マケドニアとエーゲ海北岸
〜ギリシア諸都市の征服と支配〜

「三段橈船艤装奉仕担当者としてマケドニア人のあ いだからはつぎの人々が任命された。 すなわちアミュントルの子ヘファイスティオン,エウヌウスの子レオンナトス,アガトクレスの子リュシ マコス,ティマンドロスの子アスクレピオドロス,クレイニアスの子アルコン,アテナイオスの 子デーモニコス,アナクシドトスの子アルキアス,セイレノスの子オフェッラス,パンティアデスの子 ティマンテース.以上はペッラ出身者アンフィポリ ス出身者はアンドロティモスの子ネアルコス,これは沿岸航海に関しての記録を綴った人だが, それにラリコスの子ラオメドンとカッリストラトスの子アンドロステネス。オレ スティス出身者としてはアレクサンドロスの子クラテロスとオロンテスの子ペルディッカス。 エ オルダイア人としてはラゴスの子プトレマイオスにペイサイオスの子 アリストヌウス.ピュドナ出身者としてはエピカルモスの子メトロン とシモスの子ニカルキデス.それにアンドロメネスの子でテュンパイア のアッタロス,アレクサンドロスの子でミエザのペウケスタス,クラテ ウアスの子でアルコメナイのペイトン,アンティパトロスの子で アイガイのレオンナトス,ニコラオスの子でアロ ロスのパンタウコス,ゾイロスの子でベロイアのムッレアス, これらはすべてマケドニア人であった.」
(アリアノス「インド誌」18.3〜8」、地名の強調はページ制作者による。)

ヒュダスペス川を下って引き返す際にアレクサンドロスによって三段橈船艤装奉仕の担当者が任命されたが、 その中にはマケドニア人将校が挙げられている。マケドニア人としてひとまとめにされているが、その出身地 は様々である。上の記述ではそのような地名を強調しているが、そうした地名や都市名をみていくと、アイガイ、 ベロイアといった低地に昔からある都市の出身者に混ざってフィリッポス2世の時代に新たに王国に統合された 上部マケドニアのほかに、アンフィポリス、ピュドナといったかつては独立自治のエーゲ海北岸部のギリシア系都市 の出身者が存在する(そしてこの中に元来はマケドニア以外の出身でありながら後にマケドニアにやってきて王に 仕えるようになったネアルコスも含まれている)。

フィリッポス2世は即位して以来数多くのギリシア系都市をマケドニアの勢力圏におさめた。紀元前357年にアン フィポリスを攻略して以来、同年末から紀元前356年初頭にピュドナ、紀元前354年にメトーネーを征服した。 また紀元前356年にはトラキアから攻撃を受けていたクレニデスの救援要請に応えて出兵し、これを救うととも に自らの名前にちなんでフィリッポイと改名させ、紀元前355年にはマロネイア、アブデラといったトラキア 諸都市へと遠征した。このようにしてフィリッポス2世は即位してから紀元前354年の末までにマケドニア沿岸部 のギリシア系都市を王国領に統合し、これらの都市に入植者を送り込んだとされる。そのなかで代表的な都市を 取り上げてみていくことにする。

  • アンフィポリス
  • 紀元前357年にマケドニアに征服されて以降、アンフィポリスは自治を認められながらも入植者をマケドニア 内外より迎えてマケドニア人の都市となったとされる。入植者に対して与えるべき土地に関してはアンフィポリス とフィリッポスが争った際にアテナイに救援を要請した反フィリッポス勢力をアンフィポリスから追放し、彼ら から没収した財産がそれに当てられたと考えられる。アンフィポリスの民会決議碑文に以下のような文言が残されている。

    「民会は決議した。フィローンとストラトクレスは彼ら自身および彼らの 子らもアンフィポリスおよびアンフィ ポリス人の領域から未来永劫にわたり去ること。もしどこであれ彼らが捕らえられたならば、彼らは敵対者が何 のとがめられることもなく殺されるのと同様のことを被ること。彼らの財産は没収され、その10分の1はアポッ ローンとストリュモンの聖域のものとすること。。。」

     アンフィポリスがフィリッポスに攻撃を受けた際にフィリッポスに救援を求める使者としてヒエラクスと ストラトクレスを派遣したというデモステネスの記述とこの決議碑文で追放されることとなったストラトクレスは 同一人物である。またフィリッポスによる征服後アンフィポリスがどのような状況にあったのかを知るために アンフィポリスから出土した不動産売買の記録がその手がかりとなる。

