東征開始 〜小アジア 制圧〜


  • 東征への出発
  • マケドニア王国北部の諸民族、南部のギリシア・ポリス世界に遠征して情勢を安定させると、アレクサンドロス は東征の準備に取りかかった。東征軍はマケドニア軍を中心にコリントス同盟加盟諸ポリスから供出される兵士、 傭兵、バルカン諸民族の兵士達から構成された。しかしこれだけの規模の軍勢を維持するにはそれなりの準備が 必要であるが、その維持のためにかなりの苦労を強いられることになる。なぜなら、アレクサンドロスが即位し た当初、マケドニアの財政はフィリッポスによる国土開発で収入が増えたにもかかわらず赤字であり、莫大な借 金を抱えていたからである。フィリッポス2世が外交工作や傭兵の雇用などで出費を重ねた結果、即位直後のア レクサンドロスに残された借金が500タランタにもおよんだのであった。

    そのような状況下でアレクサンドロスは、王国の貴族達に王領地や港湾から収入を得る権利などの王家の財産 を売却して遠征費用に充てたという。この時、あまりにも気前よく王家の財産を売却する様に不安を覚えた 側近が王自身のためには何を残すのかと訪ねると、「希望だけだ」と答えたという話がある。真偽のほどは定か ではないもののこの話はこれから大事業に乗り出そうとする若い王の意気込みのようなものが感じられる話である。 しかし、アレクサンドロスは東征という大事業の遂行のみを考えていて、他のことにはあまり関心を払っていなか ったようである。

    東征出発前、アンティパトロスやパルメニオンといったマケドニアの老臣たちはアレクサンドロス が結婚せず世継ぎも残さずに東征に出ることに反対したが、アレクサンドロスは取り合わなかった。王家の財産を 売り払ってしまったことは費用調達のために必要だと言うことで説明がつくが、後継者の問題に関して無関心で あるということは万が一の場合を想定していないということでもあり、当時のアレクサンドロスは王国の統治者と してかなり無責任であったとも言える。一方で自分の目標を達成するためには万難を排し、周りの事を一切顧みな いという彼の強烈な性格がかいま見える話でもある。そして準備を整えると、前334年春にアレクサンドロスは マケドニア・ギリシア連合軍を率いて東征に出発するのであった。

  • 小アジア上陸
  • 前334年に出発したアレクサンドロス東征軍はアンフィポリスから20日ほどでヘレスポントスに到着した。海峡 を挟んで向こう側にはペルシアがある。しかしこの時ペルシア側はアレクサンドロスの上陸を阻止するような行動は 取らなかった。しかしアレクサンドロスもペルシアが海峡横断を妨害してくるとは考えていなかったような節がある。 ヘレスポントス到着時のアレクサンドロスの行動はそのような事態を想定していたとは考えにくいためである。海峡 での遠征軍輸送はパルメニオンに任せ、自らはわずかな部下と共にかつてトロイア戦争がおこなわれたトロイア へと向かっていった。

    彼は完全武装した姿で船の舳先に立ち、トロイアへ近づくと船の上から槍を投げ、突き刺さった 土地は征服地であると宣言した。また上陸後にはイリオンの神殿を訪ね、トロイア戦争当時の武具を譲り受け、アキ レウスらトロイア戦争の英雄達の墓に花を供えた。トロイア戦争の英雄達のもとを訪ねたところから、伝説の英雄達 に自分を重ね合わせようとする彼の心情が伺える。神話の英雄や神々の行動をまねたり、それを超えようとすること はこれから後の遠征でもしばしば見られる行動である。

    小アジアに上陸してきたマケドニア軍とペルシア軍が激突した最初の戦いはグラニコス河畔でおこった。小アジアの 太守たちはギリシア人の傭兵隊長メムノンの主張する焦土作戦ではなく、真っ正面からこれを迎え撃つことを選択した。 東征軍は遠征開始当初、一ヶ月分程度の食料やわずかな蓄えの貴金属(古銭学などの成果によると三ヶ月分と推定される) しか備えておらず、もしメムノンの作戦が実行に移されていたならばアレクサンドロスは糧食や戦費が不足して苦境に立た されることは確実であったが、ペルシア貴族達は焦土戦は自らの所領が被害を受けることからそれを認めなかったため である。グラニコス河畔の戦いでは、アレクサンドロスは右翼の騎兵部隊を率いて先頭に立って切り込んでいった。

