フィリッポスの軍隊


紀元前359年に王に即位したフィリッポス2世は即位してまもなくマケドニアにおいて軍政改革を 実施した。それによりマケドニアは軍事力が格段に強化され、その軍事力がマケドニア王国を発展さ せる原動力となった。

フィリッポス2世が王となる前のマケドニア王国の軍隊がどのような状況であったのかということにまずふれておきたい。 マケドニアは優秀な騎兵隊を擁する一方、歩兵戦力に関しては整備されておらず、兵力としては弱かったという。 アレクサンドロス1世もペルディッカス2世も騎兵を率いて従軍している様子が見られることから、騎兵戦力としての期待 はあっても歩兵に関してはほとんど期待されていなかったようである。またシータルケースに攻め込まれた時も歩兵戦力は 弱すぎて対抗できず、騎兵で対抗していた様子がうかがえる。紀元前5世紀後半、アルケラオス王の元で騎兵、歩兵ともに 整備されてマケドニアの軍事力は向上したと言われているが、彼の死後に再びマケドニアは弱体化してしまった。 しかし軍制の整備の試みはあったようで、おそらくアレクサンドロス2世と考えられる「アレクサンドロス」という王が ペゼタイロイを創設したという。

即位直後のフィリッポス2世は直前にイリュリア人に大敗して弱体化した軍事力を立て直す必要にせまられ た。軍政改革として、兵士たちが連れて行く従卒の数を騎兵は各自一人、歩兵は10人に一人の割合に制限した。 また軍事訓練を頻繁に行い、夏期の行軍時には各自30日分の食料を持たせて、武器防具を持って行軍を行った という。また厳格な規律も導入し、命令に反する行動を取る将兵は厳しく罰していった。このような規律を以て 統率されるマケドニア軍はフィリッポス2世によりどのような軍団になっていったのか。

  • マケドニア密集歩兵部隊 〜金床〜
  • フィリッポス2世の時代に整備された兵力としてまずあげるべきはマケドニア密集歩兵部隊である。以前から 歩兵部隊の強化はマケドニア軍の重要課題であったが、いままでは農民を一時的に徴用する民兵レベルのもので しかなかった。しかしフィリッポスの元で編成された密集歩兵部隊は職業軍人といってもよいものであった。彼 らの装備の特徴はサリッサと呼ばれる全長5〜6メートルの槍をもちいたこと、胴鎧を省略したこと、直径60センチ 程度の小型の縦を肩からかけてつかっていたことがあげられる。おそらく当初は貧しさ故に十分な装備が整 えられなかったものが、やがて長大な槍と軽い防具のほうがよいと言うことになり、そのまま後の時代にまで引 きつがれることになったのであろう。

    なお、サリッサと呼ばれるマケドニアの長槍は2つに分かれており、持ち運ぶときは わけていて使うときにソケットでつないでいたため、けっしていつも6メートル近い長さの重い棒を持っていたというわけでは なかったようである(はたしてそれで強度は大丈夫だったのかと少々心配)。また、胴鎧に関しては、フィリッポス2世から 150年後の王フィリッポス5世の時代の密集歩兵の装備にも胴鎧は隊長クラスでなければ必須の装備としてそろえねばならない物 とは見られていなかったことが窺える(この時代のマケドニアの軍装に関する碑文があるがそこに胴鎧を示す言葉は見られない)。


    マケドニア密集歩兵。密集体型の前から5列目までは
    このように水平にサリッサを構えていた。その後ろの
    兵士たちは槍を斜め上にあげて構えていた
    長大なサリッサを用い密集隊形を組んで戦うためには、上述のような厳しい訓練と規律が必要になった。それにより柔軟な動きが できるようになり、マケドニア密集歩兵がくさび形陣形を組み突撃できるほどであったという。これらの兵士たちの編成は王国 の地域別に編成されていたと考えられている。各地の農民たちが徴発され、軍団に編成されて鍛えられたのであろう。