    アンフィポリス出土の紀元前4世紀前半から3世紀の間の12枚の不動産売買の碑文の研究がおこなわれており、それ によると、アンフィポリスのスパルゲースという人物がエピスタテース職にある間の6枚の碑文においてイオニア の月名とマケドニアの月名が混在していること、碑文の言い回しに違いがあること、記年のスタイルがエピスタテース 職のみのものとアスクレピオスの神官の名前が併記されたものがあること、彼がエピスタテース職にある間の碑文に 購入者、契約の証人にマケドニア系の人名が見られずにイオニア系の人名、ギリシア全般でよく見られる人名、ギリシア 系でない人名が登場するものと購入者、証人にマケドニア系の人名が見られるようになっていることを挙げて、 アンフィポリスはマケドニアに征服された後もしばらくの間はマケドニアに併合されてマケドニア人の入植地となる ことはなく、アンフィポリス市民の自治にまかされており、徐々にマケドニア人がアンフィポリスへと入植し、 アンフィポリスがマケドニア人の都市となっていったとする説がある。

    これらの碑文においても月が書かれているものと書かれていないものが混在していることや、後にアンフィポリス出身 のマケドニア人として東征の時期に登場するネアルコス、アンドロステネース、ラオメドーンは元来マケドニアの出身 ではなく、エーゲ海島嶼部の出身者で後にマケドニアにやってきた者たちであり、マケドニア固有の人名がないことが 直ちにマケドニアからの入植が行われていないと断言することは難しいと思われる。しかしストラトクレスとフィローン 追放、財産没収決議の碑文がアンフィポリスの民会決議の形を採っていることからフィリッポスによる征服後、 アンフィポリスはフィリッポス支持派による自治の形を採っていたことが窺えることから、少なくともフィリッポスは 征服後もアンフィポリスに対してアンフィポリス市民による自治を認めつつこの都市への入植を漸次進めていったという 事は可能であるといえよう。

  • ピュドナ、メトーネー
  •  アンフィポリスを征服してまもないうちにフィリッポスによりピュドナは征服され、それは紀元前357年末、 あるいは紀元前356年初頭のこととされる。ピュドナはフィリッポスの攻撃を受けた際にはアテナイの勢力下にあり、 マケドニアからは独立した勢力であった。その攻略の際には内通者の存在があったという。征服後の処置はおそらく アンフィポリス征服後と同様に、フィリッポスに反抗した人々は都市から追放され、ピュドナの市民の自治という形 をとりつつマケドニアからの入植者を受け入れてマケドニアの都市となっていったという。

     メトーネーはフィリッポスが即位した当初に王位に挑戦してきたアルガイオスおよびアテナイの拠点となった 都市であり、フィリッポスが侵攻してきた時点でもアテナイのマケドニア沿岸部の拠点として機能していた。 メトーネーは紀元前355年末にフィリッポスの攻撃を受け、紀元前354年の夏頃に陥落した(ちなみにメトーネー包囲戦の 最中に攻城兵器を視察していたフィリッポスは右目に矢を受け、片眼を失ったという)。フィリッポスによる征服後 メトーネーはアンフィポリス、ピュドナと異なる処遇を受けた。メトーネー陥落より以前にフィリッポスがカルキディケー 連邦と協力して攻略したポテイダイアの戦後処理はアテナイのクレールーコイたちはアテナイへ送り返されたが、 ポテイダイア市民は奴隷として売り飛ばされるという苛烈なものであったが、メトーネーに対する処遇もこれに劣らず 厳しいものであった。メトーネーからの降伏の申し出はフィリッポスに聞き入れられたものの市民はすべて都市から 放逐され、都市は破壊され、その土地はマケドニア人の間で分配されたという。メトーネーはこれより後碑文にも 文献史料にも登場しないことからこの後復興されることはなく、領土は近隣のピュドナに併合され、ピュドナが マケドニアの沿岸部ピエリア地方の中心都市となっていったとされる。

