帝国の継承 〜新たなる支配者〜


  • ペルセポリス炎上
  • 前330年1月、アレクサンドロスはついにペルセポリスへ入った。ペルセポリスに入ったアレクサンドロスは将兵たちに この都市の略奪を行うことを許した。王宮の周りに広がる都市部において大規模な略奪が行われ、一般住民も巻き添えになった。 バビロンやスサでは略奪が禁じられていたがペルセポリスでは大規模な略奪が行われた背景には、東征軍がバビ ロンまで到達した時点で兵士たちがやる気を失っていたため、さらなる富の獲得という動機付けが必要であったことや、 今まで略奪を禁じていたことから将兵の不満が募っていた可能性があることが指摘されている。

    アレクサンドロスはペ ルセポリスに4ヶ月ほど滞在し、その間にペルセポリスに納められていた財貨(12万タラントンの銀)を接収した。 (バビロンやスサでも財宝の接収は行ってきたが、これらの財貨はあとでエクバタナに運ばれた。)また、ペルセポリ スに入って間もない頃にパサルガダイも占領し、そこの6000タラントンの財貨も獲得することに成功した。パサルガダ イにはペルシア帝国の開祖キュロス2世の墓所があり、この都市自体もキュロスとゆかりの深い都市であった。アレク サンドロスはパサルガダイを訪問し、キュロスの墓を訪ねている。

    4ヶ月間にわたりマケドニア軍はペルセポリスに滞在していたが、アレクサンドロスはその間もペルシス地方奥深くへと 遠征に出かけて、マルドイ人という民族を征服している。そして5月末にエクバタナに当時滞在していたダレイオス3世を 追撃するべく出発するが、出発直前にペルセポリスの宮殿に火をかけてこれを燃やしてしまった。

    ペルセポリス炎上を 巡っては様々な議論が出されているが、近年注目されているのが、ペルシス地方のペルシア人に対する懲罰とする説である。 ペルシス地方のペルシア人たちがアレクサンドロスになかなか従わないため、彼はペルセポリスの宮殿を燃やし、自らが新 たな支配者であることを示そううとしたのだという。かつてテーバイが反抗したときにはこれを徹底的に破壊して他の ギリシア世界への威嚇としたように、ペルセポリス炎上は少なくともペルシア人への威嚇としての意味は十分に持ちうる行為 だったのではないか。


  • ダレイオスの死と帝国の継承
  • 前330年5月末、アレクサンドロスはダレイオスを追撃してメディア地方へ入り、エクバタナという町に到着した。そして そこでアレクサンドロスは東征軍を解散した。これによりギリシア人のペルシアへの復讐戦争という大義名分は消え去っ たのであった。一方でダレイオスの側でも事態はかわりつつあった。ダレイオスと部下の間で不和が生じ、ベッソスやナ バルザネスといった部下たちがダレイオスから離反し始めたのである。

    そして彼らはダレイオスをとらえ、その年の夏に ダレイオスを殺害してしまった。こうしてアケメネス朝ペルシアの王ダレイオス3世はその生涯を終えたのであった。そ してベッソスは自ら王を称するようになるが、このことはアレクサンドロスにとっては非常に都合のよいことであった。

    ダレイオスを追撃していたアレクサンドロスが追いついた時点でダレイオスは殺されていたが、これによりアレクサンド ロスはダレイオスを殺したベッソスに対してダレイオスの仇を討つという大義名分を得ることができたのである。そして ダレイオスの遺骸はペルセポリスに送って盛大な葬儀を挙げたという。アレクサンドロスは王位簒奪社の汚名を着ること なく、アケメネス朝の名を使ってベッソス追討の軍を進めていくことができるようになった。

    一方、アレクサンドロスの 軍勢の間ではダレイオスが死んだことにより、遠征はこれで終わりであるという噂が広まっていた。これに対してアレク サンドロスは兵士たちを集めて士気を鼓舞する演説を行い、兵士たちの間に熱狂を引き起こして東征を続けさせることに 成功した。こうしてアレクサンドロスは「ペルシアへの復讐戦争」ではなく「アレクサンドロスのための戦争」を戦う態勢 を作っていったようである。


