インドへの道 〜東征の終焉〜


  • スワート地方の平定〜インドへ
  • 紀元前327年の初夏になり、アレクサンドロスはバクトラを出発した。バクトリア太守には歩兵1万、騎兵3500騎という かなりの大兵力を与えているが、これらの兵士たちはバクトリア各地の既存・新設の都市に入植させられるという形で 残留させられたようである。バクトラからインドに向けて軍が出発したのは春の終わり、夏の初めのことである。バクトラ を出発して、再びヒンドゥークシュ山脈を越えてインドへ向かうことになるが、往路とは別の道をたどって山脈を越えていった ようである。

    インド侵攻へ向かう頃、アレクサンドロスの率いる軍勢の陣容は東征開始当初とはかなり変化していたと思われる。インド 侵攻に向かう頃のアレクサンドロスの軍勢はマケドニアからの増援部隊はすでに絶えて無く、ギリシア人傭兵はおもに都市や太守 領の守備隊として残されていくなかで、東方系住民の兵士の数がかなり増えていたとおもわれる。史料中にもアレクサンドロス が中央アジアを行軍する過程で東方系住民が兵力として採用されている様子がかかれているが、彼は主に騎兵戦力として東方系の兵士 を採用していったのではないかと考えられている。また東征軍を指揮する指揮官たちも東征開始当初はパルメニオンとその一族が主要 な地位を占めていたようであるが、このころになるとアレクサンドロスの側近たちが重要な地位を占めるようになっていた。東征軍 はアレクサンドロスのための軍隊に変化していったようである。

    ヒンドゥークシュ山脈を越えたアレクサンドロスは前329年にヒンドゥークシュ山脈を越える前に山脈の麓に建設した「カウカソス のアレクサンドレイア」(現在のベグラムかチャルカール)に到着した。ここに約半年ほど滞在していたが、任務を果たしていない 司令官の交代、戦闘に耐えられない状態の兵士たちの入植、現地の支配担当者の任命といったことを行っている。半年の滞在中に インド侵攻の準備を整えていたアレクサンドロスは晩秋にここを出発し、スワート地方の平定に向かった。

    ヘファイステイオン とペルディッカスには本隊を率いてカイバル峠を下ってペシャワール平原を進ませてインダス川へと向かわせ、渡河の準備をする ように命じる一方で、自ら近衛歩兵や精鋭部隊からなる別働隊を率いて本隊が進むカーブル峡谷に沿ったスワート地方の平定に 当たることにした。このスワート地方を制圧しないとカーブル峡谷の確保が困難になるためである。スワート地方のアッサケノイ人 やグライオイ人といった現地人たちはアレクサンドロスに対して激しく抵抗し、ある防備集落を攻撃した時にはアレクサンドロス のみならずプトレマイオス、レオンナトスら指揮官たちも負傷したという。

    このようなスワート地方の現地人たちの激しい抵抗 に対してアレクサンドロスは大虐殺を持って応じた。しかしそのような行動は現地人のさらなる抵抗を招いた。激しい虐殺をひきおこ した原因としては、この地域で現地人のゲリラ戦が展開されることは遠征遂行の大きな障害となるため、それを取り除こうとしたため であろう。この地域の防衛拠点としてかなりの規模を誇っていたマッサガという町を攻略し、多数の兵士・住民を殺害した後、 アレクサンドロスはバジラという町に軍を送った。

    バジラの人々がマッサガ陥落の報を聞き、戦うことなくアレクサンドロスに 降伏してくることを期待したようであるが事態は全く異なる方向へと進んだ。バジラの住民たちは「アオルノスの砦」という要害に 立て籠もった。アレクサンドロスはこの砦の攻略に苦労しつつ、カタパルトなどを用いて激しく攻め立て、砦を攻略する体制を 十分に整えていった。それを見た現地人たちは砦を蜂起して逃げ出すことになるが、逃げている現地人たちに対しても砦に攻め込 んだマケドニア軍は激しく攻撃を加えてこれを虐殺したのであった。なお、「アオルノスの砦」はその後のスタインらの探検に よって、「ピル・サル」に同定されている。


    (参考:大牟田章「アレクサンドロス大王東征記」 (上)(岩波文庫)、 森谷公俊「アレクサンドロス大王」、Bosworth,A.B.Conquest and Empire,Canbridge,1995(Canto edition))

  • インド侵攻、そして東征の終焉へ
  • スワート地方平定に半年ほどの時間を費やし、前326年春に「アオルノスの砦」を陥落させたアレクサンドロスはヘファイスティオン らが渡河の準備をしていた地点にまでたどり着き、インダス川を越えることになった。インダス川の渡河が容易に行えたのは この地域を支配するタクシラ王オンピス(以下支配者称号のタクシレスと記す)が友好的な態度をとったためである。彼は前327年に アレクサンドロスがスワート地方平定に入るころから彼に帰順していたインドの有力者の一人であるとされる。