    密集歩兵部隊の 内部には,ロコス,デカスという区分が存在した。そのうち最小単位はデカス(10人隊)であり,東征の時には16人編成であったが, 当初は文字どおり10人編成であったとも考えられている。デカスの編成が密集歩兵隊の縦列を決定し,デカスがいくつか集まって密集隊形 を作り,それがロコス(中隊)となった。ロコスは一つにつき250人程度の兵士からなり,これが集まって部隊(タクシス)を作り , 一つの部隊は約1500人であった。アレクサンドロスの東征開始当初、密集歩兵部隊を6隊率いていたが、約9000人の密集歩兵部隊が遠征に 従軍していったと考えられている。

    このようにして軍団に編成された兵士たちの中には給与の格差が存在したと考えられる。アレクサンドロス大王の時代になると 「10スタテール取り」「倍額取り」といった兵士たちの名が見られる。おそらくこうした給与の格差はフィリッポスの 改革により作られたものであろう。フィリッポスはカイロネイアの戦いの後には功績に応じて恩賞を与えたという。さら に、優れた戦士でありながら貧しかったピュティアス兵士にフィリッポスが金を送り家計を助けたという話も残されて おり、これらのことからマケドニア軍ではギリシアのポリス市民の軍団と異なる給与体系が作られていったと考えられる。 フィリッポスの元で戦う兵士たちは軍での働きに応じて給与も増額され、職業軍人として生活する道が開かれたので ある。

    また王国各地から兵を集めるに当たり、通常は地域別に兵士が集められるが、そのような地域の区分に関係な く全国から特別に優れていると見なされ集められた兵士は近衛部隊に編入された。フィリッポス2世の時代には ペゼタイロイと呼ばれ、アレクサンドロス3世の時代にヒュパスピスタイ(盾持ち)と呼ばれる部隊がそれである。彼ら は密集歩兵として戦いながら、様々な作戦行動に従事することを求められる精鋭部隊であった。彼らは一隊1000人で構成 されていたようである。

  • ヘタイロイ騎兵 〜槌〜

  • ヘタイロイ騎兵。
    彼らは楔形の陣形をくみ敵陣に出来た隙間や側面、背後
    へと突撃した。当時の騎兵は鐙と鞍はなかった。

    フィリッポスのもとで歩兵に関してこのような改革が行われていくが、彼らは他の兵種との組み合わせによってその 力を最大限に発揮できるものであった。側面や背後からの攻撃には弱かったからである。そしてその側面を固めるものと して騎兵が用いられた。フィリッポス2世の即位当初、イリュリア人相手の遠征では600騎だった騎兵がアレクサンドロス の東征の時点では3000騎近くにまで数を増加していった。

    騎兵たちはヘタイロイという美称で呼ばれていたが、これは騎兵 を構成する貴族と王の親密な関係を表現するためのものである。彼らは王から土地を与えられ、招集されるときは地域単位で 集められて部隊を編成していた。騎兵は兜、鎧、脛当てを身につけ、槍と剣で武装し、鐙や鞍のついていない馬にまたがっ て戦った。後に馬そのものの改良にも着手し、スキタイ遠征の際に手に入れた2万頭の雌馬をマケドニアに送っている。

     また、密集歩兵の中には近衛歩兵部隊が存在したように、地域単位で招集されるヘタイロイ騎兵の中には王の親衛騎兵隊も 含まれていた。マケドニアのヘタイロイ騎兵隊の編成に関しては、イレという組織単位が存在し、一つのイレがだいたい200〜300騎で構成されて いたと 考えられる。ヘタイロイ騎兵の数を増やすのみならず、ヘタイロイ騎兵の戦い方についても、フィリッポスは通常のギリ シア騎兵の四角い陣形ではなく楔形の陣形を導入した。指揮官がくさびの先端に位置し、その後を雁行する形で陣形をくみ、 敵陣に切り込んでいく陣形である。伝統的に強力であった騎兵に関しても数を増やし、新たな戦い方を導入し、歩兵と連動 させることで、フィリッポスは周辺諸国よりも強力な軍事力を手にしたのであった。


