マケドニア王国の国制

マケドニア王国の国制


古代マケドニアはギリシア系の住民が作った国家であるが、南に数多く生まれたポリスとは異なるしくみ をつくりあげた。その王国の構造はどのようなものであったのかについてもこれまで様々な研究が行われ てきた。それでは、マケドニア王国の国制とはどのようなものであったのだろうか。

従来、マケドニア王国については王は専制君主ではなく、同等者の中の第一人者にすぎないという見方が なされてきた。王国には国王と臣下の間の義務・権利を規定した法があり、それに基づいて運営されてい ることや、民衆には嘆願を行う権利があったこと、伝統的な民会が存在し、王を指名する権利や重罪裁判を行 う権利を持っていたことが王国の国制としてあげられてきた。王の専制を制約する法や民衆の権利があったとい うこともマケドニア王国の特徴としてあげられた。このようなことをふまえて、従来はあたかも近代の立憲君主 制国家のごときマケドニア王国像が描かれてきた。しかし近年そのようなマケドニア王国像は批判の対象となり、 史料批判を通じて王国像の見直しが進められている。

マケドニアの君主制はマケドニア人の国家に深く根ざしたものであり、国家の様々な事象を支配する。国家 のあらゆる事は国王の個人的能力に依存しているとする見方もあるが、曲がりなりにも5世紀にわたって存在し た国家のすべてが国王を中心にしていたとも考えにくい。とはいえ、マケドニアにおいては国王がかなり重要な 役割を果たす存在であったことは間違いない。また明確な国の法はなくとも慣習はあり、慣習が果たしてどの程 度の力を持っていたのかなどの問題について考えていく必要もある。こうした問題もあるが、それでは現在はど のように考えられているのだろうか?

  • 王と貴族
  • マケドニアでは国王が重要な地位を占めると直前で述べたが、国王が行使できた権限には次のようなものがある。

    国内の豊富な天然資源(森林、鉱山)を財源として活用できる
    汎ギリシア的な事柄に個人として参加する
    軍団の指揮官として戦争を遂行する(おそらく講和も彼の権限に属す)
    裁判権を行使する。裁判過程に他の人々が関わるかどうかは王が決める
    儀式や祭礼を取り仕切る。神に供物を捧げたりするのも王が行っている
    外交政策を決定し、条約を結ぶ際には王の名が最初に来る。

    おおまかにこうしたことに関して国王が権限を行使し、執り行っていたという。このような王国で、王の他に 政治に重要な役割を果たした勢力には貴族があげられる。制度として国王を補佐する評議会が存在したと考える ことは難しいようであるが、貴族たちが国王の王国支配を助けていた。また、国王の死後に次の国王を決めるのは彼ら であった。貴族たちはヘタイロイないしフィロイという名称で呼ばれ、さらに遠征中に重要な役割に預かるソマト フュラケスというものも存在した。正式な機関として評議会が存在した証拠はないが、それに近い役割を果たした と考えられるものに饗宴がある。マケドニアの饗宴はギリシアの饗宴と異なり遊女を侍らせる習慣はなかったという。 そしてこの饗宴の場が王と貴族が政策を協議し決定する場として機能していたという。このように王とともに王国 で重要な役割を担う貴族であるが、フィリッポスの頃から貴族の子弟を小姓として王の元で働かせる制度が導入さ れている。小姓として王の元で働きながら経験を積み、やがて将軍や行政官として王国で重要な仕事をするように なるのである。

    王の元で重要な役割を果たす貴族たちであるが、当初は沿岸部や王国中心部にむかしからいた貴族たちが力をもって いたと考えられる。その後フィリッポス2世の拡大路線のもとで上部マケドニアが王国に統合されると、かつて上部 マケドニアで自立していた豪族たちもマケドニア王の支配下に入り、新たにフィリッポスの廷臣として働くようになって いった。フィリッポスの元で彼らは新たな土地を分配されて沿岸部から都のペラ周辺や東部の平地へと移住してきたの である。こうした貴族たちは「ヘタイロイ」という名で呼ばれていることは前に述べたが、軍事力としては彼らは騎兵 として働くことが求められた。フィリッポスの時代には800人を超えない人数でギリシアの豊かな土地を持つ者10000人の 合計以上の土地を所有していたという伝承がある。修辞が多分に含まれる可能性があるが、大土地所有者としての貴族の 一面を見ることが出来る。またマケドニアに長年暮らしていた貴族や上部マケドニアから移住してきた貴族のみならず、 他のギリシア世界からマケドニアにやってきて土地をもらって貴族となった者もいた。アレクサンドロスの遠征で探険 航海をおこなったネアルコスは父親がクレタ島からマケドニアへと移住して土地を与えられた貴族であった。王国の拡大 とともに、従来の低地出身者にくわえて上部マケドニア出身者や他のギリシア世界出身者がふえていき、王から広大な 土地を与えられ、戦時には騎兵として奉仕し、徳に有力な者は王の側近として政治に関与し、王の継承を左右する、それが マケドニアの貴族であった。