    彼が帰順した理由は インドの他の有力者たちと対抗していく上でアレクサンドロスの力を利用しようとしたためであると考えられている。そして首都の タクシラにアレクサンドロスは前326年初夏に入り、そこにしばらく滞在した。滞在中に「裸の哲学者」との交流があったとされ、 その様子を書き残した資料が残されている。そしてこれらの哲学者の中でカラノスという人物が軍に同行することになったという。 ちなみにこのカラノスという人物は軍に同行してインドからペルシアへ入ったが、パサルガダイ滞在中に発病し、そこで自焚死した という逸話が残されれている。また滞在中に情報収集や現地有力者との接触も怠らず、この地域に割拠する有力者が互いに反目し あったり、手を組んだりしている様子も伝わっていたようである。そのような有力者の中にポロスがいたのである。

    ポロスはヒュダスペス川の向こうを支配する有力者で、タクシラ王とは長年対立関係にあった人物である。アレクサンドロスの ヒュダスペス渡河を妨害するようにポロスは対岸に陣取っていた。軍勢の規模ではアレクサンドロス軍がポロス軍を上回っていたが、 ポロスの軍には200頭の戦象部隊がいたことが問題となった。ガウガメラの戦いですでに戦象部隊は見ていたが、そのときとは比べ ものにならない大部隊を擁していたため、これにどのように対処するべきかが問題となった。アレクサンドロスは宿営地ハランブール から30キロ上流に流れの緩い地点を発見し、連日陽動作戦を繰り返した。そしてポロス側の監視の目がなれてゆるんできた頃に 上流へと軍の大半を異動させてしまったのであった。

    そして前326年初夏のある激しい雷雨の夜、アレクサンドロスは雨が上がるのを待って夜明けに渡河を命令し、 ヒュダスペス川においてアレクサンドロス軍とポロス軍の戦闘が開始された。このときに一気に渡河して有利な体勢をとった アレクサンドロスの作戦行動は、まず騎兵の先制攻撃を行い、ついで正面の歩兵部隊で戦象部隊を攻撃し、その間に宿営地から 直接渡河する予定の軍勢が戦闘に加わり決着をつけるというものだった。

    そして実際の戦闘もそのような展開を見せ、 ポロスの象部隊も象使いが狙い撃ちにされたり、斧よる傷で凶暴化した象が戦列を乱すなど混乱状態になっていった。そして 戦いはマケドニア軍の勝利に終わり、戦いのさなかに傷を負ったポロスはとらえられた。しかし彼は毅然とした態度を崩す ことなく、アレクサンドロスにどのような処遇を望むのかと訪ねられたときに「王として扱ってほしい」と答えたという。 この逸話の真偽は定かでないがアレクサンドロスはポロスの支配権を認め、現地の支配を任せたという。

    ポロスに勝利した後もアレクサンドロスはさらに東へと進んでいった。雨季が近づく初夏にヒュダスペス川でポロスと戦った 後の行軍はかなり遅いものであったという。ポロスの王都に一月ほど滞在してから出発する際に、インドの富について語って何とか 兵士たちの士気を鼓舞しようとしたが、兵士たちの意気は上がらなかったようである。そしてこのあたりの川を越えている 途中で雨季に突入し、兵士たちは雨季の恐ろしさや毒蛇やサソリの恐怖により心理的に圧迫されていった。

    しかしそれでも渡河は続き、 その過程でサンガラというカタイオイ人の町を攻撃した。この時兵士たちは兵士も避難した住民も見境なく虐殺したが、アレクサ ンドロスの軍の損害もかなり大きく、数多くの負傷者を出したという。それでも東へと進み続け、インダス川最後の支流ヒュファシス 川(ベアス川)にまで到達した。ここで川の向こうのインドについての情報をアレクサンドロスは聞くことになる。

    アレクサンドロスに伝えられた情報によると、川の向こうのインドには「マガダ国」という、2000台の戦車、4000頭の象を擁する 軍勢を動かせる王が支配している豊かで強大な国があるという。「マガダ国」はすでに前6世紀後半以降インドの大国の一つとして その名が知られ、現在のガンジス川中流域のほぼすべてを支配し、首都パタリプトラを中心に幹線道路が整備された強力な国家で あったといわれている。しかしアレクサンドロスが侵攻してきた頃は王位簒奪とそれに伴う混乱が生じていたともいわれる。