  • 攻城戦、軽装歩兵など


  • 弓兵と投槍兵


    カタパルト、槌を搭載した攻城塔
    (V.D.ハンセン「古代ギリシアの戦争」を参照。)
    ただし、通常、攻城塔の図には槌は出てこない事の方が多い。

    密集歩兵、騎兵の他にフィリッポスの軍隊には弓兵や投石兵、投槍兵などの軽装歩兵、プロドロモイ(偵察、遊撃を任務と する軽装騎兵)などの部隊も存在した。マケドニア軍にはマケドニア人以外の周辺民族の部隊も存在し、軽装歩兵や軽装騎兵と してはそのような周辺民族が使われることが多かったという。またフィリッポスは鉱山や森林資源の収入を用いて傭兵を 雇うこともあった。

    しかしマケドニア軍の中で主力を占めたのはマケドニア人の歩兵と騎兵であり、傭兵の主な任務は占領した 都市の守備隊、他の地域における親マケドニア勢力の支援のために傭兵を用いることが多かったようである。また暗殺される 直前に行われたペルシアへの軍隊派遣の時にはマケドニア人と傭兵部隊の混成部隊を派遣している。このように、フィリッポス 自らが軍隊の指揮をとる時以外には傭兵を主とした部隊が遠隔地に派遣されることが多かった。

    その他に、マケドニア軍は攻城 機械を多数備え、それを作ったり操る技術者たちも多数含んでいたという。ギリシア世界で攻城技術の発展がおこるのは紀元前 4世紀のことである。それまでは都市を攻略する技術はきわめて低かったが、このころから破城槌や攻城塔、カタパルトなどが つかわれはじめる。それらの攻城機械および技術者の巧みな運用がフィリッポスのもとでおこなわれた。

    紀元前348年にカルキデ ィケー半島の有力都市オリュントスが陥落するが、20世紀前半に発掘調査が行われたオリュントスの遺跡からはマケドニア軍の 鉛製の投石弾が多数発掘されている。

    フィリッポス2世の時代の攻城戦に関して、もっとも斬新な攻城法や新しい攻城兵器が 用いられたのはペリントス攻囲戦である。このときに数多くの攻城兵器が実践に投入された。巨大な攻城塔が組み立てられ、その 高みに石弾の射出機がそなえられた。また攻城槌が城壁を破壊し、坑道掘削により城壁を崩壊させるなどの戦術が見られた。これ はのちにアレクサンドロス大王が各地の都市を攻撃する際に改良工夫がさらに行われて活用されていくことになる。一方、陸軍 と比べると海軍力に関してはそれほど発達していなかったと考えられる。前350年代にカレス率いるアテナイ艦隊に包囲されて 奇策を持ってかろうじて脱出したころには海軍らしい海軍はなく、その状況は前340年のペリントス包囲戦のころも変わらなかっ た。

    このような軍政改革は単なる軍事面の出来事としてではなく、マケドニアの社会の変化とも密接に関連している事柄である。 密集歩兵部隊はマケドニアの農民たちを地域ごとに編成、あるいは全国から優秀な者を選りすぐって近衛歩兵部隊とする、という 形で編成され、ヘタイロイ騎兵も地域ごとの編成が行われている。これはフィリッポスの時代にマケドニア王国が領土を拡大し、 上部マケドニアを従来の低地を中心とする王国に統合していった時に、新しい都市の建設、住民の移動、植民を積極的にすすめた ことにより、今まで山岳地帯で移牧を行っていた上部マケドニアの人々もある者は都市に住むようになり、ある者は王から土地を 与えられて沿岸部や首都周辺に移住した。このような活動を通じて一つの国民を作り上げていったのである。

    無理を承知で言う ならば、、このような活動を通じて“国民国家”としてのマケドニアとマケドニア国民がフィリッポスの時代に作られたのである。 そしてフィリッポスの元で新たに作られたマケドニア軍は低地出身者もいれば上部マケドニア出身者もいる、マケドニア王国の統合 の象徴とも言うべき存在であったのである(現実には王国の宮廷では上部マケドニア出身者と低地出身者の間は絶えず緊張関係 にあったようであるが、軍に関しては上部マケドニアも低地もうまく組み込んでいった様子がうかがえる)。フィリッポスの死後、 この軍団は息子のアレクサンドロスに引き継がれ、彼の東方遠征の主力軍となっていった。


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