最果ての地にて 〜蜂起と軋み〜


東へと遠征を進めるアレクサンドロスに対して、征服されたソグディアナで彼に対する大規模な抵抗が組織された。 その鎮圧にはおよそ2年の年月を費やすことになる。またこの時期はマケドニア軍内部でも様々な問題が生じてきた 時期であり、東方化する王とマケドニア人の軋轢が大きくなりつつあった。

  • スピタメネスの蜂起
  • ソグディアナに逃げ込んだベッソスは仲間の裏切りによりアレクサンドロスに引き渡され、ほどなく身柄 はバクトラに移され、そこで処刑された。ベッソスを引き渡したのは引き渡したのはオクシュアルテスと スピタメネスというベッソスの部将たちであった。ベッソスをとらえた後のアレクサンドロスは、さらに ソグディアナを北上してマラカンダ(今のサマルカンド)に無血入城し、さらに北方のヤクサルテル(今 のシルダリヤ)方面へ進軍した。この地域において、糧秣調達にでていたマケドニア人が原住民に殺され たが、これが大反乱のはじまりとなった。

    この時は3万人もの原住民が切り立った山に隠れ激しく抵抗し、 アレクサンドロスは部隊を率いてこれを鎮圧しようとした。原住民から激しい反撃を受け、彼自身も臑を 貫通すして脛骨を砕かれるほどの重傷を負うが、結局相手の拠点を制圧することに成功した。この時原住 民の多くは自決し、立てこもった3万のうち生き残ったのは8000人にすぎなかったという。その後「さい はてのアレクサンドレイア」(今のレニナバードと推定)を建設し始めるが、それからまもなくスピタメ ネスの蜂起の知らせが伝わって来た。

    ソグディアナで反アレクサンドロス闘争を指揮した人物はソグディアナに逃げてきたベッソスを引き渡した スピタメネスであった。彼は表だっては抵抗しなかったが裏では着々と反アレクサンドロス闘争を組織 しつつあった。彼はソグディアナ、バクトリアの自然と人間を最大限に活用して戦うことを考え、またマケド ニア軍が奇襲の裏をかいたりそれを防ぐ準備がされていないことを理解していた人物でもあった。

    そこで彼が 導き出した結論は、正面からマケドニア軍と戦うのではなく、ゲリラ戦と奇襲によってアレクサンドロスに立 ち向かうというものであった。そして彼はソグディアナ、バクトリアを舞台に1年半にもわたり、民衆を組織 してゲリラ戦を展開して、アレクサンドロスに抵抗しつづけることになる。ソグディアナ、バクトリア各地に 駐留するマケドニア守備隊を襲撃し、サマルカンド救援に向かったマケドニア軍を壊滅させるなどしばしば マケドニア軍に打撃を与えた。

    マケドニア軍がやってくると姿を消し、彼らが待ち受けていないとみると再び 姿を現して各地の都市や洋裁に駐留するマケドニア軍に対して激しい攻撃を加え、マケドニア軍を苦しめた。 スピタメネス蜂起に応じてソグディアナでも原住民の抵抗が激化してゆくが、これに対するアレクサンドロス の報復はきわめて過酷なものであった。彼に対して抵抗したソグディアナのガザ、キュロポリスといった 都市を攻略すべく激しく攻め立て、これらの都市を陥落させたのちに破壊したという。この時に陥落した キュロポリスの住民で生き残ったものたちは、建設途中のアレクサンドレイアの住民とすべく強制的に移住 させられた。

    前329年に始まったスピタメネスの蜂起に対して、アレクサンドロスは当初有効な手を打てなかった。しかし 前329/8年の冬営中に西方から送られてきた多数の増援部隊(ギリシア人傭兵が主)が到着し、これによって スピタメネスに対して戦う体制を整えていくことが可能となった。部隊編成をゲリラ戦に機動的に対応できる ように編成していったのではないかと考えられている。

    またこのころ、スキタイ人の使節が度々来訪 して協力を申し出ている様子が書かれた資料も見られることから、現地のスキタイ人たちの一部を自軍の味方 につけることに成功しつつあった。スキタイ人たちを味方につけられるようになることで、今まではスキタイ 人の軍事力をスピタメネスに独占されていたが、これからはマケドニア軍もこれらの軍事力を利用できる体制 が整っていくことになる。

    そして前328年春にはいると、全軍を5つに分けてマラカンダへ進出し、ソグディアナ 平定へと向かったのであった。「ソグディアナの砦」という要塞を攻略し、さらにスピタメネス掃討作戦も うまく展開され始めた。スピタメネスはこのころもゲリラ戦を展開していたが、現在のメルブ方面での作戦活動 を終えて帰還する途中にクラテロス率いるマケドニア軍に遭遇し、ここで敗北を喫した。これ以降スピタメネス の勢力は衰えを見せ始めることになる。

