像がフィリッポス、アレクサンドロス、オリュンピアスの像であること、主室と前室の仕上がり具合に著しい 差があり、主室と前室への埋葬が同時には出来なかったであろうこと、左右で大きさが異なる脛当てが発見されたことをもとに、この墓に埋葬 されたのはフィリッポス2世と断定した。そして女性については7番目の妻クレオパトラであると結論づけた。現在、ギリシャの公式見解としては、フィリッポ ス2世が2号墳墓の被葬者と言うことになっているようである。

  • 被葬者を巡る論争
  • 以上のようなアンドロニコスの結論はセンセーションを巻き起こしたが、一方で発表直後からこれを疑問視する研究も数多く出された。 マケドニアの墳墓に半円型ヴォールト導入されたのはアレクサンドロス大王の東征以後のことであることや、第2墳墓に描かれた壁画(マケドニア の狩猟の場面が描かれている)において、ライオン狩や狩猟庭園、そしてカウシアと呼ばれる帽子が東征以後の要素であること、出土した副葬品 (銀器、陶器)の様式に関してもアレクサンドロス大王の東征以降であるということ、さらに前室から武具の存在から、被葬者をフィリッポス3世 アリダイオス(アレクサンドロス大王の異母兄弟)とその妻エウリュディケー(アミュンタス4世とキュンナの娘)であるとする説が出されてい る。

    また、被葬者を巡る論争では、ギリシャ人研究者の多くはフィリッポス2世としてきたが、20世紀も終わりに近づいた頃より、ギリシャ人研究 者の中からもアリダイオスではないかとする説が出されはじめている。マケドニア国旗や国名を巡る問題からも見て取れるが、現代のギリシャ においてマケドニアを巡る強い民族感情が存在しており、そのことはアリダイオス説を唱える研究者に対し、激しい批判を浴びせると言う形でも現 れているようである。

    21世紀にはいり、フィリッポス2世説とアリダイオス説それぞれの立場で総括も行われたが、ヴェルギナ王墓の被葬者を特定するに辺り、今も決 定的な証拠はない状態が続いている。フィリッポス2世説については、脛当てや象牙像は証拠にならないことや、主室上から発見された火葬後の 残骸(ここから発見された黄金製の樫の実と葉は骨壺に納められた王冠の一部であった)についてもアリダイオスの火葬場と火葬時期が分からない ため断定する材料としにくいこと、強力な根拠は主室と前室の2段階埋葬くらい(仕上げを丁寧にする余裕がないまま先に主室に埋葬し、その後前 室の 埋葬がおこなわれた)と言う状況である。

    一方でアリダイオス説についても、ディアデーマ(リング状の冠)、ヴォールト、ライオン狩や狩猟庭園、カウシアが描かれた壁画の年代について はこれらのモノがマケドニアに導入されたのはいつ頃なのか決定することは困難であること、陶器や銀器についても年代決定が困難であること、 エウリュディケーが埋葬されているとする前室の副葬品に色々と欠けているものがある(不揃いな武具、飲食器や装身具の欠如)、こういったこと から、アリダイオス説も決定的な証拠には欠けている状態である。

    では、出土した人骨を見れば良いではないかと言う気もするが、人骨を実際に鑑定した研究者の間でも意見が分かれている状態であり、現時点では 決定的な証拠とはなり得ないようである。出土遺物や人骨が決定的な証拠としては使いにくいとなると、埋葬順等から判断することになるが、そう なると、フィリッポス2世説で考えた方がよさそうではあるが、現時点では断定は難しい。

  • 東方との関係から
  • 私自身は専門家ではないので詳しい分析に基づくコメントは難しいが、ヴェルギナ王墓から発見されたモノを手がかりにして、マケドニアと東方 世界の関係について、色々と掘り下げていくことは可能だろうか。フィリッポス説が主室と前室の埋葬順を最も強力な根拠とするのに対し、アリダ イオス説においては、出土遺物や墓の形式の年代というものが証拠として取り上げられている。発見されたモノの様式や墓の構造がアレクサンドロ ス東征以後のものであるから、被葬者がアリダイオスだという説明がなされている。しかし、マケドニアの文化に対する東方世界の影響はアレクサ ンドロス の東征 以前にもあったのではないか。

    ギリシア世界と東方文化の関係については、紀元前5世紀後半のアテナイでペルシア風の建築デザインが採用されたといわれる建造物が作られた と言う話や、アテナイにおいて傘の使用などがみられるといったことから、ギリシア社会の一部では東方世界の影響がかなり早い段階から及んでい たようである。そして、マケドニアは積極的にギリシア文化受容を進めた国家であるが、彼らが享受した「ギリシア文化」には既に東方的な影響も 含まれていたのではないだろうか。さらに、マケドニアとペルシアの関係についても、フィリッポス2世の治世に太守反乱に関わったアルタバゾス 一家が亡命してくることもあるうえ、マケドニアの動向にペルシアも目を光らせるようになってくる(ペリントス包囲戦のさいには、ペルシアとア テナイがともに兵を進めている)東征以前からの交流の存在もみられる。さらに遡れば、かつてマケドニアはペルシア戦争の際に一時ペルシアの勢 力圏に組み込まれた過去も ある。

    ヴェルギナ王墓の被葬者がフィリッポス2世であるのか、アリダイオスであるのか、研究者間での論争に決着が付くことは2012年時点では、遙か先のことに なるとしかおもえないが、被葬者がどちらであれ、東方世界との影響を窺わせるモノに満ちた遺跡であることは間違いなく、マケドニアも含めた環 エーゲ海・東地中海世界の歴史を考える材料となる可能性はあるのではないか。

      (追記)
      2012年1月8日にもとの記事を改訂する際に次の論文を参考にした。ヴェルギナ王墓を巡る研究史、被葬者特定の論拠などがまと められており、非常に有益な論文だと思う。

      澤田典子「「フィリポス2世の墓」再考」『古代文化』63-3(2011年)39 頁〜59頁 。

      前の記事ではアリダイオス・エウリュディケー夫妻ではないかと考えていたが、これを読んだ影響もあり、フィリッポス・クレオパ トラ夫妻説に考えを変えたということもあり、今回改訂版を出すことにした。

    古代マケドニア王国の頁
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