     マガダ国に関する情報を聞いたアレクサンドロスはさらなる進軍を決意するが、長期にわたる困難な遠征に従ってきた 兵士たちは気力が尽きていた。己の置かれた状況を嘆く者もいれば、断固として進軍を拒否する姿勢を見せる者もいるなど、これ 以上の遠征は拒否する態度を見せるようになった。アレクサンドロスはこの時も雄弁をふるって兵士たちを鼓舞して進軍させよう としたが、この時はそれもうまくいかなかった。

    そのような状況下で、部将コイノスがアレクサンドロスに対しこれ以上の進軍は無理 であるということを説き、兵士たちも共感した。その光景にアレクサンドロスは衝撃を受けて3日間引きこもったが、それでも 兵士たちの意志は変わらず、進軍しようとはしなかった。結局ト占を行った結果前進が凶であるとでたこともあり、アレクサンドロス はこれ以上の進軍を断念したのであった。こうしてアレクサンドロスの東征は終焉を迎えたのであった。

    進軍中止が決まり、アレクサンドロスは記念碑をのこして撤退した。アレクサンドロスの心中は挫折感に満ちていたであろうこと は想像するに難くない。しかし帰還が決まった今は、川を下って西へ引き返すしかなかった。ヒュファシス川から引き返してゆき、 アケシネス河畔にて、おそらくインド侵攻用であったと思われる軍勢と合流し、さらにヒュダスペス川にまでもどった。そして、 前326年11月頃、ニカイア周辺に船を集結させてインダス川を下る大船団が組織された。

    アレクサンドロス自身が率いる部隊は乗船 して川を下る一方、ヘファイスティオン、クラテロス、フィリッポスに部隊を率いさせて陸路でヒュダスペス川とアケシネス川の 合流点へと向かわせた。そして合流点において軍団が集結すると、再び部隊をいくつかに分けるとともに川下りを続行させた。 また、川の流域にはマッロイ人、オクシュドラカイ人ら外部からの侵入者に対して激しく抵抗するインド系住民たちがいたが、 これらインド系の住民の抵抗に対して、最初から殲滅戦の方針で望み、その結果川下りの過程で、流域各地で大規模な虐殺がおこ った。

    しかしこのころのアレクサンドロス軍の兵士たちの士気は低下の一途をたどっており、アレクサンドロスが督励することで なんとか戦い始める有様であった。東征初期の頃のマケドニア軍とは全く異なる状況がここに来てみられるようになった。そして、 そのことが大変な事態を引き起こすことになる。

    川の中流域に勢力圏を持っていたインド系のマッロイ人最大の拠点を攻撃しているとき、アレクサンドロスが 強襲突入を命じたが兵士たちは戦意を示さなかった。これに対してアレクサンドロスは自らはしごをよじ登って砦へ攻め込んで いった。兵士たちはそれでもなかなかついてこなかったが、アレクサンドロスが敵の標的になっているのを見るとさすがに見ている 訳にもいかずようやく攻め込んだ。しかしこの時にはしごが壊れ、アレクサンドロスは敵中孤立してしまった。

    その時の彼の行動は 敵の中に飛び込み、戦うというきわめて自暴自棄に近いような行動であった。そしてこの時に敵の矢が胸に当たり、 アレクサンドロスは昏倒してしまった。この時は間一髪の所でマケドニア軍がなだれ込み、報復として住民の虐殺にはしったという。 アレクサンドロスの傷は深く、一時は死亡説も流れたほどであったが一命を取り留めた。その後の行軍は住民の大量虐殺の 連続となっていったという。このような大量虐殺を繰り返して現地のインド人たちを平定しながら川下りを続け、インドス川へむけて 川下りを続けていったのであった。

    その過程でムシカノイ人の土地に入り、ここでムシカノイ人の王が服属してきた。しかし一旦 服属したムシカノス王は突然アレクサンドロスに反旗を翻した。しかしムシカノスの反乱はアレクサンドロスが送った討伐隊により 鎮圧され、ムシカノスはとらえられて処刑された。このような出来事が続く中で、アレクサンドロスはインドス川の大三角州の頂点 であるパタラに前325年夏に到着したのであった。

    一方、ムシカノスの反乱を鎮圧した後、アレクサンドロスは軍の副将格となって いたクラテロスを指揮官とする別働隊を編成して送り出した。クラテロスの別働隊はインドス川主要渡河地点スックルから、まずは カンダハルを目指した、そしてアラコタイ人、ドランガイ人の地を抜け、カルマニアに出て、そこでアレクサンドロス率いる本隊 と合流することになる。この別働隊が送られた理由として、当時イラン東部の諸州にて不穏な動きが見られるという情報が伝えられ ていたことが関係するようである。この別働隊は山脈や砂漠を縦断・横断していったため、かなり困難な行軍となったようだが、 アレクサンドロス率いる本隊もこの後、別働隊と同じくらい、あるいはそれ以上の難行軍をすることになる。


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