  • 東方との協調路線
  • ダレイオスの殺害はペルシア貴族の間にも動揺を引き起こし、アレクサンドロスに投降してくるペルシア貴族も多数現れた。 彼はそのような貴族たちを征服地の支配に利用していった。太守としてはペルシア人など東方系の人間を任命することが多 くなるのもこのころの傾向である。またアレクサンドロスがペルシア宮廷の儀礼を取り入れたり、ペルシア風の服装をし始 めるのもこのころの出来事である。このような傾向をマケドニア人将兵は快く思わず、このことがやがて内部での様々な対 立を生み出していくことになる。

    アレクサンドロスは自ら王を称しているベッソスを撃つべくバクトリアへ向かっていたが、 彼に帰順したペルシア貴族のサティバルザネスが彼の背後で反乱を起こした。これを鎮圧した後、アレクサンドレイアを建 設し、これが現在のヘラートの町のはじまりとなる。アレイアの反乱を鎮圧した後、ドランギアナ、アラコシアといった現 在のアフガニスタン一帯を制圧しながらバクトリアへと進軍していった。サティバルザネスの裏切りはあったものの、これ らの征服地においても彼は東方人の太守を残している。東方との協調路線は一部の裏切り者が現れたからと行って放棄する ことは困難であったとおもわれる。

    しかしアレクサンドロスが推進する東方政策へのマケドニア人将兵たちの不満はさらに募っていた。そのことが「フ ィロータス事件」という事件を引き起こすことになる。バクトリアへ向けて遠征している途中、アレクサンドロス暗殺の陰 謀があったという話が伝わり、そのときに騎兵隊総指揮官だったフィロータスはその情報を知っていながら彼に伝えなかっ たという情報も伝えられた。これによりフィロータスはとらえられ、拷問にかけられ、裁判の結果反逆罪で処刑されること になった。

    フィロータス事件は彼の処刑にとどまらず、彼の父であるパルメニオンの暗殺にまで発展した。東征軍中 で大きな権勢をふるうフィロータス、パルメニオンといったマケドニア人貴族は、アレクサンドロスにとってみれば新たな 路線をとる上で障害となる存在であり、フィロータス事件とパルメニオン暗殺はそうした障害を排除しようとして起きた事件 であったようである。しかし王の東方化に対する貴族の不満はそれで耐えることはなく、この後もしばしば表に現れてくる。

    このような状況下でバクトリアへの遠征は続き、アラコシア地方ではカンダハルの元になる都市を築いたという。そして その年の冬にヒンドゥークシュ山脈南麓に到達し、翌年の前329年春に6000メートル級の険峻が並ぶヒンドゥークシュ山脈超え に挑み、標高3000メートルを超える峠などがある山道を17日かけて超えてようやくバクトリアへと到着した。バクトリア に到着した東征軍はかなり弱っていたが、ベッソスの無策に助けられた。ベッソスは中途半端な焦土作戦をおこなっただけで バクトリアの防衛をあっさり放棄し、バクトリア騎兵たちも彼を見捨てて四散した。

    バクトラなどの要所も含めてバクトリア の地をほとんど抵抗らしい抵抗を受けることなく平定したアレクサンドロスは、ソグディアナへ逃げたベッソスを追撃した。 結局ベッソスは仲間の裏切りによりとらえられてアレクサンドロスの元に引き出された。そしてアレクサンドロスは彼 をエクバタナに送り、彼はそこで処刑された。さらに北上してマラカンダ(いまのサマルカンド)を征服した。この間ほとんど 抵抗らしい抵抗はなかったのであるが、これは嵐の前の静けさにすぎなかった。 まもなくソグディアナは現地の豪族たちが指導する反アレクサンドロス闘争の舞台となるのである。


    メソポタミア、イラン、中央アジアにおける東征軍の進 路
    (参考:大牟田章「アレクサンドロス大王東征記」(上)(岩波文庫)、 森谷公俊「アレクサンドロス大王」)

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