マケドニアとオリンピック


2004年8月、ギリシャ共和国の首都アテネにおいてオリンピックが開催されました。近代オリンピックは古代 オリンピックの精神を復活させようとするフランスのクーベルタンの提唱により開催されることとなり、その 後紆余曲折を経ながら現在まで数多くの国々が参加して開催されています。

クーベルタンが復活させたオリンピックですが、近代オリンピックは様々な国の参加者が一堂に会して開かれる 競技会ですが、古代オリンピックは元来ギリシア人でないと参加できないものであったということも今ではよく 知られていることです。「ギリシア人」でないと参加することが出来ない古代オリンピック(オリュンピア競技 会)ですが、ギリシア人からみて「バルバロイ」としてみられていたマケドニアの王達もオリュンピア競技会に は並々ならぬ関心を抱いていたことが古代の史料から窺えます。ここではアレクサンドロス1世、アルケラオス、 フィリッポス2世の3人の王とオリュンピア競技会の関係についてまとめてみようと思います。

  • ヘロドトスもだまされた? 〜アレクサンドロス1世〜
  • オリュンピア競技会とマケドニアの関わりというと、まず取り上げられる人物は前5世紀前半にマケドニアを支配 したアレクサンドロス1世です。彼とオリンピックの関係についてはヘロドトス「歴史」に詳しく書かれています。 それによるとアレクサンドロス1世はオリュンピア競技会への参加を望んでオリュンピアに行きましたが、オリュ ンピア競技会役員からギリシア人でないことを理由に参加を拒まれてしまいました。オリュンピア競技会に参加す る選手は事前に審判団から出身がギリシア人であることがチェックされることになっていたためです。このような 事態に対し、アレクサンドロス1世は自らの血統がアルゴスに起源があり、さらにヘラクレスの子孫であることを 証明して参加が認められます。そしてスタディオン競争に参加した結果、1位のものと互角の成績を残したと言わ れています。しかしアレクサンドロスの名前はオリュンピア競技会の優勝者リストには載っていないことから、実 はアレクサンドロス1世はオリュンピア競技会に参加しておらず、この話を記録したヘロドトスはアレクサンドロス 1世のプロパガンダ(マケドニアはギリシアの一員である)の片棒をかつがされてしまったのだといわれています。

    アレクサンドロス1世にとり、このような作り話をながしてまで、マケドニアをギリシア世界と関連づけたかった 背景として、当時地中海世界で力を伸ばしていたギリシア世界との関わりこそマケドニア発展のために重要である という認識があったためだと言われています。ギリシア世界と関係を持つためには祖先がヘラクレスの子孫である アルゴス人であるという家系を作り上げたり、アテナイに軍艦の材料となる木材を売りつけたり、ペルシア戦争中 にギリシア側を利するような行動をとったりそのような話を作ることも行ったというわけです。そのような戦略の 一つがオリュンピア競技会参加の話を広めることだったというわけです。しかしその一方で、アレクサンドロス1世に 関する逸話の中で他の話が密室だったり他に証明できる人がほとんどいない状況なのに対して、オリュンピア競技会 という全ギリシア規模の競技会に関することで嘘を流しても、プロパガンダとして機能するか疑わしいという点で、 この参加を事実ととる説もあります。果たして真相はいかに…?

  • ギリシア文化にあこがれて 〜アルケラオス〜
  • 紀元前5世紀後半のアルケラオス王は積極的にギリシア文化を取り入れた王として知られ、悲劇詩人エウリピデス や画家ゼウクシスら様々な文化人が活動していたことが知られています。しかしアルケラオス王のギリシア文化受容 はそれにとどまらず、ついにはギリシア人のみが参加できるオリュンピア競技会をまねして、マケドニアでもオリュ ンピア競技会と呼ばれるものを開催することにしたのです。場所はオリュンポス山の麓にあるマケドニア王国の宗教的 な中心地として知られたディオン、ここにおいてマケドニアの最高神ゼウス・オリュンピオスと9人のムーサイを讃 える国家祭典として運動競技や演劇競演からなるオリュンピア祭は開催されるようになりました。

    ディオンのオリュンピア祭はアルケラオス以降の王達も開催し続け、フィリッポス2世も前348年にオリュントスを 占領した後、戦勝を記念してオリュンピア祭を開催していますし、アレクサンドロス大王がペルシア遠征出発前の前 335年に9日間にわたるオリュンピア祭を開催しています。また、この祭典はアンティゴノス朝になっても開催され 続けたと言うことが知られています。アルケラオスがこのようなギリシア人の反感を買いそうな祭典を挙行した理由 として、当時マケドニア人がバルバロイであるという理由でオリュンピア競技会への参加を拒まれていたためだと言 われています。なお、アルケラオスのオリュンピア競技会参加を伝える記述はローマ時代の文献に見られますが、信 憑性には乏しいようです。

  • フィリッペイオンの奉納 〜フィリッポス2世〜
  • アレクサンドロス1世、アルケラオスとオリュンピア競技会への参加について触れた記述がある2人の王については その参加はどうやら実際には認められていないということが現在では通説となっています。実際にオリュンピア競 技会への参加が認められたのはフィリッポス2世の時代まで待たねばなりませんでした。フィリッポス2世は戦車競 技に自らの持ち馬を送り込み、前356年、前352年、前348年の3度優勝したことが知られています。前356年のオ リュンピア競技会の優勝は、優勝の知らせとイリュリア人に対する勝利とアレクサンドロス誕生の知らせがフィリッ ポスにまとめて届いたという逸話が残っていたり、優勝を記念して銀貨(表はゼウス、裏は勝者のリボンを巻いた 騎手)を発行したと言うことが知られています。その後も戦車に乗った御者を刻した金貨を発行するなど、オリュ ンピア競技会の優勝を貨幣発行により宣伝していきました。

    そんなフィリッポス2世はオリュンピア競技会への参加のみならず、オリュンピアの聖域に建造物を残したことでも 知られています。オリュンピアの聖域、ヘラ神殿の西側に「フィリッペイオン」と呼ばれる建造物の遺跡が存在し ます。その形は円形で、円形の建造物の内部には当時最も優れた彫刻家であったレオカレスの手になる金と象牙で 作られたフィリッポスと彼の家族、彼の両親の5人の像が飾られていたと言われています。この建物には祭壇がな いことから神を祀る建物ではなく、前338年にカイロネイアの戦いで勝利した後にその勝利を記念して作られたも のであると言われています。

    過去のマケドニア諸王が参加したくても参加できなかったオリュンピア競技会にフィリッポス2世が参加できた理由 ですが、長年にわたるマケドニア諸王によるギリシア文化受容やギリシア人であることを喧伝する宣伝のたまもので あるともいわれ、また、軍事力に裏打ちされたフィリッポスの政治力によるともいわれています。ギリシア世界との 交流やギリシア文化の受容にこそマケドニア王国発展の道であると考えたアレクサンドロス1世が取った路線はその 後アルケラオスのもとでも継続されます。そしてフィリッポス2世はギリシア世界とのつながりを盛んに主張し、文化 も取り入れながら、ついにマケドニアをギリシア世界の指導的立場に据えることに成功します。それを示す建造物が フィリッペイオンだったというわけです。オリュンピアの聖域に建てられたフィリッペイオンは、アレクサンドロス1世 が敷いたマケドニア王国発展の道の終着点のように思えてきます。


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