フィロータスとクレイトス
  〜マケドニアの将軍たち(2)〜


ここでは、アレクサンドロスの東征開始以来、東征軍において重要な地位についていた武将達の中で、 やがて東征軍から排除されていく事になるヘタイロイ騎兵総指揮官フィロータスと王の親衛騎兵隊長 クレイトスの2人を取り上げることにする。フィロータスとクレイトスは世代的にはアレクサンドロスに近い( アレクサンドロスよりやや年上)であり、王とはどちらも幼少期よりなじみ深い友人達であったが、のちに 王との考え方の違いなどもあり対立し、悲劇的な最期を遂げることになった人々である。

  • フィロータス
  • フィロータスはパルメニオンの長男で、アレクサンドロス大王が王子であった頃からの友人の一人である一方で、 彼はアレクサンドロスではなく、彼の従兄弟アミュンタスの友人とする伝承や、表向きはアレクサンドロスの友人 であったが、実はアレクサンドロスとの関係はあまり良くなかったとする伝承もあり、実際の所は定かではない。 彼は東征開始前の北方遠征中は上部マケドニアの騎兵を指揮していたが、東征軍の中における彼の地位は、父親 パルメニオンの存在もあってか、東征が開始された時にはヘタイロイ騎兵総指揮官という非常に高いものであった。

    東征中には彼が特に活躍したという話はあまり見られないが、時々別働隊の指揮を任されることもあり(ミレトス 攻略時に騎兵隊と歩兵三個部隊をつけてミュカレに派遣。また、ペルシア門攻略時にはポリュペルコンやコイノス、 アミュンタスを従え別働隊を率いて挟撃作戦に従事)、指揮官としてのつとめは十分に果たしていた。また、彼は アレクサンドロスの側近の間でも実力者で、軍中における彼の威信は極めて高かった。しかし父親パルメニオンの 後ろ盾というものもあってか、彼の日頃の言動や態度は尊大なものとうけとられ、衆目をおそれぬ贅沢ぶりも顰蹙 を買っていた。側近の間でも、のちに東征軍の副将格となるクラテロスとその地位を競い合っていた。

    フィロータスは東征軍、アレクサンドロスの側近中で強い力を持っていたが、のちにアレクサンドロスを暗殺しよう とする計画をもっていたとされてとらえられ、裁判の後に処刑された。これが前330年に発生した「フィロータス事件」で あるが、この事件はきわめて奇妙な事件であった。

    事の起こりは、まず、ディムノスという若者が暗殺計画を立てて仲間を集め、仲間の一人が兄弟のケバリノスという 者に打ち明けたところ、ケバリノスははじめにフィロータスのもとに暗殺の陰謀があることを伝えた。しかし、それを 聞いたフィロータスは王に伝えると応えながらいっこうに王に伝えようとせず、焦ったケバリノスは武器庫管理官のメトロン と言う人物を通じてようやく王に暗殺の陰謀を知らせることができたという。この暗殺をしった王は首謀者を逮捕しようと したがディムノスが自殺してしまったた。

    そしてその後の展開は、暗殺計画の真相そのものよりも、その情報を知りながら伝えようとしなかったフィロータスに対する 嫌疑がつよまり、彼を尋問した。彼はあまりに荒唐無稽だと言うことでそれを伝えなかっただけだと答え、王もそれを聞いて 疑いを解いたかにみえた。しかし、それからまもなく王は側近達にフィロータスを逮捕するように命じ、フィロータスは逮捕 されて厳しい尋問・拷問を受けた。しかし彼は暗殺計画荷担の自白は一切行わず、結局反逆罪が強引に決定されて彼は処刑さ れたのであった。

    そもそも、ディムノスがなぜ暗殺計画を考えたのかといった背景は全く分からず(推測に過ぎないが、個人的に王の不興を買う 事をやらかし、激しく叱責されたといったきわめて個人的なところに由来するのではないか(後に近習たちが暗殺をたくらんだ 時も、狩猟の時に先に獲物を仕留めてしまったために王に怒られ、それを恨んで暗殺計画を巡らしている))、フィロータスが 実際に暗殺計画に絡んでいたとは考えにくい所があるが、この事件はアレクサンドロスが東方との協調路線を取るようになる なかで発生したことから、アレクサンドロスの周辺における権力闘争と絡めて考えられることが多い。

    「フィロータス事件」自体は、東方との協調路線を進める中で、自分に対立する可能性のあるパルメニオンとその一門を東征軍 から排除しようと考えたアレクサンドロスが、フィロータスを追い落とし権力を握ろうとしたクラテロスなどの側近たちととも に、彼に対する暗殺計画があるという話をきっかけに、フィロータスに対して仕掛けた陰謀であるとされ、フィロータスはそれ にまんまとはまってしまったと考えられる。そのころフィロータス同様に東征軍で要職についていた兄弟たちも相次いで死んで おり、パルメニオンが遠く離れたエクバタナにいるという具合に、彼を取り巻く状況はかなり厳しかった。そのさなかに他の側近 たちがフィロータスを追い落とす陰謀を企んでそれが成就され、そして、フィロータス処刑からまもなく、パルメニオンのもとに 刺客が送られ、パルメニオンは暗殺されることになる。フィロータスの処刑、パルメニオンの暗殺により、東征軍中におけるパル メニオンとその一派の影響力は失われ、東征軍はアレクサンドロスとその側近達の意向に添った形で動かすことが容易になっていく。 フィロータスの処刑とそれに続くパルメニオン暗殺は東征軍の路線変更にともなう悲劇であろう。