  • フィリッポイ
  • 元来はタソス人が紀元前360年にアテナイのカリストラトスの進言にもとづいて建設されたクレニデスという 都市であるが、トラキア人の攻撃にさらされ、紀元前356年にフィリッポスに救援要請をしたことを契機として フィリッポスの勢力下に入り、都市名をフィリッポイと改名した。フィリッポスのもと、ストリュモン川河口 付近にあったガレスポス、アポロニアといった都市の住民からなる入植が行われ、周辺の沼沢地の潅漑事業や パンガイオン鉱山の生産力の増大がはかられて発展したとされる。この都市の発展の歴史においてマケドニア からの入植を行ったことを示す史料は見られない。

    フィリッポイがマケドニアの支配下に入って後もこの都市において独自の貨幣が発行されていたことや アンフィポリス、ピュドナと異なり「フィリッポイ出身のマケドニア人」という表現がこれより後の時代に見 られないことを挙げてフィリッポイがマケドニアの都市としてではなくギリシア人の自治都市であるとする説がある。 またフィリッポイより出土した碑文にはアレクサンドロス大王の許にフィリッポイから使者が派遣されたという ことが書かれている。その内容は欠損が多いもののフィリッポイにフィリッポスが与えた土地の処遇について書 かれた箇所がある。またこの碑文においてフィリッポイの市民とトラキア人に対して土地、収穫物の処遇を述べ ていることからフィリッポイをギリシア人の自治都市、トラキア人をマケドニア王の従属民として見る説がある。

     紀元前3世紀に入るとフィリッポイをマケドニア人の都市とみなす碑文史料が出土しているが、フィリッポイ出身 のマケドニア人を示す記述は紀元前4世紀の時点では見られない。フィリッポスにより名称を変えられ、マケドニア の勢力下に入ったもののフィリッポイはマケドニアからの入植者を受け入れた形跡もなくマケドニアにおいて自治 を許されたギリシア人の自治都市であったようである。

     これらフィリッポスが即位してからしばらくの間にその支配下に入ったとされる都市において、「〜出身のマケ ドニア人」と呼ばれる者がいる都市とそれに類する者が見られない都市がある。まず史料に見られる「〜出身のマ ケドニア人」と呼ばれる者はマケドニアで生まれ育った者と、フィリッポスにより征服された地域や他のギリシア 人世界からマケドニアにやってきてフィリッポスのもとで宮廷貴族化してゆく際に「マケドニア人」となった者である。

     その一方でフィリッポスに征服された都市に征服以前より住んでいた市民達も「マケドニア人」と呼ばれていた のかという事について明確に示す史料は存在しない。しかしフィリッポスがこれらの都市を征服して直ちにペッラ やアロロス、ベロイアのような「マケドニアの都市」として扱うのではなく、彼の意向に沿うものであれば自治を 許しつつ、徐々にマケドニアからの入植者を送り込んでいったと考えられる。しかしメトーネーのようにフィリッポス に対して極めて反抗的な態度を取り続けた都市に対しては破壊をおこない、その領土はマケドニア人の間で併合された。 またストリュモン河口の諸都市がフィリッポスに征服され、その市民がフィリッポイへの入植者となったということ から入植者を確保するために都市を征服することは行われたようである。そのフィリッポイはマケドニアの勢力下に ありながらマケドニアの植民都市としてではなく、ギリシア人の自治都市として存続した。


    紀元前359年に即位してから数年間はフィリッポスは国境周辺の安定、マケドニアの沿岸部にあるギリシア系都市 の征服、さらなる進出の拠点の確保に努めていたことがわかる。紀元前356年の時点ではアンフィポリス、ピュドナ を征服したが、当時は北部、西部のイリュリア人、パイオニア人の勢力は未だ健在であり、同盟市戦争を戦っている 最中とはいえアテナイとの抗争も想定しておかねばならなかった。王国の安定とアンフィポリスからさらに東のトラキア への発展を達成するために、隣接するカルキディケー同盟と領土の一部の割譲や遠征への協力の約束をすることも厭わ なかった。そしてフィリッポスのもとで紀元前350年代のうちに王国周辺のギリシア系都市がマケドニアの勢力下へと入 るが、マケドニア王国の勢力下に入った都市のうち、メトーネーを除いては破壊されることもなく自治を保ちながら 入植者を受け入れて発展しており、紀元前350年代のフィリッポスの勢力拡張はマケドニアに隣接するギリシア系都市、 そしてトラキアへと向いており、フィリッポスによる征服、入植が必ずしも既存の都市、国制を破壊してから行われる ものではなかったようである。


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