    しかし彼の風体は敵からも目立っていたために攻撃の標的となった。グラニコス河畔の戦いでは、アレクサンドロスと ダレイオス3世の娘婿ミトリダテスの一騎打ち、そしてアレクサンドロスが危機に陥った時に部下のクレイトスにより 助けられた場面が華々しく書かれている。戦いは一気に川を渡ったマケドニア軍が勝利し、ペルシア軍は数多くの部将 が戦死し、残されたギリシア人傭兵部隊もマケドニア軍により投降を認められず多くの死者を出した。グラニコス河畔 の戦いで勝利を飾ると、アレクサンドロスは捕虜としたギリシア人傭兵を本国に送って農業奴隷としたほか、ペルシア軍 の甲冑をアテナイのアテナ神殿に奉納した。神殿への甲冑奉納はアレクサンドロスとギリシア人の名義で奉納を行い、 この戦争がペルシアへの復讐の戦いであると言うことを強調し、それを宣伝したのであった。

  • 小アジア平定へ
  • グラニコス河畔の戦いで勝利した後、アレクサンドロスはサルディスやエフェソス、マグネシアを支配下に置き、アイ オリス地方、イオニア地方へ入った。小アジア諸都市でで僭主政治を民主政治に改めていくが、ペルシア寄りの僭主 達による支配をやめさせることで、ペルシアからの解放者としての立場を明確に示していった。アレクサンドロスの こうした行動は多くの都市では歓迎されたが、ミレトスやハリカルナッソスはアレクサンドロスに対して抵抗する意 志を示した。ペルシアの救援が来ることを知り、彼らは都市明け渡しではなく抵抗することを選んだのであった。 当時、ペルシアの勢力はなお強く、特に海軍力ではマケドニア海軍よりも強力であった。アレクサンドロスは救援が来る 前に攻略するべく急遽ミレトスに向かい、港を閉鎖してこれを攻略した。

    ミレトス攻略後、アレクサンドロスはハリカルナッソスへ向かうことになるが、ミレトス攻略直後に彼は艦隊を解散 してしまった。艦隊は維持費がかかるわりに戦力として期待できないためこれを解散したが、港をすべて押さえて ペルシア艦隊の活動を押さえようとしたという。しかしこの決断は誤りであった。以後ペルシア艦隊は小アジア、 エーゲ海で何も邪魔されることなく暴れ回り、アレクサンドロスは艦隊解散から半年後に再び艦隊を作ることになる。

    ミレトスと共に反抗したハリカルナッソスはさらに手強い相手であった。グラニコスの戦い後にこの町に逃れてきた メムノンはこのころダレイオスから小アジアの防衛を任されるようになっており、彼は長期の包囲戦に備えて防備を 固めていた。都市の守りを固めて時間を稼げばペルシア軍の総反撃の準備も整うということも計算に入っていたであ ろう。そしてアレクサンドロスはハリカルナッソスではじめて強固な防備を備えた都市を相手に戦うことになったの である。

    ハリカルナッソス攻略のために彼は攻城機を投入し、城壁を崩して進もうとするが抵抗は激しく、攻城機は焼かれ、 城壁を崩して攻め込んでももう一重の城壁があり攻められて損害を出すなど苦戦を強いられた。さらにメムノンは市街 地に火を放って近くの島や外城に分散して抵抗を続け、結局根負けしたアレクサンドロスは焦土と化した市街を占領し てこの都市を落としたことにして先に進むことになった。なお、ハリカルナッソスが完全に陥落するのはおよそ1年後 のことである。

    遠征開始1年目の冬が迫る中、アレクサンドロスは出征が始まるころに結婚した若い兵士達に一時帰国を認めた。 パルメニオン率いる本隊はサルディスに引き上げて休息を取り、アレクサンドロスはカリア、パンピュリア地方を平定 して回った。冬の間に沿岸部を制圧してペルシア艦隊を押さえようとしたのであった。そして平定後に内陸に向かい、 東征軍の再集結予定地ゴルディオンへ入ったのである。この地においてゴルディオンの結び目というそれを解いたものが アジアの支配者になるという伝説をもつくびきと紐があり、彼はそれを一刀両断にしたという。ゴルディオンにおいて サルディスにいたパルメニオンの部隊と本国に帰っていた兵士達が合流し、アレクサンドロスは前333年初夏にはゴル ディオンを出発し、カッパドキアやキリキアを平定していくのであった。


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