  • 「黒い」クレイトス
  • 通称では「黒」という二つ名が付くクレイトスは、アレクサンドロスの乳母を務めたラニケの兄弟であり、正確な経歴 は不明であるが、おそらくフィリッポス2世の時代からマケドニアの宮廷に使えていたとされる。前334年に始まった 東征軍では王の親衛騎兵隊の指揮官を務め、グラニコス川の戦いでは危機に陥ったアレクサンドロスを間一髪の所で 救った人物でもある。

    その後の東征中の戦いでも彼は親衛騎兵隊を指揮し、さらにフィロータス事件でヘタイロイ騎兵総指揮官フィロータスが 処刑された後に、一人の人間に全体の指揮を任せてきたヘタイロイ騎兵の指揮系統の見直しが行われたが、彼はそのとき にヘファイステイオンの同僚として新たにもうけられたヒッパルキア職をつとめた。ヘファイスティオンはアレクサンドロス の側近にして親友であり、アレクサンドロスとの密な関係故に優遇されるが、華々しい戦功はない人物であり、軍中では けっして信望のあるほうではなかった。それゆえに軍中での信望もあるクレイトスが同僚として任命されたのではないか とかんがえられる。

    その後、彼は中央アジア遠征中にはバクトリア太守の地位を任されるが、ソグディアナの征服中に開かれた宴会の場で アレクサンドロスと激しい口論になり、アレクサンドロスに刺殺されることになる。クレイトスのヘタイロイ騎兵の 指揮官からバクトリア太守への転出は、一見栄転に見える出来事である。きわめて重要な場所であるバクトリアの太守を 努められるだけの人物として評価されていたから任命されたのかもしれないが、この人事はクレイトスには左遷人事に 思えたのだろう。彼はアレクサンドロスとの口論の内容を見ると伝統的なマケドニア中心路線をとる人物であったようで、 王に追従するものを批判し、王の東方かぶれを激しく非難し、ついに殺害されたという。

    彼がバクトリア太守に転出する前に、東方協調路線をさらに推し進めていく王への諫言の機会として宴会の場をとらえて 王に対して苦言を呈したのか、あるいは宴会の場で敗死した武将への侮辱やフィリッポス2世の功業を低めるような発言 が相次いだことに怒りを覚えて突発的に口論を始めたのかは判然としないところもあるが、やはり東方協調路線に対する 不満というものが根底にあったために起きた事件であるように思われる。クレイトス刺殺事件ののち、王に対して自由に 直言したり、批判的な発言を表立って行うことは困難になっていく。この事件以前から君臣の関係もマケドニアの伝統的 なものから、東方的なものへと変わっていくが、王に対し自由な発言を封じる傾向がこのころから目立ってくる。


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    アレクサンドロスの東征開始以来、その目標はペルシア帝国の滅亡に置かれてきたが、前330年にダレイオス3世が部下に 殺害されると、戦争の大義名分は失われた。その後のアレクサンドロスはコリントス同盟軍を解散して新たに自分のもと で戦う傭兵として雇用して戦いを進めていくが、それとともに東征の性格もアレクサンドロス個人のための戦いへとその 性格は変わっていった。アレクサンドロス個人の戦いを進めるには、彼の意志が東征軍中で反映しやすい体制を作る必要 があり、そのためには東征開始以来軍中で重要な地位を占め、大きな影響力をふるうパルメニオンとその一門は明らかに 障害となる存在であった。それ故にフィロータスは陰謀の嫌疑をかけられて逮捕・処刑され、パルメニオンも殺害された。 このときにパルメニオンに近い立場の人々も処罰を受けたり、あるいはそれをおそれて逃亡したほか、パルメニオン一門 に好意的な将兵たちを軍中で隔離するといったことまでおこなった。こうしてアレクサンドロスは東征軍からパルメニオン 一門を排除し、東征軍を彼個人の意志により動かせる集団に作り替えるに成功したのであった。

    また、東征軍をアレクサンドロス個人が自由に動かせる軍隊へと作り替える過程と時を同じくして、マケドニア王権の性格 の変化も進んでいた。征服地の拡大とともに、アレクサンドロスは太守の地位に東方人をそのまま留任させるなど、東方 との協調政策へと占領政策を転換させたが、君臣関係についても東方の影響を受けて変化が生じていた。東方の宮廷儀礼を とりいれ、王自身も東方風の衣装を用いるなどの行動は征服地の支配を円滑に進めるためにかなり重要なことであったが、 東方化をすすめることは伝統的なマケドニア王権のあり方になれたマケドニア人将兵には受け入れがたいことであった。 東方化を進めることに対する将兵の不満は、サマルカンドにおける宴会で発生したクレイトスと王の口論、そして刺殺事件 という形で表面化する。クレイトス刺殺事件後も、王の東方化に対する批判は跪拝礼に対する批判、東方諸民族の軍への編入 への反発に端を発するオピス騒擾事件などの形で現れてくることになる。

    アレクサンドロスが東征を進める過程で東征軍や君臣関係などの変化が進んだ。東征が当初の大義名分を失い、アレクサンドロス 個人の事業として進められるとなると、彼と同じくらい(あるいはそれ以上)軍中で大きな力を持つものはじゃまになり、征服地 の支配を円滑に進めるために東方と協調するためには、マケドニアの伝統に固執するものは取り除かねばならない。そのような 状況が生じたことがフィロータスとクレイトスの両名に悲劇的な最後をもたらすことになったのであった。


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