  • 財政
  • フィリッポスのもとでマケドニアは周辺地域を征服し領土を拡大した。その時に征服活動を可能にした要素の一つである 王国の財政事情についてもふれておきたい。フィリッポス2世の時代にマケドニアでは山岳地住民の平地への移住、都市の 建設、鉱山開発、土地改良、治水灌漑に取り組んだという。マケドニアでは国王が鉱山、森林、農地、狩猟地をもち、それら 王室の財産により財政を維持していたと考えられている。また税制もある程度は整備されていたようである。マケドニア 国民の負担として地税、賦役、財産税がおもな税として存在していたようである。マケドニアでは土地は原則上すべて王領 であるが、直轄地の他に下賜地ないし封土、入植地も存在し、貴族や民衆にも分与されていた。そしてその土地は王が所有権 をもつが、相続や所有権の移転、贈与が認められていた。そしてこれらの土地に税が課されていたのである。また土地から 税を徴収するのみならず、港湾で税を徴収することが行われていたことから物資の流通交易の過程で関税のような税が課さ れていたようである。これは一種の財産税であろう。その他、賦役として軍役や建設事業に従事することが求められたという。 さらに財政を支えたものはマケドニアの豊富な鉱物資源と森林資源である。伝統的な輸出品にして戦略物資である木材は王室 財政の重要な財源であった。

    またアレクサンドロス1世以来開発が進んだ鉱山資源に関して、フィリッポス2世は前356年に手に入れたパンガ イオンなど国内各地の鉱山から得られる豊富な金銀を用いて貨幣を大量に造り、それは各地に流通したという。古銭学の成果 などをを元にして、フィリッポス2世の時代のマケドニアには首都ペラとアンフィポリスの2カ所に造幣所が設けられていた ことが明らかになっている。ペラやアンフィポリスの造幣所で多数の銀貨と金貨が作られるようになっていった。こうした努力 によって、マケドニア王国の財政はフィリッポス2世の時代に財源が大幅に増えて潤うかと思われたが、実際にはフィリッポスが 毎年のように行う軍事費や周辺諸国に対する外交工作で多額の資金を用いたために、アレクサンドロス大王が王になったときには 莫大な借金が残されたという。そのため、東征開始当初は資金繰りは相当苦しく、それがようやく落ち着いてくるのはイッソスの 戦いなどの戦闘で莫大な戦利品を手に入れてからのことであった。

  • 統治の仕組み
  • フィリッポス2世の時代にマケドニアの領土は大幅に拡大していったが、マケドニア王国の統治の仕組みはどの様なもので あったのかについても説明しておきたい。まず、フィリッポスが即位してから2〜3年のうちに王国に統合された沿岸部の都市 のなかで、アンフィポリスやピュドナはフィリッポスに反抗した市民は追放され、かわりにマケドニア人が多数送り込まれた。 追放者の財産が没収され、それがマケドニア人に与えられ、恐らく彼らは入植地の指導的立場に立っていたと考えられる。ただし アンフィポリスの民会や評議会や役人はそのまま存在し、マケドニア人の支配下に置いて一定の自治はえられたようである。 また、フィリッポイも同様にアンフィポリスと同じように一定の自治は認められた。ただし都市の自治はあくまでマケドニア王の 支配下での制限付きの自治であり、それらの都市や地域の指導・監督はマケドニア人により行われていたようである。なお、 征服地の都市の中にはこれらの都市のように存続した都市がある一方でメトネのように破壊されて再考されなかった都市もあり その場合は周囲の他の都市の領域として統合されていったようである。これらの都市は軍隊動員の際にも単位として用いられ、 アンフィポリスの騎兵、というような表現も見られる。

    さらに東部地域へ拡大し、トラキア遠征の結果オドリュサイ王国が征服されたが、そこでも植民と都市建設が行われている。 そしてトラキアの将軍という職が存在したことから、かつてオドリュサイ王国があった地域では本国から代理人として派遣されて 統治する役人がいたようである。これは周辺民族に対するマケドニアの対応の中では例外的である。他の地域(イリュリア、 パイオニアなど)では現地有力者が用いられたのに対し、オドリュサイ王国の王家の人々はマケドニアの廷臣として扱われ 現地の支配からは切り離されたようである。

    一方で、西方にも領土を拡大し、かつて自立していた上部マケドニア諸国を領国に統合したが、これらの地域においては 新しい都市を建設し、そこに人々を移住させていった。ただし上部マケドニアの場合、軍隊の動員に際しては都市単位ではなく より大きな地域単位での動員が行われていた。かつてのギリシア人ポリスに対する場合とはことなり、自治の伝統がある 都市ではないため、王国の直接遅配が行いやすかったのではないかと思われる。なお上部マケドニアの貴族達は皆ペラに集められ て宮廷貴族化していった。一方、住民の移動もしばしば行われ、上部マケドニアの開発はフィリッポス2世の時代にさらに 進められていった。これにより低地地域と上部マケドニアが一つの地域としてまとめられていくことになる


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