    また、このころのマケドニア軍の作戦活動はスピタメネスに荷担した 地域の徹底的な破壊と虐殺を行うというものであり、これによりスピタメネスが現地の人々の協力を得にくくして いこうとしたようである。さらに前328年秋〜冬ころにもアレクサンドロスによるソグディアナの作戦活動は続き、 各地の拠点が攻略される中で、結局スピタメネスは仲間の裏切りにあい殺害された。こうしてスピタメネスは死んだが、 ソグディアナの反乱そのものはそれからもしばらく続くことになる。

  • 東方政策と軍中のきしみ
  • スピタメネス殺害後も不穏な状態は続いたが、前328/27年の冬営期には軍事的脅威から解放され、属州行政の綱紀に 目を転ずる余裕がでてきた。この時に太守の何人かを交代したが、この時も東方人が多く用いられた。さらにアレク サンドロスが最初の結婚をしたのもこのころである。結婚相手はバクトリアの豪族で「ソグディアナの砦」を守備し ていたオクシュアルテスの娘ロクサネであった。東方人の太守を任命したり東方系の妻をめとるということは、東征 を遂行するためには現地の有力者となるべく対立を起こさぬ方がより良く遠征を進めることができるという考えのもと で行われたことであろう。

    しかし東征遂行・征服地支配のために行っているこれら東方政策はマケドニア軍将兵や部下 の間に様々な不満を生み出していく。すでにフィロータス事件において東方政策に批判的とみられた貴族たちが弾圧 されるという事態が起きていたが、それでもマケドニア人貴族・将兵のなかに王の東方政策に批判的なものたちは存在 した。そしてソグディアナ・バクトリアの蜂起が続くこの時期にそれが表面化するのである。

    まず最初に、前328/7年の冬営に入る頃、マラカンダにおいて開かれた酒宴で「クレイトス刺殺」事件は起こった。 アレクサンドロスと王の仲間でありグラニコス川で彼を助けたクレイトスの間で激しい口論がおきた。彼が ぶつけた非難はアレクサンドロスが今まで尊重してきたマケドニアの伝統や慣習を放棄して東方化していくこと、彼が 東方系の人々と協調していることに対する非難であった。これはつまるところ現在アレクサンドロスが進めようとして いる政策そのものへの非難であり、アレクサンドロスはクレイトスの非難に怒りを覚え、衛兵から槍を取り上げて彼を 刺殺してしまったのであった。

    マケドニア人の王らしくない、まるでペルシア人の王のようになっていくアレクサンドロス に対するマケドニア貴族の不満が酒宴の場で噴出したのであった。クレイトスを刺殺した後、我に返ったアレクサンドロス は自らののどを槍で突いて死のうとしたり、しばらく引きこもって表に出てこなくなるなどの行動をとったことから、 個人的には後悔の念はあったようである。しかし、この出来事が彼の方針を変えるということはなく、東方政策はその後も 実施されていく。

    さらに東方政策を進めるアレクサンドロスとマケドニア貴族・将兵らの間の軋轢を生み出す事件が前327年春に起きた。 ロクサネと結婚し、バクトラへと帰還した前327年春の酒宴においてアレクサンドロスは「跪拝の礼」の導入を試みた。 ペルシア宮廷では王に対し謁見する際に「跪拝の礼」をとる習わしになっていた。一方でギリシア・マケドニア人の 間では人間相手に跪拝の礼をとることは人としての誇りを傷つける行為であるとみなされていた。東征中に服属した ペルシア人貴族たちがアレクサンドロスに跪拝の礼をとる姿はギリシア人やマケドニア人にとって嘲笑の的であった。

     しかしペルシア帝国の継承者として王の威儀・権威を示し宮廷を維持していくために跪拝の礼導入を試みたのであった。 このときはアレクサンドロスの従軍史家でアリストテレスの甥カリステネスがこれに対して異議を唱えたため結局失敗 に終わった。だが、カリステネスにとってこの行為は命取りとなった。その後まもなくアレクサンドロスの近習たち が彼に狩猟の場で叱責されたことに腹を立てて暗殺をたくらみ、未遂に終わるという出来事がおきた。カリステネスは 当時近習たちの教育に携わっていたが、近習たちによるアレクサンドロス暗殺の陰謀に加担したというぬれぎぬを着せられ 逮捕された。その後彼は処刑されたとも行軍中に引き回される中で病死したともいわれるが、この出来事も東方化を 進める王とそれに対する反発という構図が見て取れる。

  • インドへ
  • このように前329〜327年の春にかけての時期はアレクサンドロスの東征期間中でもきわめて多難な時期であった。軍中では 東方政策に対する不満があり、征服したソグディアナ、バクトリアでは彼に対する武装蜂起が起きていた。しかし前327年 にはいると武装蜂起はようやく鎮圧され、軍中における東方政策への不満も何とか抑え込むことができた。このような出来事 ののち、アレクサンドロスは前327年の春の終わりになって、バクトリアに歩兵1万、騎兵3500騎を駐留させて出発し、 再びヒンドゥークシュ山脈を越えてインドへと向かうことになるのであった。


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